ワールドエンドジュブナイル後日談
マルヤ六世
どうか、ワルツを
雑踏の中、表皮を滑る風が痛いほど冷たかった。
昨晩からずっと、耳の奥で鈴虫の声が鳴り止まない。助けてくれよと気軽に言える情けない俺なのに、助けさせてほしいことを言えずにいる。
手をつなぎたいなんて一言も、言えずにいる。
急激に気温が下がった。
天気予報では今日も二十七度まで上がるという話だったが、夜でも三十度を超えることが当たり前になっていた市民たちは季節の速度に取り残されている。なんとか収納の奥から長袖を引きずり出したんだろう。アイロンのかかってない、縒れた上着を羽織っているやつらがやたらと目立っている。その点、アロハシャツを着ている俺はおそらく悪目立ちなんてもんじゃないけど。商機を逃すまいと、コンビニではおでんのセールを行っている。逞しいもので、焼き芋の屋台まで出ていた。
夏の終わりはこうやって突然訪れるらしい。日差しが落ち着いたせいか、体感だとずいぶん涼しく感じる。噎せ返るような重い湿気と、ぼやけて歪んだ夕日の沈む赤のコントラストに辟易した昨日は、まるでどこか遠い昔のようだった。七箱呑まれた日の夕焼けってのは、なんであんなに物悲しいんだろうか。あーあ、蛍の光が流れるまで店にいられりゃ巻き返せたかもしれないのに。なんて、茶化せるうちはまだ大丈夫だと思いたかった。
俺たちオーヴァードは、半分人間を逸脱している。
埒外の力を自覚し、それを制御することに慣れた頃にこそ警戒が必要だった。誰でも、いつでも狂気の向こう側へ転がり落ちる可能性がある。そこに例外はない。俺たちは感情に巣食うものがいることを念頭に置いて、餌をやらないようにと煩いくらいに言い聞かせて生きている。激情に身を任せて特別な力を行使しないように、万能感に酔いしれないように。
でも、鬱屈を抱えるほど戒めてもよくないのも事実だ。そうやってチルドレンが支部を脱走したことは記憶に新しい。人間なんて、感情を殺せば不満が膨らんでどこかの限界ではち切れるように出来ている。だから緊張と解放をバランスよく保って生活しなきゃならなかった。日常と非日常の境界線の、真上に立って。
ただ単に綱渡りしてる道化師ってだけならなにも問題ない。落ちて死ぬのはそいつだけで、観客には関係ないからだ。でも、その道化師が綱渡りしてなきゃ人を殺す病気を患ってるなら話が別ってことだな。
長袖にすべきだったかもしれない、と腕を擦った。剥き出しの肌を抉るような鋭利な空気に鳥肌が立っている。さすがに気温の変化にブチ切れてジャーム化するほどまで追い込まれちゃいない。それにしたって、たぶん俺は着込んでくるべきだった。朝方まで続いた仕事の後、シャワーを浴びて漫画喫茶なんかで眠るんじゃなくて、家で惰眠を貪るべきだった。疲労の蓄積を鑑みるにそれが最適なんだろう。
それなのに、まるで取り憑かれた亡霊みたいに支部に向かおうとしている。だから、半袖しか着替えがなかった。だから、この肌寒さで昨日の映像がサジェストされちまう。
冷えた耳が痛い。肌を切りつけるような風は、どこかハヌマーンの限界を超越した疾駆を思わせた。ちょうど数時間前、その強烈な一撃を食らったばかりの皮膚にはどこにも傷がない。やれやれ、俺ってやつはほんとうに便利で都合がよくて、参った存在だった。
血と脂が匂い立つ路地裏が、鮮明に再生される。狂った調律の鼻歌に導かれ、足元から路地の向こうへと延びる長い紐状のそれを最低の目印にした。そのまま、記憶のどの曲にも該当しない歌へと躙り寄っていく。
応援を呼ぶべきだったが、誰にも声はかけられなかった。密偵にその権利はなかったし、それで助かったのも事実だった。今、支部で暇を持て余しているのは戦うために教育されてきたチルドレンばかりだ。悪意に満ちたこんな現場、子供であることを取り戻しつつある彼らには見せたくない。それに、これは俺がやらなければならないことだと思うくらいには、腸が煮えくり返っていた。
体表を滑る風に燃えるような赤髪を靡かせ、夕日を逆光に浴びながら、人形のようなささやかな作り笑いで女が振り返った。その病名は速さと音の支配を誇示するものであったが、女はひどくゆったりと風と触れ合っていた。夕闇を揺蕩うように、人間だったものの皮膚を小ぶりな果物ナイフで剥いている姿は、とっくに常軌を逸しているらしかった。まるで、途切れることなく長く皮を剥ければなにかいいことがあるかのように、満足げな顔で女は俺を振り返る。
「久しぶりだな。俺のこと覚えてるか?」
待ち合わせに違う男が来たみたいな顔で、女は口元を歪めた。瞬時に警戒態勢を取る彼女が振ったナイフから、数滴の血液が飛び散る。あまりに明確な攻撃の意志表示だった。速度が上乗せされた液体は岩をも断ち切ることを知っている。モロに浴びるわけには行かないが、相手はハヌマーンだ。頭ではわかっていても体は避けきれない。咄嗟に聞き手を庇うように半身の体制を取ったものの、簡単に小指を吹っ飛ばされた。
「かわいい顔して、ひでーことしやがる」
人が痛がっているのを見て、なにがおかしいのか女が吐息で笑う。白衣に包んだ体を抱きしめるように身を捩らせて。ハイヒールを小気味良く鳴らして。うっとりとした熱っぽい目が、溢れる赤を追っている。
こんなにわかりやすい煽りに乗ってやるつもりはなかったが、瞬間的に血が沸騰した。馬鹿野郎。全然似てねえだろ。誰だよ、クソみたいな情報を寄こしたやつは。敵意を懸命にラッピングして、俺は詐欺師の笑顔でへらりと笑った。
「どうしたんだよその恰好は。ハロウィンには早いだろ。いつもの白とかピンクとかのワンピースの方が似合ってたぜ?」
女は答えない。だが、ヤクザ者みたいになった俺の小指を見たことでいくらか機嫌は直ったらしい。そりゃよかった。女の子はご機嫌な方がいいからな。そのまま薬指も視界の端に切り飛ばされたが、悲鳴なんざ上げてやるほど俺はサービス精神旺盛じゃない。こっちはとっくにキレてるんだ。同じところまでまず、落ちてきてもらわないとな。
だが、対戦カードは最悪だった。俺の攻撃手段はチャチな拳銃の一丁だけ。軍用モデルではあるが、そんなものがお守りになるのは一般人と対峙した時か、頼れる味方のいる時くらいだ。ハヌマーン相手にこの銃弾が届くなんて楽観的になるには、ノイマンの思考回路はちょっとばかし理性的すぎる。最初から、分の悪すぎる賭けだった。
「エウヘニア〈宮廷調理士〉の料理にしちゃ、ちょっと独創的すぎて人を選ぶぜ、こりゃ」
奥歯でクラッチを踏みながら、女は俺を睨みつける。芸術性を否定されたことに激昂してか、ようやく俺にナイフの切っ先を向ける気になったらしい。なるほど、お前の沸点はここか。無視を決め込むのも結構だが、生憎そっちの態度のすべてが俺にとっては情報源だ。
だから、わかる。それは決して殺すなんていう生ぬるい合図ではない。そのつもりなら、俺は口を開く間もなく切り刻まれてミンチになっていたはずだ。これから拷問が始まるのだと、読めてしまった。すっかり膾になることを受け入れた俺は、他人事みたいに空を見上げる。烏が帰るはずの夕暮れを、鳩が三羽、とぼけた顔で飛んでいった。下処理みたいに自分の体に切れ目を入れられながら、俺はぼんやりと買い逃している漫画雑誌のことを思う。どうすんだよ、今日のにハンターハンターが載ってたら。できればこいつのしごとが早くて、今日中に俺を料理し終えてくれたらいいんだが。
まあ、気長に待つさ。俺だって、ついさっきお前を殺す決心がついたことだしな。
──現在は日本支部に在籍しているエージェント、コードネームはエウへニア。これは、彼女がN市の情報屋を次々に襲った連続殺人および遺体損壊事件の概要になる。
この半年ちょいの間、俺はほとんどこの案件に掛かりっきりだった。春から始まったこの悍ましい犯行は、秋まで間隔を空けて計四人の死者を出した。手口は同じく、生きたまま皮を剥がれたことによるショック死。そのあまりにも壮絶な事件現場は、当初彼女を追っていた腕利きのエージェントたちに軽々と膝をつかせ、胃液をしこたま吐かせて病院送りにするほどだったらしい。
まあ、死なんていくら見ても慣れるようなもんじゃない。戦場でゲロ吐くくらいのこと、俺にだって経験はある。情けないだなんて思わない。それでも、いくらなんでも全員がそうなるっていうのは異常だった。その話を聞いただけで、これが相当にヤバい
エージェントたちがようやく尻尾を掴んだのは夏の始まりだったが、犯人は現場からハヌマーンお得意の全力疾走で逃げ切り、その後は息をひそめて完全に隠れてしまった。で、ここから最悪だ。接触したエージェント曰く、その女はN市支部長の玄野小紅と特徴が酷似していたと言う。このふざけた説明の時点で会議室に毒を散布しなかった俺を褒めちぎって欲しいくらいだ。
事件がN市で起きていること、犯人の特徴から、すぐに彼女を引き渡すようにと俺へ要請があった。なんで、本人じゃなく俺に来たか。それはUGN日本支部長の霧谷雄吾〈リヴァイアサン〉が間に入ったからだ。彼がそうしたなら、ほんとうに小紅ちゃんを疑ってるわけではないのは明白だ。それにしたって、正直腹立たしかった。
霧谷さんにそのつもりがなくても、他の奴らにはあからさまな思惑があった。要するに、俺は脅迫されたのだ。俺が解決できなければ、たとえ彼女が潔白であっても本部に召喚し、事件が収束するまで拘束し続けるするしかないと。
去年の冬、うちの支部では本部から派遣されたチルドレンたちが次々に失踪する事件があった。世界の終焉を求める少年たちの物語──通称、ワールド・エンド・ジュブナイル事件。コードウェルのセリフがそのまま充てがわれたのも癪だったが、奴が出張ってきたことを書類に残す意味でも、そうなった。件の責任は、それこそ本部所属だった与儀にもあるはずだが、今となっては死人に口なしだ。俺たちの落ち度ってことにしたがる老人連中の声もデカかった。良識ある大人が嫌がることを、年寄っていう生き物はよくわかっているもんだ。
せっかくチルドレンたちが戻って来たというのに、小紅ちゃんが疑われたり拘束されれば、N市支部は事実上機能していないという扱いになる。その隙を突いて甘い汁を啜ろうって奴が多すぎる。魂胆が見え見えだった。でも、その脅迫が俺にとって効果覿面だったのは認める。優秀なエージェントたちが数カ月かかったエウヘニアの足取りを、俺は二週間で入手したわけだから。死に物狂いの調査でエウヘニアに辿り着いた俺は、次の獲物らしき人物を三人まで絞り込んだ。結果としてそのどれも思い切り外して慌てて次点に駆けつけたのが、昨日のことになる。
俺が間に合わなかったことによって、最後の一人もむざむざと殺された。その点については反省文を書かされても文句は言えなかった。影も形もなくなったその人は、俺がおやっさんと呼んでよく競馬場で酒を飲む相手だった。
情報屋である彼らとは、今までうまくやってきた。金だけの繋がりのやつもいれば、共に仕事をこなしたことがあるやつまでいた。イリーガルとして活動していたり、そもそも覚醒者ではなかったりしたやつらの顔が、次々に浮かぶ。N市で情報を売っているやつなんてのは、全員俺の知り合いみたいなもんだった。
今朝方まで片付かなかったこの一件は、最終的に極秘案件として処理された。N市支部長に濡れ衣を着せかけたことと、取り逃した例の本部エージェントがそれなりに有望株だったことが大いに関係しているのだろう。
もはやこの話を記憶しているのは、当事者である俺──冥護忍の脳みそだけらしい。ふざけた話だと思ったが、承諾する他なかった。犯人がうちの支部長を真似た時点で、痛くもない腹を探られることは決まっていた。知っている人数が多ければ多いほど、事後の聴取と称して彼女を本部に召喚しようという思惑も広がってしまう。こんなものは、最初から負け戦だった。
一部のお偉いさんの机上には、まるで空論みたいに暗号化された本件の情報が記されているという。それだって噂の域を出ないが、ともかくこれで解決ということになった。犯人の動機すらもわからない幕切れだったとしても、それで構わないという判断らしい。だいぶ強硬的なスタンスだったので、その意図の裏側まで見抜くことはできなかった。
だから、俺だけが無許可のままこの事件の後追い調査を続行していた。小紅ちゃんを侮辱されただけなら、一応の待ては出来るつもりだ。だが、突然の情報封鎖からして、エウヘニアが誰かから命じられていた線も捨てきれない。その司令官が内部の者ではない証明もない。事件は終わったのだ、なんて能天気に喜ぶのは尚早だと思った。
だから、調べた。
調べて、調べて、調べ尽くした。
世界の裏側を牛耳っているようなやつらは義に厚い。仇討ちというお題目を掲げれば、手を貸したがる人間は多かった。おかげで、たったの数時間でかなりの量の手土産が届いた。浅い睡眠の隙間に飛ばしの携帯電話をチェックし続けるのは、コツを掴めばそう難しいことじゃない。妙な特技ばっかり増えていくもんだが、今回に限っては自分の器用さに感謝した。
集まった情報を総合すれば、被害者である情報屋同士には接点はなかった。同じ事件や人物の情報を流していたという関連性もない。人皮をひん剥かれたどの情報屋も、彼女と過去に接触してはいない。情報屋に関わったエージェントと彼女の関係性も皆無で、直近で戦死したエージェントも彼女と親しくはないと来た。どんだけ無いんだとは思うが、無いということがわかるのも貴重な情報だった。
もちろん、本部のUGNチルドレンであった彼女の交友関係は徹底的に洗ったが、任務ですらほとんど誰とも行動していなかった。そもそも、どちらかと言えば後方で指揮を執ることの多いエージェントだったはずだ。やれやれ。想像していた以上に、エウヘニアは人と関わることに対して消極的だったらしい。見えたのは、職務に忠実であるといった人物像だけ。弁当を手作りしてたことや、コードネームからして多分料理は得意だったんだろうとは思うが、それだけじゃなあ。
そして、一番の問題点なのだが──彼女は筋金入りの無口だった。なにもこれは大げさな話ではなくて、声を聞いたことがあるという証言すらまったく出てこない。最後に相対した俺ですら、彼女から引き出せたのはたったの二言だ。交渉担当が聞いて呆れるくらいの無力感を味わったぜ。
そう、最期のその時まで、彼女は何一つ決定的な言葉を口にはしなかった。
こちらの説得や小粋なジョークにも応じず、ただただ、まっすぐに白兵戦で俺を蹂躙しただけだったのだ。聞き出した言葉だって、会話ができたってわけじゃない。女は、最期に一時だけお情けで口を開いてくれただけだった。あるいは、最初からそうしようと決めていたのかもしれない。夕方から夜明けまで俺を丁重にもてなし続けて、最後の最後でとんだマナー違反をされた、その瞬間に、はじめてその掠れた声を聞かせてくれた。
「あら、朝が来たのね。林檎、剝いてあげるわね」
廃ビルの向こうから昇る朝焼けに視線を向けて、眩しそうに笑うその顔が、俺の記憶に無遠慮に干渉してくる。それは淡い初恋を教えてくれた少女や、若かりし頃の母親を彷彿とさせる、なんとも嫌な感覚だ。まるで太陽に恋でもしてるみたいに空に向けてリップ音を鳴らし、俺なんか眼中にない様子で彼女は瞼を閉じた。ただ、決まったセリフを言っただけといったふうで、誰に投げかけているでもなかった。
それなのに、目尻から一筋、女優みたいに綺麗な涙を零されただけで、俺は堪らなくなった。思わず駆け寄って、自分で銃殺した女を抱き起してしまったほどだった。あの一瞬、俺は口から出かけた呼び慣れたその名前を引っ込めることに忙しくて、なにも返事ができなかった。
笑ってくれていい。俺は、ほんとうにあの時、正気じゃなかった。大事な女の子を誤って殺してしまったと、本気でそう思った。感傷を植え付けられて、叫び出しそうになった。気が振れそうになって、殺したばかりの女に殺意が湧いていた。自分でやっておいて、なんて恰好で死んでくれやがると怒鳴りつけそうになった。呪文みたいに、何度も死ぬなと懇願した。
一度焦げ付いたら、精神の火傷はもう元には戻らない。違うとわかっているのに、喉の奥が嗚咽を漏らす。俺は結局、似ても似つかない彼女の死に様に「小紅ちゃん」と狼狽えた鳴き声を上げてしまった。
「任務完了しました。処理班をお願いします。被害者は間に合いませんでした」
それなのに、やけに落ち着いた声で本部に連絡する自分に驚いた。電話を取ったのはリヴァイアサン、その人だった。
「お疲れさまです。少なくとも、キミのおかげでこれ以上の被害を出さずにすみます。それだけは間違いありません。ありがとう。今日はゆっくり休んでください」
呆気に取られるくらい、いつも通りに報告だけを済ませて終話する。思っていたよりも動揺はなく、一仕事終えた達成感すらあった。シャワーを浴びて、親子丼とうどんの定食を平らげて、漫画雑誌を読み終えてから就寝した。隅から隅まで読んだのに、ハンターハンターは、載っていなかった。
瞼を、開く。酷い耳鳴りがずっと頭を揺らしている。マナーモードの携帯が震える度に青い光を受け入れて、送られてくる情報を精査した。事件に関する事柄以外はどうでもいいような気がして、天井の淡い蛍光灯を見上げる。オレンジのそれは太陽を模していて、なんだか気色が悪い。時間の間隔がぐちゃぐちゃで、壁掛け時計の数字を見ても何を表しているのかすら忘れそうだった。
同僚として、最期くらい彼女の妄言に合わせてやればよかったとも、思う。ありがとうだとか、おいしいだとか、おままごとみたいに言ってやるべきだったかもしれない。そうしたら、エウヘニアは泣かなかったのかも、しれない。
そして密偵としての俺は、ちゃんと後悔していた。林檎とはなんの暗喩なんだ、なぜそんな恰好をしていたのか、それだけでも問い詰めるべきだった。ここまで惨いことをした意味はあるのか、誰かの指示なのか。そういうことをなにも聞けず仕舞いで、俺は腕の中で彼女を死なせてしまった。あのまま、あそこで俺も死ぬべきだった。
これで彼女のコードネームが白雪姫でシンドロームがソラリスだって言うならまだ解釈のしようがあるが、当然そんなこともない。人間と林檎を見間違えるやつが、大層な思想犯とも思えない。深淵を覗いたらなんとやらだ。共感のしようもないしな。最終目撃者の俺がお手上げなのだから、事件は宮廷どころか迷宮入りだった。
だから、明らかな事実しか述べることができない。深夜、偶然FH〈ファルスハーツ〉の情報収集に当たっていたN市支部エージェントのOmnibus〈オムニブス〉が本件の下手人と遭遇した。オムニブスは十時間の交戦の後、対象を処理し事件を編纂した。たったのこれだけだ。いやはや、大人ってのは嘘ばっかりで嫌だね。
俺は最初からこの事件の担当だったし、彼女のコードネームだって知っていた。見かけたこともあったし、それどころか一緒に食事をしたこともある。一応断っておくが、そういう関係だったわけじゃない。何度か相席した程度の男に懸想したりはしないだろう。むしろ、関わりがあったのに声を聞いたことすらなかったんだから、疎ましがられていたのかもしれない。俺だってそうだ。豊かな赤毛を一本にくくっているから、なんて理由で女の子を目で追うのが当たり前になっているなら自己嫌悪しちまう。そこに戦友の姿を投影なんかしてたら、もう、俺はそれなりの末期患者だろう。
単に、放っておけなかった。チームで動いている際でも一人でぽつんとしていたし、どこか儚げなところがあった。いつも白い花の髪飾りをしていて、食堂で見かけても隅で弁当を食べているイメージしかない。一度も目が合ったことがないのが、彼女と俺との関係を物語っている。お節介で有名な俺としては、ああいう同僚を無視はできなかった。
そんなんだから、一番親しかったのは俺なんじゃないかと苦言を呈された。一方的に話しかけることがそう見えるなら、職務質問の警察官でも学校の講師でも該当する気がする。ただ、少なくともそんな揶揄をされるくらいには、彼女の周囲には人がいなかった。お気に入りの場所もアーティストも、趣味や好物も、ペットの有無も、誰も知らない。家族はおらず、表の顔の一枚もない。いくら個人情報を開示する相手がいないにしたって、痕跡がなさすぎる気がする。
そんなペラペラの報告を受けても、お偉いさんには昨晩の仕事は完璧だと褒められた。霧谷さんの後に折り返しで分割画面で通話をかけてきて、事件解決を祝われた。相手のシンドロームについてよく知っていたことを、遠まわしに弄られたとも言う。戦闘が不得意なのに勝利を収めるとはさすがはノイマンだ、なんてラベリングに嫌気がさすような年でもない。あれを勝利だなんて言われても困る。だが、有難く臨時収入は頂戴した。最近はガキのお守りでやたらと金が飛んでいくから大助かりだ。ガソリン代もどんどん高騰しているので、レジャーイベントの送迎大臣としてはこんな薄汚れた賄賂ですらも馬鹿にはできない。行き詰まりの社会に大層な声明を掲げるつもりはないが、末期の時代に突入しているのは俺たち病人にとっちゃ不文律みたいなもんだ。
ノイマンは優秀だ。ノイマンは出来が良い。俺を持ち上げる時、あいつらは冥護忍やオムニブスと俺を呼ばない。ソラリスとのクロスブリードなんてことを、忘れているようにさえ思う。ソラリスを手放しで褒めないのは、きっと霧谷さんに反発心があるからだろう。あの人と俺じゃぜんぜん違うけど、関係ないんだろうな。ただ、シンドロームによる分類っていうのは、俺にとっても必要なことだった。
統計を取るっていうのは特効薬を作るのに大事な作業のひとつだ。今でこそ対処療法に追われちゃいるが、元々我らがUGNの夢見る終焉っていうのはそこにあったわけだし。それに、病名をきちんとつけると楽になることってのは、存外多い。中でも、戦闘行為においてはそれが顕著だ。
おかげで今回もやりやすかったというべきか、やりにくかったというべきか。まあ、やりやすかったと答えておくのがソラリスらしい軽妙なおじさんとしての対応だろうと、そうした。だから同僚を一人殺した俺は、缶コーヒーを奢られて、背中を叩かれて、はははと笑ってそれでおしまいだった。
ついでに本部の人間を何人か殺しても、許されるような気がした。
仮眠を終えて目を覚ますと、彩度の低い色彩がそこにあった。そして起き抜けに、重要な誓いでも果たすみたいに支部へ行こうと決めた。自分がなぜこんな場所に寝ていたのか一時完全に失念したのにも拘らずだ。回想がやけにリアルで、現実と混線するようにノイズが走っている。このままでは事件に最適化されただけの存在になりそうで、眠る前に二度も浴びたのに、またシャワー室に閉じこもった。冷水を被り続けることで、絶不調ながら思考回路はひとまずの落ち着きを見せたから、まあよしとしよう。
漫画喫茶というだけあって、一応モーニングのメニューがある。トーストとナゲット、ヨーグルトにバナナをなんとか食べ終える頃には、ふつうの会社員なら始業している時間だった。なにをしていても、入っちゃいけないところまで突っ込まれた耳かきみたいな音がBGMになっている。三半規管がバグって、眩暈がしている。胃液が逆流しそうなのを、食い物で蓋した形だった。メンバーズカードを出したのにスタンプを押してもらえなくて、ツイてなさに落ち込む。いい大人がそんなことでしょぼくれているのがよほど気色悪かったのか、店員はそそくさとバックヤードに逃げていった。つめてーの。
家に帰ろうと何度も思ったのに、俺は夢遊病じみた足取りで駅近くの雑居ビルを目指していた。
俺にとっての日常に戻るためには、行かないとダメだと思った。なにも取り繕えない今の状態では、行ったらダメだとも、思った。自分で出社を決めたくせ、今度は駅前まで歩くのが億劫になる。重い足をなんとか交互に動かし、ベンチに座っては水を飲み、喉が動く度に生きていることを思い出す。そんなことを繰り返して懸命に歩き続けた。どれだけ遅くても、進んでいる限りはいつか支部に着くはずだ。一挙動ごとに疲労が蓄積し、驚くほど体力を奪われていたとしても。
今回ばかりは、なあ聞いてくれよって仲間たちに弱ってみせるわけにもいかない。なにせ、この事件は非公式扱いになっている。一般市民も裏切者も被害者も問わず、あの凶行の真実はいずこかに秘匿されてしまった。どうすりゃいいんだ。どうにもできない。だから、どうにかしたいと願ってだけいる。
今、自分が冥護忍らしく振る舞える自信がないなら支部のやつらに会うのは得策じゃない。冷静なところで自分がそう引き留めたって「俺は冷静じゃねえんだよ」と機嫌の悪い俺がそれを拒絶する。助けてくれと言うのは慣れていた。茶化してでも、真剣にでも、いつでも言う準備はある。言えないもんは、しょうがないけどさ。
一緒に飯を食ったこともある女の子を、この手で殺しちまった。そんな悲壮感に打ちひしがれるのがまともなんだったら、俺たちオーヴァードはとっくにまともじゃない。何度も、何度も、人々の平和な日常を守るためにそんなことをしてきた。狂気に王手をかけて、もう片手で崖にしがみついていることの方が日常になりつつある、俺たちは。
一人でいる限り、腕は二本だ。助けを呼んだり、誰かに差し伸べたりする余分はない。ギリギリで生き残ることだけがうまくなって、泥だらけのツラを血で洗うことが三度の飯よりルーティンになっている。そうだな。たぶん、俺はきっと大丈夫じゃない。こんなこと言うもんじゃないが、はやく小紅ちゃんの声が聞きたかった。
クラクションが鳴っている。それがわかるのに、横断歩道の鳩の鳴き声が、聞こえなかった。
UGNという組織は、生憎慈善団体というわけではない。一枚岩でもなければ、まともなだけ割を食うブラック会社なことも、否定できない。正義も突き抜ければ正常の先まで行ってしまうし、親切心も度が過ぎれば遅効性の毒だ。平生から遠ざかったナニカの行きつく先は崖の先に他ならない。
だから、今回みたいに事件そのものが書類にも残らないなんてこともザラで、一部の記憶力の高い人物たちが有する無形文化財じみてしまうことも少なくなかった。ノイマンなんてシンドロームを持つと、そういう役割が振られがちだ。どうなんだよそれ、俺って歩く生き字引みたいなポストに置いてもらうような存在だっけ。全力で惚けてみたものの、逃げられるわけもなかった。ツケを払って支部長になっちまった同期と、リヴァイアサンの名前を出すのが反則じゃないって言うんだから仕方ない。脅しと同情と叱責と激励で四面楚歌だった。
このN市でハヌマーンという病名の患者が起こした事件なんてものはなかった。それを同じシンドロームの彼女が知らないまま、いつまでいられるかはわからない。たぶん、耳敏い我らが支部長元代理のことだ。もう知っているんじゃないかとすら思う。Dr.フォトン〈虚数疾駆〉によく似た装いの女が起こした事件なんて、あの玄野小紅が聞き逃すとは到底思えない。同じような長い赤髪を風に揺らす女が、徒花みたいに狂い咲いて散ったことに彼女はなにを思うんだろう。魔女の不発弾をいいことに、銀にはほど遠い安価な銃弾の何発かでその命を終わらせた男がいることを、ほんとうは知られたくない。
ああ。でも。俺がなんでこんなになっちまってるかまでは、きっと君にはわかんないんだろうな。
デキる上司を持つとなんともやりにくいものだ。日本支部の山頂付近からゴーサインが出るまでは、俺は知らないふりを続けなければならない。勘弁してくれよ、相手には嘘発見器がついてるんだぜ。器用な忍ちゃんならなんでもうまくやれるって思ってるなら見当違いだ。俺はダメなおじさんだって、いつでもちゃんとわかるようにやって見せてるじゃねえか。だっていうのに、今の俺には愚痴の一つを零す相手もいやしない。悲しいね、まったく。
ちょうど昨日と同じように、三羽の鳩が空を左から右へ横切った。平和の象徴だ奇跡を持ち帰る灯だっていうのに、どういうことなんだか。よくもまあ、昨日も月野支部長の時も、これみよがしに飛んでいくものだ。もしかして、こういうのを光の下を歩く人間たちは怯えたり有難がったりするのかもしれないなと、思う。ジンクスというものを統計的に否定してる俺にとっては、ちょっとわからない話だ。
でも、そういう普通の感性を他人事にしたくはなかった。前後不覚に陥りながら、普通という薬を胃壁の襞に染み込ませる作業みたいに水を飲む。飢餓感を誤魔化すために、喉がずっと乾いている。
鳩の飛び去る背中を目で追った。あんなところまで、銃弾は届かない気がした。
あの事件は、なんなのだろう。どこから切り込めば進展があるのだろう。頭の中の日記をスワイプしながら歩き続けることしかできない。情報を漏らさないように支部の奴らから何かを得られる可能性はあるのかは、再三シミュレートした。
仲間の顔を思い浮かべ終わるのと同時に、駅と繁華街の中間に建っている雑多なビル群に迎え入れられる。ちょうどその中の一棟に、スーツ姿の男たちが連れだって吸い込まれていくところだった。なにやら雑談をしているらしいが、聞こえた愚痴を総括すれば「子供がうるさくて仕事が進まない」などという言い訳じみたくだらないものだった。十分に間隔を空けて、俺もエントランスに体を滑り込ませる。
五分以上は経っているのに、スーツの一団はまだ入り口付近で不満を言い続けていた。内容はぼかしているようだったが、予想通り、ワールド・エンド・ジュブナイルで多くのチルドレンが支部を脱走したことに関してだった。あれを再演してほしいというのが彼らの主張らしいから驚きだ。想像力が足りなさすぎるだろ。あの事件は反抗期の子供の家出がメインの話じゃない。レネゲイドウイルスのミサイルの発射だ。お前らが言っているのはミサイルに落ちてほしかったと言ってるのと変わらない。こうして危険思想者がいる限り、FHが縮小化することはないんだろう。
そういう世迷い言はせめて、道端で鍛え抜かれたスーツの男たちが密談するなんていう杜撰さを顧みてからにしてほしかった。あれで堅気のつもりでいるなら僅差で怒りより心配が勝つぜ。まあ、コソ泥みたいにビルに侵入する秋口のアロハ男とどっちが怪しいかって話になるなら、どっこいどっこいか。
夏休み明け最初の祝日は、昨日さえ休みを取ってしまえば土日から続けて四連休を確保できる。彼らの気の緩みや不満もそのせいかもしれない。やたらと道が混んでいたから、俺と同じようにバスやタクシーでの移動を断念して疲れてるのかもな。だからって忍ちゃんチェックをスルーできるわけでもないから、お前らのことは頭の片隅に入れておくけど。
いやあ、それにしても、久々にこんなに歩いたぜ。今日の根城から支部までがこんなに遠いとは。普段は気にもしないことにも敏感な状態だと、なにもかもが新鮮に感じる。いいねって感じだ。知る人ぞ知る秘蔵スポットを紹介したい気分だ。おっさんの散歩ってどこかに需要があるはずなんだが、UGN専属の午後バラエティー枠で「おっさんぽ」とか放送する気になってくれないかな。俺が主役じゃ映えやしないか。
途中何度かベンチを見つけてへたり込みたくなったが、無念にもそこはバス停だった! みたいなところはテロップで「忍ちゃんピンチ!」って出したりとかして、なんとかコメディ調にしてほしいもんだ。思考が煩雑になってきたな。ちゃんとウインカーを出して真面目な方に車線変更。ハンドルを切った。
もちろん、金ならあった。時間だって、別に決められてないから今更急ぐことはない。便利な現代社会では、多少混んでたってアクセスを気にすることもない。でも、そういう問題じゃなかった。歩くことを選んだのは、俺にとってのちょっとした儀式のせいだった。
俺は、人を手にかけた日から二十四時間は他者から己を隔離して過ごすという決まりを課している。本当は人間的交流を絶たない方が精神面にいいことはわかっているが、穢れの概念ってのは日本人に長く伝わってきただけあって簡単には割り切れない。非日常の匂いを日常のやつらに嗅がせることに抵抗を持ち続ける。これは、N市前支部長の月野守平〈ナイトクイーン〉から受け継いだ最低限のルールだ。そのために、どれだけ不調な時でも出来のいい頭に任せてこの儀式を無理やりにでも実行してきた。ノイマンってのは便利だぜ。自己暗示はお手の物だ。よいこは真似しちゃダメだけど。
俺は、得意競技が口八丁だけの中年男だ。おかげで公園を経由して休み休み出勤する羽目になったが、健康のためだと思い込むくらいのことは、わけない。苔生す岩に、池を踊るように泳ぐ鯉、通り過ぎる子供の防犯ブザーにラケットを背負う学生たちが注視するスマートフォンの画面。情報が途切れることなく押し寄せる中、なんとか藻掻きながら公園を抜け出すのに三十分を要したとしても。
なにがヒントになるかわからないと思いだしたら、いつの間にか情報の取捨選択をする余裕がなくなっていた。水道管の破裂による道路の陥没と報道されるジャームの狼藉に胸を撫でおろし、俺は牛丼屋のテレビモニターの前を素通りする。
残暑は、惜しむ間もなく去っていく。運動をするのにもいい季節だ。とはいえ、どれほど秋の訪れを感じようとも五キロも歩けば汗をかくものだった。乾ききったペットボトルが一本、片手を占領している。あーあ、余分な腕はないのに。今、崖から突き落とされたら助からねえな、こりゃ。
だから、ようやく目当ての雑居ビルに足を踏み入れた頃には十時を過ぎていた。一件の調査報告も届かなくなったスマートフォンに、嫌気がさしながらエレベーターを待つ。点滅を繰り返すそれがドアを開くも、満員の何人かがこちらの顔色を窺うように頭を下げるだけだった。瞬きをしても地下に向かう矢印は消えてはくれなかったので、仕方なく階段をえっちらと昇って屋上を目指すことにする。反チルドレンのやつらは不精なことで、もう一本分エレベーターを待って生産性のない会話を続けるみたいだった。
足が棒のようだ。十年前ならさほど気にもしていなかった階段の昇降がこんなにもきつい。寝不足だからだと言い訳ができたらいいが、それだけでもないのが花の三十代のつらいところだった。やっぱり普段から歩くべきだな、うんうん。そうやって、心と体がバラバラに動いて言うことを聞かないのを、年のせいにした。情報収集を優先した自分を責めたくなる。
もう屋上なんて後回しにしちまおうぜと思う。それなのに、柔軟な対応はとれなかった。なんでだよ、俺は今すぐにだって小紅ちゃんに会いたいのに。きっと、彼女の顔を一ヶ月くらい見てないから俺はこんな調子なんだ。そうに違いない。
じゃあ、もう一度彼女と会えたらどこに行きたいのかと考える。ビアガーデンと映画と、グランピングと、海と、水族館と。見るだけのつもりが、手元のスマートフォンを操作してチケットを買いまくっている自分がいた。どうすんだろうな、こんなに用意して。支部長になって忙しくなった彼女に、誘いを受け入れてもらえるわけないのに。そうじゃなくたって、付き合ってくれないだろう。だって小紅ちゃんは俺が殺したんだから。
いや、何言ってんだ。死んだのは小紅ちゃんじゃない。でも、会っていないのだから生きている確証もない。確認の電話を入れようとして、液晶が割れていることに気づいた。手が痛くて、視線を動かす。俺はスマートフォンで、何度も壁を殴っていた。
コードネームがエウヘニア。宮廷調理士か。これは音や風を操るハヌマーンシンドロームとは関係のない名付けに思える。階段の一段ごとに事件解決のためのピースが落ちていると思い込むことで、ふらつく体に力を込め続けた。どうにかしちまった俺の頭のせいで携帯電話はおしゃかになったが、ショップに行くような暇はない。せっかく仲間たちに死に様を見せないようにと頑張ったのに、こんなところで転落死はごめんだ。慎重に、手すりを掴む。
エウへニアには「高貴」という意味があった気がするので、宮廷という単語とは近しいか。でも、それだと「調理士」という言葉はやや浮いた印象を受けるな。ようやく一階の踊り場まで上がって、呼吸を整えるために立ち止まる。頭痛が酷い。あ、でも調理士がシェフって意味なら、料理長でも店長でも同じ言い方のはずだな。料理に限っての話じゃないなら、調理士という名もそこまでおかしくないだろう。彼女は実際に後方指揮として人を動かすことが多かった。それこそハヌマーン的に言うなら、マエストロとかそういうイメージがある人だった。
二階に到達したところでまたもや動作を停止し、ペットボトルに手をやる。飲み干していたことを思い出して、舌打ちが出そうになる。蝿が飛んでいるだけで生きていることに腹が立つし、蚊を殺した通行人にも腹が立つ。せっかくだからと謎の怒りの勢いに任せて、一心不乱に左右の足を順に動かした。
チーフって意味での名前としてはセンスはあるが、わざわざ調理士という言葉を宛がったことにはやっぱり引っかかるな。自分でつけた名前じゃないなら、誰が? 昔から料理好きだったのかもしれない。料理に対して、多少の誇りはあったはずだ。わざわざ人の皮剥きの腕前なんざを見せたがったからには、そうだと思う。なんらかの挑発行為でもあったんだろうが、正気じゃないやつの精神を分析することは難しい。
三階。エウヘニアと一度でも組んだ記録のある者で、直近で戦死したりジャーム化したエージェントはいない。春に浮かれたってわけじゃないなら、なにかきっかけがあったはずだ。残忍な手法で人を殺す必要があるほどの、なにかが。
そもそも、小紅ちゃんに罪を被せようとしたのはなぜだ? やばいな。ちっともおしとやかでいてくれないうちの上司には、そこのところ、心当たりが多すぎる。お偉いさんに啖呵をきった回数やいざ知らず、恨まれてもおかしくない軽妙な皮肉が売り切れているのを俺は見たことがない。
四階。林檎、朝、関りがある事柄を羅列する。人間関係から動機を探れないなら、あの遺言とコードネームやシンドロームから探っていくしかない。我ながら最低な感想が出た。こんなことになるなら、もっと仲良くしておくんだったな。なんて。
良心の呵責に苛まれながら、なんとか四階の踊り場まで壁を支えに昇ってきた。そろそろ座り込みたくなってきたが、こんなところじゃさすがに不審か。チルドレンたちにでも見つかって心配させても悪いしな。
なんとはなしに死にたくなって、昇って来た段数を見下ろす。こんなんで死ねたらオーヴァードやってないっつの。誰か笑ってくれたらいいのに。 そうやってしばらく自嘲していると、不意に肩を突かれた。ああ、やだやだ。四なんてわかりやすい不吉なジンクスじゃねえか。今度はなんだ、ミサンガが切れるとかか。
「いや驚いたな。東雲さん、俺相手にそんな可愛らしいことすんのかよ」
露骨に眉根が寄せられるのを見て、申し訳ないが笑ってしまう。まるで悪戯をする子供みたいにつんつんと人差し指で触るくせ、角度が高かったのでおかしいと思ったよ。振り返るまでもなく、誰だかわかっていた。これが恋愛映画のワンシーンならネタバレもいいところだ。もちろん、当たり前みたいにかっちりとジャケットを着こなした東雲誠治〈Bullet of ray〉が立っていたので、ときめきとかは生まれなかった。
「何を言っているんですか貴方は。不快です」
「言いすぎだろ。おじさんいじめて楽しいかよ」
両手いっぱいの荷物をわずかに持ち上げて、これのせいだとばかりに睨まれる。はたして、宿題を終えた子供たちのためにお菓子を用意しておくことまで、医者としての務めなんだろうか。そこを突いて俺だっていじめる側にも回れそうだが、やめておいた。教育係としちゃ、線引きってものがあるんだろう。
なにか言おうとした東雲さんの口が動いて、閉じられる。無音の悪口ってわけでもなさそうだった。どうやら、俺のために飲み込んでくれた言葉があるらしい。
「……老人ぶるのも大概にしてほしいものですね」
「なんか東雲さん、最近俺に冷たくねーか」
「貴方との円滑なコミュニケーションはこれで正解だと思っていますが」
ああ、この人は俺が苦手なんだろうな。苦手な相手ともちゃんと喋るなんて、東雲さんは立派な人だ。リヴァイサンのことも苦手そうだし、単にソラリスとはソリが合わないってところもあるのかもしれないけど。ソラリスとはソリが合わないっす!? 面白すぎるぜ。これ、次会ったらとっきーに言ってやろう。
「くだらないことを考えるのは……いや、それを禁じたら貴方は思考できませんね」
手厳しい。俺のこのちゃらんぽらん加減が好きじゃないんだろうな。ごめんな、ふざけてないと死ぬんだ、俺。
「そんなに呆れることないだろ。肩に埃でもついてたか?」
肩口を払う素振りだけで、そんな苦虫を五百匹噛み潰したような表情返されることあるんだ。いや普通に今のは俺の行動が失礼だったか。悪いことしたな。その視線を追えば、俺の足元から胸までを観察し終え、彼なりの診断を下されてしまったようだった。
「……不景気な顔なら頭についていますがね」
「おいおい、いくらなんでも顔のことは言っちゃダメだろ!? おじさん同士、暗黙の了解ってやつじゃねーのかよ!」
「さて、エージェントOmunibusの暗黙の了解など、数えてはキリがなさそうですが。ああ、貴方が踵で二回合図すると路地から出てくる女性の人数でも数えますか?」
言い方が悪いぜ、それは。偏向報道だ。ちゃんと男だって出てくるっつーの。
「探られて困る腹は、探られぬようになさいと言っているまでです」
「思考を読まないでくれよ……まだ喋ってなかったろ」
彼からノイマンらしからぬと言われたことを思い出す。意図を理解しているのに余計な遠回りをする俺の習性に呼応してか、わざとらしく溜息を吐かれた。彼にがっかりされるのは俺の得意なことの一つだから、仕方ないよな。でも、そういうところに助かってるんだぜ、なんてことを言わなくても読み取ってくれる人だ。ほら、また眉根を寄せている。
「はぁ……自覚はあるようですね。子供たちの前ではくれぐれも気を付けるように」
「マジかよ。顔をか?」
「取り外せるならそうすることをおすすめします。上に立つものがそれでは示しもつかないでしょう。この曇天でサングラスが必要だと思っているほどなら、尚更」
全然冗談に聞こえない声色で繰り出されるそれは、いつもよりほんの少し窘めるようなニュアンスを含む。俺とはなにもかもが違うこの人は確か年下だった気がするのに、どうやら真正面から俺を叱っていた。なんだ、てっきり意味のないことは言わない人だと思っていた。とっくに俺のことなんざ諦めてくれているもんだと、勝手な注釈をつけてしまっていた。
「でもな~。最近かなり遊んでたから。夏休みなんてほとんどチルドレンとうろつき回ってたし。そろそろ働かないとまずいだろ」
「あれが? 後進育成の範囲でしょう。それとも、私がいつも遊んでいると仰いたいので?」
「そんなこと言ってないってェ~……東雲さんはそうでも、俺は教育係じゃないからさ。そういや東雲さんに聞きたいんだけど、チルドレンの教育ガイドラインで林檎ってキーワードが思い当ったりしねえかな。関連付けられるなら、朝ってのも頼む」
「私が詮索しないことを勝手に決定した上で情報を引き出そうとは……傲慢な男だ。答えるなら、ノー。わかりやすいモチーフなので情操教育に使用することもあるとは思うが……明確な該当箇所はないと断言できる」
雑すぎる話のすり替えにもわざわざ対応してくれるあたり、いいやつだと思う。
「あんたの断言ほど信用できるもんもないよ。助かったぜ」
エウヘニアはチルドレンだった。教育係である東雲さんの持つ情報でダメなら、そっち関連でのアプローチは意味がなさそうだ。情報がないことも情報。そう割り切っているのに、焦りが外に出ていきそうになる。苛々していることを悟られたくない。だって、俺が今腹が立ってるのは「あんたにもっと頼りたい」なんていう自分勝手な話だからだ。情報封鎖さえされてなきゃ、彼ほど事後捜査に適任な助手もいないってのに。そう出来ないことがもどかしい。
どうせ、東雲さんも既に多少は聞き及んでいるからこそ俺に声をかけたはずなんだ。彼をして話をしておくべきだと思わせるほどに、俺は見るからにダメそうなツラで出社してきたんだろう。
そういや、東雲さんは身体制御ができるんだったか。ああ、今めちゃくちゃ羨ましい。血反吐吐いて皮膚の内側で直接痛覚を穿られていた昨日の方が、まだメンタルがマシだったぜ。
「……東雲さん。ところでその後、彼女とはどうなんだ?」
「私を相手にそれで切り抜けられると思っているなら、そのままそっくりお返ししますが」
「あ~、敗けでいいデス……」
「……タバコ、百害あって一利なしですよ。これは医者としての忠告ですが。特に今の貴方には胃腸への負担もあるでしょうし」
まったく賢い人だ。俺が屋上の喫煙所を目指していることが、どうしてわかるんだろう。そんなことは一言も口にしていないし、タバコだって見せてない。彼の視界で自分がどれだけ不様なのかと想像するとぞっとしなかった。大好きな小紅ちゃんの顔が見たくて会いに来ただけかもしれないだろ、と反論したかったが、本気っぽくなりすぎそうで、やめた。
「わ~ってますよ。先生にはそうでも、俺には一利程度はあんだって」
「どうやらそれは貴方にとって九十九害を差し引いてでも得たいもののようだ。私にはとても理解しがたいことですね。自身だけでなく周囲の健康にも悪い上、貴方の大好きな女性には嫌われる」
「ひでーな。女好きみたいな風評被害もやめてくれよ」
うわ。マジで傷つくかと思った。今の俺がガラスのハートなのはわかってるだろうに。
「ああ、貴方の大好きな女性はタバコの匂いを気にしないんですか。これは失敬」
ここぞとばかりに弱った年上をいじめるなんて、趣味の悪い同僚ですこと。いや、わかってる。こうやってこの人が、俺をいつもの状態に戻そうとしてくれていることは。
「え~? 誰のことやらわかんねーな」
「異論があるなら聞きましょう。愚痴も一秒までは」
「うお短か! 俺はああいう古き時代のコミュニケーションが廃れていくのは反対なんだよ! 喫煙所がなくなる度におじさんってのは肩身が狭くなるだろ! ネクタイを緩めた時が一番なんでも話してくれるっつーのに勿体ねえんだよな!」
「コンマの分を負けても三秒オーバーだ」
一息で喋らされたので、彼の長い溜息とぴったり同じ秒数、息を吐く。深呼吸を誘導されたと気づけば、意外にもしてやったりと口角を上げた同僚がそこにいた。なんだよ、狡いよな。彼女ができて──できたのかは知らないけれど──雰囲気が柔らかくなったもんだ。
「つーか愚痴ではなかったな。なんで喫煙所についてあんたに熱く語ってんだよ俺は。でもま、わかったろ。俺には必要な場所なんだよ」
目だけで伝わればいいのに、と思う。小紅ちゃんのこと、助けてくれよって。もしかしたら昨日ので終わりじゃないかもしれないんだ。俺は今まともじゃないからあんたの知恵を借りたいんだよ。両手をポケットに突っ込んだ無礼な俺の頼みでも、どうか聞いてほしかった。
「……そうですか。ならばお好きに。貴方のレントゲンなどを撮るために私の光があるわけでもなし。ああ、でも」
「ん?」
「今度、銃が必要な時は私を呼びなさい」
そういや、あんたも俺とは違った。小紅ちゃんや子どもたちと一緒に、前線を走るタイプだった。東雲さんに頼るなら、知恵もだけど武力もか。あと、減らない口も。
「俺の肺の代わりに汚れてくれるって? 同年代の絆も捨てたもんじゃないな」
「単純に、私の方が射撃が得意だからだが?」
「はは! それは違いない!」
荷物に塞がった両手から、彼が親指と人差し指を立てる。
「……限界を感じたら私のところに来なさい。五階にいます」
「悪いな。頼りにしてるぜ」
不得意なメンタルケアと、事後処理の約束までしてもらって、申し訳ない。そんな気を回してくれるくらいには慣れてくれたのか、彼にとって俺もまた未熟な若輩さを残しているのかは、考えないことにした。東雲さんて香水してたっけ、なんて余計なことを言うのもやめてさしあげよう。色気づいたなら、そりゃいいことだし。
別に言い合いで勝てないからってわけじゃないぜ。俺と同じ病名のあんただから気づいても言わないでいてくれたことがあって、気づいて言ってくれたことがある。そのことに免じて、死に急ぎがちなあんたのことを、叱らないでやるだけだ。俺が共感できてしまう、今日だけは。
訪れた屋上は曇り空の下を新鮮な空気が飛び交っていた。ここが喫煙所だなんて信じられないくらい、どこからも煙の匂いはしない。考え事が纏まらない脳が痒く感じて、代わりに頭をぽりぽりと掻いてみる。トンネルの中にいるような圧迫感を逃がすたびに伸びをして、東雲さん仕込みの深呼吸を一つ。吹き付ける風に当たると幾分か清々しくて、飛び降りたいような気分になれた。やっぱまともじゃないな。今ちょっと死にたかったか? いや、死ぬべきだという強迫観念がある。なんだこりゃ。
頭を下げつつちょいと失礼して輪の中に交じる。緑のマルボロの箱をとんとんと叩いて、新品のそれから一本取り出した。パチンコの景品のライターは、あの喧騒の中でしか見ないアニメの柄だ。これだけが、ここしばらくは俺の相棒になっていた。
「出勤早々喫煙所とはオムニブスも重役になったものだ」
「最近FHは若手の自滅じみた特攻が多いねえ」
「春日のやつがおとなしいのがどうにもきな臭い」
「オムニブスは毎日楽しそうで羨ましい限り。まるでチルドレンの親戚のおじさんだ」
コーヒーを片手に、俺よりもおじさんの面々が好き放題に話している。いやあ、あはは。そうっすかね。と用意していた言葉を順に提出しながら、俺は頭を掻いて聞き役に回って見せた。まあ、なんつーか俺の評価ってのはこんなもんだ。事件に関する情報が出る素振りはないので、空を見る。上役の前で欠伸をしないように気をつけながら、この夏の楽しかった出来事を思い出す。
実際、ここのところの玄野支部は夏休み子供相談室のような有り様だった。今はとにかく、チルドレンのガス抜きを優先しているような形だ。リベレーターズから戻って来なかった子も多い。せめて、戻って来たやつらは戦い以外の世界を教えてやるべきだった。
そのために俺がやっていたことといえば、レンタカーを出してチルドレンたちを海に連れて行くもエンストするとか、湖のカヌー体験や渓流下りをさせてやるも、どちらも俺だけ一人乗りだったとか、そういう失敗談ばかりだ。夏祭りは行けなかったが、それらしい食べ物を作って屋台のように並べてみたりもした。宿題の解説がわかりにくいとブーイングされたり、自由研究の実験台にされたりと冴えないエピソードには事欠かない。
キャンプではほぼテント設営係だった。そうそう、小紅ちゃんが来られない代わりにとやたらといいステーキ肉を用意しておいてくれてたんだよな。子どもたちは大喜びだったが、結果的にキャンプの醍醐味と縁遠くなっていた。あれはマジで傑作だった。林檎と言えば、キャンプファイヤーの時にマシュマロと林檎を焼いて食ったっけ。ステーキで満腹になった女子たちはマシュマロに興味津々だった。その分、男子たちは大食漢揃いで見ていて気持ちが良かったな。この年になるとあんなに食えないから、見ているほうが楽しかったりする。説人が焼き林檎を二個も食うとは思わなかったが、まあ、説人は目覚めたばかりのイリーガルだ。エウヘニアと接点はないだろう。
あとはサマースプリントで万馬券が紙くずになったのと、チャーターした船で六時間粘った夜釣りで坊主だったのがこの夏の輝かしい思い出たちだ。ダサくても、ぱっとしなくても、輝かしいとそう言える。
去年の冬の事件以降、俺たちのチームでは目立った活動はない。もちろんFHとの小競り合いは日常茶飯事としてあるのだが、そんなものはN市に限った話ではないので割愛だ。夏以降はそのFHに関する任務も一切回ってこない。霧谷さんあたりがうまくやってくれてるのかもしれなかった。
別に俺たちはチームってわけでもなんでもないんだが、立てた功績がそれなりに大きかったからか一纏めにされている。なんだかんだ俺と小紅ちゃん、東雲さんにまな実、とっきーの五人を筆頭に、リベレーターズから復帰したチルドレンをケアしているからかもしれない。
一を言えば十返すやつらが揃ってしまったおかげで、自然とこういった愚痴は俺に集まりがちだ。支部長のお抱え部隊みたいになっているのも、やっかみどころなんだろうな。
「まったく……いつからここは保育園になったんだか。玄野支部長にも参ったものだな」
「まあそこはそれ。女房役には彼がついているじゃないか」
聞き流していい会話の合間に耳の内側で警報が鳴って、視線が相手を自動追尾する。一人の男の目に愛憎が渦巻いていることを認識し、照準が合った。笑っちゃいるが、空っぽの紙カップを潰す手に力が入っているのを俺は見逃さない。彼が支部長の椅子を狙っている危険度なんて、今まで十段階中の三というところだったはずだ。それがチルドレンへの対応で六ほどまで引きあがっている。
まるで自分が鈍化したかのような錯覚に陥った。そんな感覚、もうずいぶんと味わっていなかったのに。この病気が俺の思考を摩耗させることは、ずっと、もうずっとなかった。レネゲイドウイルスに感染してからこっち、俺の脳みそはエナドリをぶっ刺された状態で延々と稼働し続けている。あまりに見覚えのあるその男の憎悪は、今朝鏡で見たツラと変わらない。それだけではなく、昨晩の犯人もこういう眼差しをしていたことを、珍しく失念していた。忘れるなんてまともな機能が、まだ俺にあったとは驚きだ。
今更ながらに、なるほどと合点がいく。感情はそりゃ、動機になるよな。愛おしいも憎たらしいも、立派な殺人の理由だ。エウヘニアはそれがあんまりにも凪いでいたから、まともな情動の範囲に収まっていたから、危うく警戒を解きそうになった。関係なんてなくたって、人は一方的に誰かを愛することも、憎むこともできる。自分と同じだとか、違うだとかって分類して、自己暗示をかければ一発だ。
エウヘニアには思いを寄せる相手がいたのだろうか。それが誰だかわかれば、一気に解決までの近道になりそうだった。いや、事件のことは置いてこう。それより今は、わかりやすく支部長の転落を狙っているらしい目の前の男を観察すべきだ。
「俺なんてのは至らぬ女房ですけどね。彼女が意外にもちゃんとしてるんで、俺の方がサボるのがどんどんうまくなっちゃって」
「君のそれは長所だがな。いやはや、ぜひ見習いたい」
男の顔を覚える。頭の日記帳のページを捲るように、コードネームを諳んじる。彼の個人情報を羅列し、弱点はどこか見当をつける。戦闘スタイル、考え方、家族構成。そういや結婚間近だった女性と別れたと聞いたが、彼の方はまだ好きなままらしい。やっぱり、こいつも俺みたいに、大事な女の子を自分で殺すような経験をすれば大人しくなるだろうか。幻覚ならすぐにでも見せられそうだが、その境界を越えるには目撃者が多すぎる。なら、どうするか。小紅ちゃんを守るためなら、手を貸す頭数は足りるだろう。
完了した作戦に可愛い後続たちが入っていたもんだから、慌てて演算しなおす。やっちまった。効率のために子どもたちを巻き込もうとしたことに、歯ぎしりが出た。どんなに回りくどくても、俺は出来るだけ穏当にやれる方法を選びたい。面倒ごとがどれだけ増えようと、その方が平静ってやつの隣にいられる。
男の背中を見送る。撃てるな、とそう思いながら、無意識にポケットの中の銃を探していた。寒気がした。俺は今、好きな子を殺したって、本気でそう思ったのか。自分の頭を撃ち抜いた方が、よっぽどスカッとしそうだった。
「今流行りのRTAってやつ、俺よくわかんないんだよな~」
「あんたって一日一回おっさんロールやらないとダメな体なの?」
イリーガルの少年はいつも通りのつんけんした野良猫みたいな目でこちらを見る。彼が手元で操作している骨董品みたいなゲーム機からちゅどーんと景気のいい音がして、残機が減った。俺の思考も、そこで一旦小休止だった。
せっかく上った階段をおっちらと降りて、チルドレンたちの集まりがちな四階へと戻って来た。子供とのふれあいを向精神薬みたいに使うのはよくないと思いながらも、足が止まらなかった。この階には支部長室もあるしな。
「そうなんだよ~。もうあちこちにガタがきちゃって……ソラリスとはソリが合わないっすつって」
「ちょっと。一気に冗談の年代を退化させないでよ。普通に怖いんだけど」
そん時はお得意のやつで時を止めてね、なんて湿度の高いやりとりにはならず。説人はおっさんの世迷言を視線を逸らすことでいなして、ゲーム機に向き直った。男の意地なんていうものに一定の理解を示してくれる大人びた少年の横に、俺はどっかりと陣取る。カバーが剥げた中古のソファーも、隣にいる相手次第じゃ座り心地は悪くない。
「おっさんって僕の話なら無視してもいいと思ってるでしょ」
「なに、拗ねてんの?」
アームレストのホルダーからメロンソーダのカップを手に取り、一口含む。喉を通り抜ける炭酸の爽やかさが心地いい。久々に飲んだな。
「別に。考え事する時に僕を横に置きたがるの、ある意味じゃ戦闘能力の評価だと思うし」
そんなつもりないっつの。体よく護衛にするなんて、いつものあれは冗談だぜ? 言い返そうと思ったが、冗談を真に受けてくれるのもこいつの優しさなのかもしれなかった。
せっかくお許しが出たので考える。林檎が好物だと口外しているエージェントは、残念ながら勤勉な俺の脳みその中には存在しなかった。俺の後を追うように苦労を背負いたがるこのお子様に、そんなヒントになるようなことは言ってやらなくていいだろう。ただでさえ、あっちへこっちへと振り回され続けているのだ。彼も元々一人でいるのが好きなタイプにも関わらず、面倒見がいい。
「ちょっと、聞いてる?」
「んあ?」
「だからそういう頼られ方は嫌いじゃないんだけどさ。いくらなんでもナチュラルに僕のジュース飲むのだけはやめてくれない?」
「やべ。無意識の間接キッスだった」
「……ねえ、大丈夫なの?」
灰色のゲーム機から視線を外すことなく、ヘッドフォンを首にかけた説人がそう口を開く。軽口に嫌そうな顔は返してくれなくて、拗ねそうになる。
「忍さん。僕、あんたには大丈夫って言ってほしい」
ほとんど呟くような声音は、人の意識を集中させる手品師の手管だ。否応なく説人の言葉に頭が掛り切りになる。それに、それは今、きっと俺がほしい言葉の一つだった。心配も叱咤も嬉しいもんだが、信頼できる大人の姿を見せてほしいと子供に請われることほど、誇れることはない。背筋も伸びるってもんだ。
「嘘だろ。そんなに言われるほどボケてるか、俺」
「……もうはっきり言うけど、最近支部の雰囲気悪いよ。子供って大人の顔色、結構見てるものだからね?」
「……まあな。それを新人に言わせちゃダメだよな」
「そう。だから、言わせるほどになっちゃったなら、もうおっさんだけでなんでもすることないんじゃないの。僕は詳しい情勢とかわからないけど、東雲さんがいるでしょ?」
それこそ言わせちゃダメだった。馬鹿だな、何言ってんだよ。どれだけ俺が時任説人を頼りにしてるかなんてことがわからないやつが、ここには結構いるんだ。頼むから、お前もそのうちの一人だなんて言わないでくれよ。
「東雲さんには、さっきこってり絞られたよ」
「そう。僕なら、大人のルールは気にしないよ。僕のせいにしたら?」
一足飛びで成長していく子供に追い越されないように踏ん張るのも、なかなか一苦労だ。
説人も東雲さんも、小紅ちゃんの名前を出さないでいてくれたのがひたすらに有難い。でも、ほんとうは俺のことなんて気にせず、そのひたむきさで前を向いていてほしかった。こんなやつのこと、振り返るだけ無駄だ。俺のせいで足を止めてもらうだけ、健全さの阻害をしている気分になる。頼んでもないのに、俺に目覚めたのは人を働かせるための力ばかりだ。今でこそなんとか飲み込んでいるが、不甲斐ないと思ったことは一度や二度じゃない。
「そういやとっきーって林檎好き? 最近の林檎エピソードをどうぞ」
言うつもりのない言葉が、口をつく。だんだん嫌われたくなってきて、言ってもいいや、とおざなりになる。
「まあ、秋だしおいしいよね。親戚が送ってきたりするだけで、特別好きってわけでもないけど。最近……? 授業で美術館に行った時、セザンヌの絵画を見たかな。なんか友情の証だとかって逸話があるらしいけど。それが何? 話逸らさないでよ」
唐突に薄皮一枚隔てたこちらの世界に引きずり込まれて、同級生をその手で討ったこの少年が目の前で何回死んだのか、はっきりと数えている俺は不気味なんだろうか。毎度の事ながらいつも同じだけ怖いのに、今は朝焼けに体温を奪われたみたいに心臓が凍え続けている。こんなのは、実は、初めてだった。
みんな大事な仲間だぜ、なんて常套句が言い訳になってしまいそうなほどに。それくらい、小紅ちゃんが死んだと思い込まされたことが、俺をおかしくしていた。仲間と話している間は、ほんの僅かにそこから遠ざかれる。友情なんていう年齢差じゃないんだけどな、俺とお前は。
「……ま、なんつーかさ。俺みたいなのが一人で出来ることなんざたかが知れてるよ。お前だってそりゃよく見てるだろ。とっきーがいなきゃ困っちまうよ」
「急に長く喋り出すし。話が飛び飛びだし。やっぱり今日、誤魔化すの下手じゃない?」
かわいくないガキだな、脳内で褒めてやってんのに。
「……それに、僕だって困ってるよ。手品師の前でポケットに手つっこむのも、いい度胸」
息が止まりそうになったのを、必死で誤魔化す。知らず、俺の右手は手慰みに銃に手をかけていた。ああ、そうか。こいつが死ねば、俺は悩まなくて済む。それが文字通りのトリガーってわけらしい。
「僕、そんなの嫌だからね。その手、出してくれる?」
そんな泣きそうな声出すなよ。俺にも伝染しちまうだろ。ぱっと両手を広げて笑って見せれば、隠しきれない安堵の溜息が耳に届いた。緊張させて悪かったけど、お前がそうして俺の前でだけ気楽にしてくれることが、どこか嬉しい。
説人のそんなのには明らかに俺の死が含まれていた。ちゃんと大人でいてね、死なないでね、だなんて簡単に願ってくれるお前はやっぱり貴重だよ。リベレーターズの少年少女と触れ合ったイリーガルの立場でありながら、大人ってものにまだ希望を持っていてくれる、そんな純粋さが。
お前の指標になんてとてもなれる気はしないが、そうありたいと、思う。
「……じゃあ、なんだよ。え~ん仕事がいっぱいだよ~っておっさんが泣いたら、とっきーは慰めてくれるわけか?」
「僕は慰めないよ。仕事をいっぱい抱え込むなんて、スケジュール組んでる時点で問題があるでしょ。だから、夏休みはいろいろ無理させてごめんね、なんて健気なことも言ってあげない。ていうか、僕に泣きついてどうするの。そういうのは上司に申請しなよ。その上司もキャンプにも来れないほど働いてるのはどうかと思うしね」
「急に長く喋るじゃん」
「……あのさ」
今日、はじめて説人がこちらを向いた。改めて見れば、輪郭も肩幅も、ほんとうに子供そのものだった。男子高校生にしては小柄な部類の、こんなにも真っ当な感性を持った彼を、俺はあやうく泣かせるところだった。そんな配慮が一番嫌いだろうに、ごめんな。年取るとこうなるんだ。子供相手に許してくれるだろうと踏んで、こういう考え方をしている時点で、お前は不服なんだろうけどさ。
「……ん。わかってる」
「僕は、いいけど。白銀たちに、忙しいおっさんを付き合せちゃったって思わせないであげてよ。あいつら、自分で逃げた手前……やっぱりここに居づらいとは思うから」
「わかってるよ、心配すんな。ちゃんと言ってやる。大丈夫だ。ありゃケアの一環ってことになってんだから、余所からごちゃごちゃ言わせたりしねえよ」
「……そう。ならいいけど」
俺を繋ぎ止めるために、子供らしい部分を曝け出してくれた説人。俺はそれに報いなきゃいけない。
「俺だって子守にかこつけてずいぶん羽伸ばせたんだぜ? まったく、車がなきゃ行けない場所ばっかり提案してくれたとっきー様様だな」
「運転は運転で大変でしょ。でも、悪いけど貴重な運転手を暇にはさせてあげないから」
「そうよ。まな実歩きたくないもん」
不満げな顔で俺の背中を叩いた説人に続けて、足音もなく背後に立っていた少女も俺の背中に拳をめり込ませた。ヘッドフォンをつけた少年は会話に乱入してきた真中まな実という先輩をちらと見やり、四次元空間の一室に退散する。不貞腐れたような横顔はきっとあいつなりの意思表示で、俺との付き合いの長さなんてものをわざわざ気にしたみたいだった。
だからだろうか。その丸まった背中はまるで、まな実に俺を託したようにも、見えた。
「あ! なんで逃げるのよ。とっきーにも手伝わせようと思ったのに」
鈍い音で猫背を矯正され、咳き込みながら無垢な目と相対する。チルドレンのケアという名目のイベントごとを開催することにハマっているまな実が、ムキになって空中を蹴っていた。どうやら、説人は彼女から逃げ回っていたようだ。付き合いのいいあいつが無言で距離を取るなんて、俺たちのお姫様はどれだけ無茶な要求をしたんだか。
「……まな実、グーはやめようぜ」
「そうなの? じゃあチョキ?」
「お前のチョキはなんかこえーよ」
「なんでよ。まな実、人体切断ショーやりたいだけよ。やっぱり手品って詳しい人がやった方が盛り上がるんでしょ? だからとっきーに箱に入ってって言ったら、今日ずっと逃げてるの。忍ちゃんからもなんか言ってやってよ」
そんなん誰でも逃げるわ。
「一応確認するけど、それって切断を担当するのはお前ってことだよな?」
「当たり前でしょ? ホント信じらんない。まな実がこんなに頼んでるのに、とっきーやってくれないの。まな実だって、明日香とマジックしたいのに」
まな実が頼んでいる姿を想像してみる。似合わね~。絶対命令しただろ、お前。それに、単に白銀ともっと遊びたいってだけなんじゃないかと思う。あの子、褒め上手だからな。まな実も気分がいいんだろう。
「そうだ。切られる役、忍ちゃんがやる? それでもいいよ」
「遠慮しとく。ただでさえ腰とか頭とか痛いしな」
しばらく切られるのはいいかな、というくらい刃物の味はこりごりだ。
「ワガママばっかり。痛いの痛いのとんでけ~って、まな実が優しく撫でてあげよっか?」
それを受け入れたら今までの中年ムーブが全部死ぬほど気色悪くなっちまうだろが。小動物みたいに小首を傾げる後輩からも、生憎林檎との関係性は見出せない。別の果物の名なら、彼女のコードネームに入っているのだが。
「まな実、林檎って好きか?」
「ふつー。でも、お弁当に入ってるのは好きかも? ピクニックで忍ちゃんととっきーが作った、うさぎのやつ。朝ごはんの、ヨーグルトに入ってるのも好き。またやって」
それは俺も好きだ。弁当にフルーツがつくだけでいいことがあったような感じがするよな。なんか、自分の体を大事にしている気になれるっつーか。ていうか、そんなに気に入ってたのか。あんな簡単なもん、言えばいつでも出してやるのに。
「どうしたの? 屈みなさいよ。せっかくまな実が忍ちゃんをいいこいいこしてあげるんだから。まな実、マジックの練習で忙しいんだからはやくして」
話の流れまでぶった切りやがる。ふわりとツインテールを揺らして、まな実は胸を張って見せる。有望な後輩に囲まれて、支部の未来は安泰そうでなによりだった。飽きっぽいまな実がこうやってひとつのことを続ける日が来るなんて、昔じゃ考えられなかった話だ。
「いいって、シャワーも軽くしか浴びてねーし」
「忍ちゃんってたまに臭いもんね」
「えっ臭い!?」
「うん。タバコとかお酒の匂い。あ、まな実に隠れて焼肉行ったこともすぐわかるよ。あと、たまに血とか? 返り血ならいいけど、まな実のいないとこで死んじゃダメなんだからね?」
鋭いのは剣の切れ味だけにしてほしいもんだ。シャツを引き寄せて嗅いでみるが、喫煙所の匂いが付着している気はしなかった。もちろん、返り血も。
「若者からの匂いへの言及はふつうにショックだな……」
「も~、しょうがないんだから。慰めてほしいんでしょ? 素直になっちゃえばいいのに。大人ってメンドくさいのね」
先ほどまで説人が座っていたソファーのへりに、サングレア〈葡萄姫〉が土足で軽やかに跳びあがる。そのまま背後から俺の頭を抱え込む腕は慈愛に満ちているが、彼女もまた冬の事件で大きな傷を負ったチルドレンの一人だ。あんなことがあったのに、それでもこうして他人の機微を気にしている辺り、彼女は強いのだと思う。あるいは、強くあろうとしているのかもしれない。新しい時代へ往く者たちの導き手として、忌まわしき時代の遺物の一人として。なにかしらの覚悟が窺える。
「よしよし、大丈夫よ。まな実が忍ちゃんを守ってあげるから」
「これ以上か? 大助かりだな」
「うん。だって忍ちゃん、まな実より弱っちいから」
歯に着せぬ物言いに、ポケットに手を突っ込みそうになる。獣のような過敏さで、真綿みたいに回された腕に力が籠もりはじめた。息苦しい。俺を守ると言った次の瞬間に躊躇いもなく殺す準備が整っている彼女のちぐはぐさ。そのことに喜んでいいとは、今は思えなかった。そんなことを成長だと、俺は呼びたくない。
「ギブギブ、マジで締まってる……!」
「ほら、弱っちい。あ、そういえば忍ちゃんのこと、明日香が探してたんだった」
「白銀ちゃんが?」
「んー。なんか言いたいことがあるんだって。お礼じゃない? 別に忍ちゃんなんだから甘えちゃえばいいのにねえ」
「忍ちゃんなんだからってこたねーだろ。俺を雑に扱えって支部長様にでも吹き込まれたか?」
「そーよ。前に、月野支部長が言ってたもの。あ、今は元か。忍ちゃんはまな実たちに遊んでもらうのが好きなんだよ~って。だからこの夏は、いっぱい付き合ってあげたでしょ?」
「……へー。そりゃ確かな情報だ。実際、光栄な一時だったぜ」
チルドレンたちの拠り所になれていると思えりゃ、また明日からも暗躍できるってもんだ。治らない病気を患っていても青春を謳歌できるガキどもを見ることなんて、万病に効く一番の薬だ。非日常に片足を突っ込んだこの場所に、そういう日常の灯が見えるのは有難い。
「あの子たち元気いっぱいなんだもん。まな実疲れちゃった」
ああ、やっぱりこの子は変わったな。後輩ができて、守るものが増えて、血色のいい顔で笑うようになった。殺戮と刃が一番似合う少女だったのが、最近じゃ子供の世話をして、カップスープなんかを作ってやっていることもある。その温度を渡したのがあの人ってことなら、月野さん、あんたはやっぱすげえよ。
「みんなにアンケートも取ったのよ。次のイベントはお月見とハロウィンだって。ほんとに外の学生っていつもそんなにお祝いしてるの? 遊んでばっかじゃない。ヘンなの」
興味がなさそうな平熱の瞳が斜め上を見ている。ぶつくさ言いながらもなにやら計画を立てているらしい少女に、肩の力が抜けそうになった。ほんとに、人ってのは変わるもんだ。何事にも無関心だった子供だって、こんなに人のことを考えられるようになる。誰かの空腹を満たしてやりたいと、食事を提供する側にだってなれる。それは、化け物なんかにはできないことだ。だからきっと、人の証だって言いきってもいいはずだ。
「ま、子供ってのは遊ぶのが仕事だからな」
「そうなの? じゃあ、ちゃんとまな実が見張って、チルドレンたちを働かせてあげなきゃね」
「……ああ。そうしてやってくれ」
「何言ってるの? 月野元支部長、忍ちゃんはドライブも大好きだよって言ってたもん。重い荷物持つのも、子供のお世話も、ご飯奢るのも好きだって聞いたことあるよ。まな実がちゃんと見張ってないと、忍ちゃんすぐサボるんだから。秋も、冬も、いっぱい遊ぶお仕事させてあげるね」
おい、月野さん。前言撤回。なにめちゃくちゃなこと言ってくれてんだ。
「大人には他にもちゃんと仕事があるんだけどな……」
「知らないよーだ。大人なら仕事も遊びも両方できなきゃダメよ。ワガママ言わないの」
リボンを揺らして少女が立ち去る。もう半年以上経つのか。言ってるだけで現実味のなかった彼女の「お姉さん」という自称に事実が伴ってきているように思う。
その背中はあんなにも華奢なのに、彼女を置いて去っていったものたちが目印にした理由がわかる。託されたものに潰されない逞しさが、見えたような気がした。
──林檎、お菓子、魔女、蛇。捲り出した脳内の辞書は閉じられない。壁を伝いながら、やっとのことで階段を昇降する。五階に昇り、四階へ戻って、あれ、なにしてるんだ、と思う。ここに朝礼なんてものはない。それなのに、どうしても支部長室に先に顔を出しておきたかった。
会えばなにかしら痛い腹を突かれるとわかっているのに、君に馬鹿だと笑われたかった。いつもの皮肉や揶揄を聞いて安心したかった。おっと、その前に死ななきゃな、なんて気軽に思う状態への自己分析にストップがかかる。もう一度五階に行くかどうか悩んで、やっぱり支部長室を目指した。
林檎、比喩、赤い、丸い、参照。ハヌマーンの伝説に、太陽を果物と間違えるという逸話があった気がする。関係があるのだろうか。あったとして、それをエウヘニアが知るきっかけはいつだったのか。もしもそこに理由があるなら、きっと名づけのタイミングだろう。コードネームには林檎は関係なかった。林檎、丸い頭、赤い髪。誰かの生首は、きっと林檎に似ている。
もういない人間の行動原理を探るのは徒労にも思えるが、事件について知っている人数が限りなくゼロに近い現状では俺が考えざるを得ない。その衝動が単なる再発防止から来るものなのか、知りたがりの研究職の性なのか、正直わからない。
「……待っていたわ」
廊下の販売機の横に設置された簡易的なベンチから、鈴の鳴るような声がする。独特の静けさをまとった少女は、まるで俺がここを通ることをわかっていたように顔を上げた。いや、ようにじゃない。確信があって彼女はここにいるはずだ。そういう緊張感を、少女は隠しもしていなかった。
白銀明日香。新雪を思わせるような佇まいの彼女もまた、俺と同じくノイマンだ。林檎について、なにか聞いてみるべきかもしれない。白銀がいるなら、エウヘニアの遺体からなにか持ち出しておけばよかった。なんであの時の俺はその判断ができなかったんだろう。
「待ち伏せのようなことをしてごめんなさい。ここにいたら会えると思って」
「どうした? 白銀ちゃん」
「……まずは、感謝を伝えたいの。チルドレンのみんながとても楽しい夏休みを過ごせたこと。私も……はじめて、海に行ったわ。テレビで見ていたようにイルカがいなかったのは残念だけれど……素敵な思い出を、ありがとう。貴方はいい人なのね」
そんなことはないと思う。俺は自分がしたいことをしているだけだ。そのしたいことだって、満足にできているとは思わない。水族館にも、結局連れて行ってやれなかったし。
「それと……」
言い淀む少女はスカートの裾を握っている。表情はほとんど変わらないが、声が震えていた。そういえば、エウヘニアの雰囲気はすこし白銀に似ている。そう思った瞬間、頭の中でなにかが弾けた。漫然と湧き上がる憎悪を済んでのところで握り込む。俺に彼女への殺意は存在しないと言い聞かせる。白銀だって、どうせ死ぬなら説人の手でやられるほうが嬉しいはずだ。
「……ごめんなさい。壁に触って、貴方の考えていたことを、読んだわ。私はいい人ではないみたい」
「その言い方は偶然ってわけじゃなさそうだな……でもま、心配かけたのは俺が悪かったよ。でも、見た目ほど体調が悪いってわけでもないんだぜ。遅くまで漫画を読んでて寝不足なだけなんだ。ああ、そういや白銀ちゃんは林檎って好きか?」
「……そう。そうなのね……答えるわ。好きでは、ないと思う」
林檎。そういや、白銀はキャンプファイヤーで林檎を食べていなかった。だから説人が二つ食べていたのか。反応から見るに、好きではないってレベルじゃなさそうだ。彼女は林檎が嫌いなのかもしれないな。待てよ。おいおい、とっきー。なんでさっきその話をしなかったんだ? 隠しやがったな? あんなにわかりやすいガキの嘘を見破れなかったなんて自信なくすぜ。ああ、それで目を合わせなかったのか。
思えば、出勤してから立て続けにチームメイトに会いすぎている。白銀がなにかしら伝えていて、そのせいでぞろぞろ俺の様子を見に来たって可能性が高い。この子もエウヘニアと同じUGNチルドレンだ。なんだ? なにか、引っかかる。
「……こんなこと、私が言うべきではないとわかっているのだけど……いいかしら」
「なんだい。俺もお前に聞きたいことがあるけど、お先にどうぞ」
「エウヘニアについて考えるのは、もうやめて」
ああくそ、俺も電気信号を操れるようになりたいもんだ。たぶん、俺は今、白銀を睨んじまった。耳の奥に虫を飼っているような不快感が襲ってくる。なんなんだよ、心臓がささくれだって、精神が尖っていく。
「……彼女から得られるものはないわ。追及しても、いい結果にはならない。貴方にとっても、私にとっても……虚しいだけだわ」
「知ってたのか。彼女のこと……ああ……そりゃ、そうか……」
狭窄していた視界が、パノラマみたいに広がった。淡い色彩だった世界にビビッドな絵具をぶちまけられた気分だ。瞬きが自然と多くなり、コマ送りみたいに目の前の少女が青ざめていく。
連続殺人が始まったのが春からなら、当然その前にあった大きな事件は一つだ。あの事件の死者はリベレーターズの少年三人、ライトニングボルトと、与儀の五人。最初からエウヘニアは五人で終わらせる気だったのかもしれない。エウヘニアの交友関係が洗えなかったのは、白銀やチルドレンたちとの関りを与儀が消したってところだろう。彼女の目的は復讐だった。N市支部長の姿を真似た意味は、リベレーターズを討った俺たちの支部を疑心暗鬼に陥らせるためだと思えば、わからないでもない。でも、まだ一手足りてない気がする。
「やめて」
白銀の細い腕が、俺のシャツの裾を握っている。瞼を閉じて、肩を上下させる君こそ、やめるべきだった。
「考えるのを、やめて。鼻血が出ているわ」
額に脂汗を浮かべて、彼女は俺を制止する。あまりに悲痛なその表情に、俺はようやく彼女の意図がわかった気がした。鼻を拭って確かめるまでもなく、襟元から血液が流れ込んでくる。
「……君は、エウヘニアをよく知ってるんだな」
「ええ。だからわかるの。あの人のことは……なにひとつわからないって」
嘘だ。白銀は嘘を言っている。呼吸を乱しているし、視線が狼狽えている。いつの間にかそんなにわかりやすく態度に出すようになったことを喜んでやりたいのに、心のどこかで煩わしく感じる。あと少しで正解がわかりそうなのに。安心したいのに。邪魔しないでくれよと、跳ね除けそうになる。
こんなにも、俺は自分がおかしいことに気づいている。激情を留めることだってできている。なら、サブリミナルみたいに俺の憎悪にちょっかいをかけてるこれは、一体なんなんだ。それだけが、空白みたいにわからない。エウヘニアの、ことだけが。
「お願い。彼女のことを理解しようとしないで。どうしてもと言うなら……」
「言うなら、どうするんだ? 貧弱同士の対戦カードじゃ、興行打っても振るわないぜ?」
静寂。支部長室へ報告に行く人間がいないのか、だれも通らないせいで子供に凄みそうになる。なんとかふざけてはみたものの、このままじゃ与儀の二の舞になりそうなくらい、俺は威圧さを纏った優しい声をしている。
「あ、頭を、叩くわ……! 叩いて、貴方をバカな人にするわ……!」
「……うん?」
自販機の横に立てかけられたこん棒のようなものに駆け寄り、それを引きずりながらよたよたと白銀は道を塞いだ。彼女はまだ何もしていないのに、一切想像していなかった角度からの暴力宣言に、俺は確かに頬を打たれた気分だった。それでも、毒気は抜かれない。
「……どしたのよそれ」
「護身用に……まな実がくれたの。私……本気よ」
「本気っつってもよ……それ、どうすんの?」
「頑張って、待ちあげるわ」
どう考えても、白銀の細腕でそんなものは振り回せない。それに、身長的にも俺の頭には届かないだろう。それでも、両足を開いてこん棒を握りしめる彼女の目には、このミッションをやり遂げてみせると言う、しずかな闘志が漲っていた。笑っちまいそうだけど、笑えないくらいの切実さで彼女の両手が鈍器を握りしめている。白銀は武闘派じゃない。それなのに、最後の砦であることを彼女は選んだ。強くなる耳鳴りが、俺の確信を後押しする。
「エウヘニアのことなんだが……」
「殴るわ。私、ダメって言ったわ。屈んでくれないかしら」
変な情操教育をまな実から受けてるな、この子は。
「違う違う。ハヌマーンのピュアブリードで後方支援を任されるのは結構珍しいよなって。白兵戦でも充分手強かったからさ」
「……知らなかったの、かしら。彼女は──」
違和感はあった。時々音が聞こえないような、会話が成り立たないような。今はもう、完全に白銀がなにを言っているかがわからない。
情報なら頭に入っていた。エウヘニアは指揮棒を振るうのが得意なエージェントだ。戦い向きじゃない。戦場に出た記録がない。だからこそ、あんな惨劇を起こしたのは不思議だったのだ。それが、ブラフだったのなら。
最初からおかしかった。俺がおかしいのはほんとうで、それはいつからだったのか。小紅ちゃんを殺したと思い込んだからじゃない。そう思い込む状態が、既におかしかった。こんなにもずっと、終わった事件に執着していることも。小紅ちゃんの死の映像を、繰り返し想像し続けることも。考えるべきは、狂った自分との境界線ではなかった。正常な部分を探したほうが早いほど、とっくに俺は蝕まれていた。
死にたくてしょうがなかったことだけが、俺に残された唯一のまともさだった!
耳鳴りが狂った調律で音を鳴らす。林檎の赤に焦がれている俺がいる。衝動が、血液を煮沸して、濾過している。肥大化した感傷が情の形を粘土細工のように変えていく。死なないでほしい。俺のいないところで。そんなふうに俺を苛む君に、死んでほしい。できるだけ目の前で。できるなら、俺の手で。
ああ、俺はもう、後戻りできないのかもな。こんなに好きなんだもん、どうしようもないよな。
小紅ちゃん、俺は君が、憎たらしいよ。
「白銀、一人で逃げられるな!」
俺は、まだ正常ぶってそんなことを言う。そして、少女の口元に目を凝らして彼女の遺言を聞き漏らすまいとした。
「逃げないわ。私がここから退いたら、貴方が行くところはひとつだもの」
その頑固さに免じて、俺はすぐさま壁に拳を打ち付けた。いつの間にか彼女へ突きつけていた銃を持つことが出来ないように一気に利き手の指をへし折る。続けざまに、逆の手も。食ってもいない毒林檎が体中を駆け巡ってファンファーレを鳴らす中で、一番早く自殺する方法を考えている。それなのに、敵意のひとつも向けてくれない小さな頭目掛けて、回し蹴りを繰り出していた。
「……っ、よく避けた! でも退け! お前じゃ止められねえ!」
白銀が思ったよりも素早くて助かった。逃げてくれ、俺の血管が切れないうちに。逃げろ、俺がお前を仲間だと認識している間に。
ああ、なんかちょこまかと鬱陶しいな。
「そうね。でも、貴方が殺して一番傷つかないのは私でしょう」
「小紅なら俺を殺せる。邪魔すんなよ。マジで殺しちまう。そうなって困るのは俺なんだ。わかるか? 面倒見てやった分だけ、言うこと聞けつってんだよ」
「……万が一にでも、貴方が支部長を手にかける可能性があるなら通せないわ。今そうしたら、戻って来れなくなるかもしれない。それだけは……させない」
窓はダメだ、遠すぎる。やっぱりさっき五階に行っておくべきだった。クソ、なんでどいつもこいつも俺を野放しにしたんだ。そのせいでこんな目に遭ってる。頼むよ。俺なんか信じないでくれよ。嫌ってくれ。助けないでくれ。恨むぜ、誰も俺を殺してくれなかったことをよ。
「声が小せえんだよ、クソガキ」
「……甘いのね。でも、悪役なら私も経験があるの」
ああ、なんつー器用さだ俺は。折れた指をシャツのボタンとボタンの隙間で固定して、もう片手でぶん殴ることでまだ銃を撃つ気でいる。白銀は俺から目を離さない。俺の憎悪を一心に引き受けるために。そんなことしなくていい。避けろと叫びたかった。
妙に落ち着いた声が、出た。そうか、じゃあしょうがねえよな、白銀。
「何言ってるかわかんねえけど死んでくれ」
「君がな」
撃ち出された弾丸が命中するのを待たず、懐に飛び込む。ガキが舐めた口を聞けないように、その細い肋を何本でも踏みつける算段でいた。確実に殺すための道筋を確定させていた俺はしかし。
その鉛が容易く叩き潰されたことに、驚いたりはしなかった。
「たかが一ヶ月ぶりの再会で、随分とはしゃぐじゃないか」
床がヒールに躾けられ、甲高い悲鳴を上げている。
空気の破裂音が耳に届くよりも早く、視界が白く弾けて、意識が刈り取られそうになる。強烈な鞭の一撃に痛みよりも先に熱さが訪れ、皮膚が焼き付く焦げ臭い匂いがする。視界がぐるんと回って、光が瞬いて、終わりを悟った。ワンテンポずれて首を打たれたと気づくより早く、廊下に血反吐を撒き散らす。肉が裂けて、体中の骨という骨に痺れるような鈍痛が響いているのに、あろうことか俺は笑っていた。
来てくれると思ってたよ。最高だぜ、小紅ちゃん。
「死なんてものは年功序列でちょうどいいと思わないか。忍くん」
大事なところの骨が折れたのか、頭があげられない。その嘆きより早く、彼女のハイヒールの爪先に顎を持ち上げられた。息の仕方がわからない。涙で顔がわからない。会いたかったのに、君が誰だかわからなくなりそうなほど、俺は心底安心していた。
「まったく、なんて顔してるんだ。女に打たれて喜ぶ趣味が君にあったとは、長い付き合いでも知らない一面はあるものだね」
「あ、はは……こべ、に……」
「ああ、そうだよ。お待ちかねの私だ。誰を見ている? 浮気はよくないな、ダーリン」
なんで、君の声だけはちゃんと聞こえるかな。都合が良すぎて嫌になるぜ。この容赦のなさを待ちわびてたんだから、俺ってやっぱり、末期だな。
「明日香。献身を情と履き違えてはいけないよ。この男みたいにね」
壊れた身体は、もう再生しないかもしれない。君に言いたいことがいくらでもあった。一回くらい、ちゃんと本気で伝えておくべきだった。でも、君を呪っちまうくらいなら、最後の言葉は劇的じゃないほうがいいか。なら、俺の遺言は心残りでも感謝でもなくて、これがいい。意識を失う直前に、ちゃんと伝えられたかはわからないけど。
いつも君の後ろに陣取って、その背中を眺めているのが好きだった俺のくせにさ。
君の目の前で倒れちまってごめんな、小紅。
クラシックが流れている。三拍子のそれに合わせて、息を吐いて、吸う。
額や頭皮に加えて、耳が擽ったい。柔らかなクッションに後頭部を預けていることで、これまでの全部が夢だったような気がする。遠く感じる光を無視して寝返りをすれば、枕が困ったように動いた。動くわけが、なかった。
全身にじっとりと汗を掻いて、おそるおそる瞼を開く。開けた。赤い髪のカーテンで覆うようにして、なにを考えているのかわからない漆黒の闇みたいな目が、待ってましたとばかりに俺を見下ろしている。吐息が顔に触れて、思春期みたいに身体が熱くなった。やっぱ夢かもな。好きな子の膝枕で目を覚ますなんて、そんな都合のいい夢を見たことはないが。
「おや、随分と早起きだ。調子はどうだい。私はそれなりだよ。君が死んだのは久々に見たものでね。それどころか殺したのは初めてだ。今晩は魘されるかもしれないな」
耳に髪をかけて、病人の目覚めには頓着がないふうに小紅ちゃんが言葉の弾丸を乱射する。開胸してエタノールを浴びせかけられたみたいに心臓に滲みることこの上ないが、これも彼女の親切心だ。生きている。生き残った。本気で駄目だと思っていたのに。
「……オハヨウゴザイマス。トテモイイデス。ゴメンナサイ」
「ロボットのような声を出すのはやめたまえ。それとも、私が知らないだけでノイマンで流行中のジョークだったりするのか?」
指が動くのか確認したいのに、力強く手を握られる。今際の際の病床みたいだな、と思う。代わりにソファーからはみ出している足の指をぴこぴこと動かして、妙な感情を爪先から逃がした。深く息を吸い込み、血液が循環している己の身体を顧みれば、どうやら奇跡のロスタイムってわけでは、ないらしい。
「……そりゃまた随分狭い世界での流行だな。いやあ、しかし……あれだな、小紅ちゃん。ノイマンの賢い頭は重いだろ。もう起きることにするぜ」
「そう遠慮するな。まだ横になっていた方がいい。医者の診断ではないが、不満ってこともないだろう?」
俺の頬を撫でていた柔らかな指先が、輪っかをつくって軽く額を弾く。罰にしちゃ緩すぎるぜ。恥ずかしい思いをしてる俺を見て、そんなに笑うことないだろ。
「……白銀ちゃんから聞いてたってわけでもないんだよな?」
助かったは助かったが、それにしてはこう言っちゃなんだが小紅ちゃんの登場は遅すぎた。それに、白銀は小紅ちゃんと俺を会わせたくない様子だったのだ。なんで、小紅ちゃんはあのタイミングで現れたのだろう。
「明日香からは、なにも。とはいえ私の耳だ。一切聞こえていなかったわけじゃないがね。彼女の意思を優先したところもあるし、やることもあったんだ」
「あー、じゃあ、あれか? まさかとは思うが、霧谷さんか」
「なんだ。すっかり賢さも元に戻ったようじゃないか。ともかく、お疲れ様。今日はゆっくり休むといい。これもリヴァイアサンに言われただろうけどね」
さすがというべきか、手回しがいい人だ。俺にも詳細を話してくれればよかったのにと言いたいところだが、聞いても止まれなかっただろうという確信もある。頭の靄が晴れると、引きこもりたくなってきた。その程度には今日一日で黒歴史ってやつを量産した気がする。死んでほしくないから殺したくなるなんてのは、俺たちオーヴァードには冷笑できない衝動だ。
「やること?」
頭を撫でる手が止まらないので、眠りそうになった。寝てしまったとしても彼女は怒ったりはしないだろうけれど、意地だけで瞼を開いていた。
「まったく……休めと言ったばかりなのに、君は話を聞かない男だな。まだ耳に詰め物が残っていると見える」
「全部すっきりした方が寝つきが良くなるタイプなんだよ、俺は。とっくの昔から知ってるだろ?」
すう、と彼女の目が細められる。それこそとっくの昔から知っていることだが、これは小紅ちゃんがかなり怒っている時にする表情だった。
「……エウヘニアへの対抗策さ。君も知っての通り、ハヌマーンには人心を操るエフェクトがある。通常、オーヴァードにはあまり効果はないものだ。あったとしても、死後も影響を及ぼすだなんて前代未聞だが……」
「彼女は与儀の調整を受けていたチルドレンの一人だった……だろ」
小紅ちゃんが眉を上げる。
「そこまで調べがついていたのか。ご名答。エウヘニアは洗脳に特化したハヌマーンだった。命令に忠実な狂戦士を気軽に量産できるところが彼女のセールスポイントだったのだろう。彼女の甘美な旋律は、兵士の頭蓋の内側で際限なく鳴り続ける。その音色は海馬と大脳皮質を行き来することで反響増幅し、より鮮烈な輪唱となる。人心を惑わす怪物──まさしくセイレーンの御業というわけだ」
時々、玄野小紅は芝居がかった抑揚で喋ることがある。決まって誰かを納得させようとしている時で、その誰かには自分も含まれているんだと、俺は思う。
エウヘニアのようなことができない俺たちは、一番信用ならない自分なんてやつの暗示にかかることがそれほどうまくない。言霊を制約にして、月野さんの墓標を楔にして、二人の時も一人の時もまだ三人でいるみたいに生きてきた。何度死んで生き返って、その度にいくらかの取り零しがあったとして、定めてもらった自分の形だけは忘れないように。
「興味深いのが、あくまでこれは洗脳である、という点だ。操り人形は殺意を持てない。あったとしてもそれは外付けなんだよ。殺せも憎めも、司令系統に割り込んだ電気信号に過ぎない。人間の身体は保守的だ。壊れそうになれば記憶の連続性を保つことを精神が拒み、件の歌を忘却する。なんともシステマチックじゃないか。思い出せばまた狂うが、それだって摩耗と共に消え去る程度のもの。人の防衛本能の前では、所詮、雑音でしかない」
それって、俺の心の防衛シールドがトレーシングペーパーよりペラいって話か? そういじけるが、上司の太腿の上ですることではなかったかもしれない。洗脳状態よりも緊張感があるって、一体どういうシチュエーションなんだよ。
「何を聞いていたんだ。逆だよ。本部のエージェントが既に何人も発狂し、監禁状態にあったんだ。あれは見世物にしては酷すぎたね。全員が極端に人間性を失っていて、歯茎を剥き出しで檻を揺らしていたからな。医者も介助者もまったく受け付けず、衰弱しながらも目から警戒心が消えなかった。客足の途絶えた動物園というのは、ああいう感じなのかもな」
おいおい。そういう言い方をするから敵を作るんだぜ。
「エウヘニアは、出会ったエージェントを一人も正気で返す気はなかったはずさ。まあ、彼女にしてみれば人生のクライマックスに打ち上げる盛大な花火だ。限度なんて用意がないのは当然だろう。多く壊せば壊すだけ意味があった。だから──君の中のソラリスが毒へ抵抗したか、ノイマンが無意識に最適行動をとったかはわからない。ともかく、君は正気であるためにあらゆる犠牲を己に強いて、彼女の歌を最も長く聞き続けた男になった。それにはきっと研究屋ならではの、未来へ己を売り渡す献身性も手伝ったことだろう。言っておくが、これは褒めてはいないよ?」
そんな気はしてたが、渡されてない情報が多すぎる。まったく、小紅ちゃんめ。自分は今日はスーツだからって強気なことを言いやがるもんだ。そっちだって年中白衣の怪しい研究屋には違いないだろうに。
「元になる音さえわかれば、ハヌマーンにとって相殺すること自体は造作もない。リヴァイアサンに鼻のいいのを宛がってもらってね。何人かのエージェントと共に以前から彼女の楽譜の在処を探っていたんだ。歌というからには一音ってわけじゃない。それに、命令の種類によっていくつかを使い分けているはずだからね。すでに本部のエージェントには汎用の楽曲を相殺したものを聞かせて効果を実証済みだったが、さすがにフィナーレの曲を探すのには骨が折れたよ。でも、それがなければ君は生涯エウヘニアの奴隷だった。ほんとうに、ふざけた話だ」
小紅ちゃんがリヴァイアサンの言うことを素直に聞いたなんて、ちょっと感動的な話だった。彼女に塞がれた両耳が温かい。どうせ伝わるとわかっている癖に、口の形だけで「そうなっていたら、許さなかった」と呟くところが彼女らしい。どくどくと、自分の心臓が脈打つ音が響いている。もう、あの耳障りな鼻歌は止んでいた。
「……ちょっと待った。以前から? それってもしかして、春からじゃないよな」
慌ててその手を掴めば、とくに拒絶されるでもなく握られてくれた。簡単に掌が回る手首なのに、頼もしく思えるなんて卑怯だ。
「いや、夏だよ。君が依頼を受けたのと同じくしてね」
通りで、夏休みの子供たちとのイベントに一度も付き合えなかったわけだ。元々人の輪の中に飛び込んでいく子じゃないが、支部長としての責務を背負うと決めた今の彼女なら、顔くらいは見せてもよかった。俺は俺で忙しかったが、彼女はその比じゃなかったことだろう。
なにせ、相殺する音を作るために調べていたのなら、鼻歌の正確なデータなんてものを探していたことになる。そんなもの、存在するかもわからない。聞いたことのある証人は狂っているし、エウヘニア自体が単独行動が好きだったんだ。そもそも、鼻歌の音価や休符なんて、歌う度に同じなわけがない。まさかこの一ヶ月、俺と同じで夏休みの宿題を彼女もやっていたとは。それも、ミレニアム懸賞問題レベルに難問だらけのドリルときた。お疲れ様ってのは、こっちのセリフだぜ。
待てよ。今とんでもないこと言わなかったか?
「いやそれ、そっちは夏の頭には犯人がエウヘニアだってことがわかってたんじゃねえか。なんだよ、俺めちゃくちゃ時間かけたんだぜ? こっちは極秘案件って言われたんだけどなぁ……」
「私もそうさ。だから互いに言わなかっただろう? 君と私があの事件に掛り切りの間、その分の皺寄せは全て東雲くんに行っていたんだよ。後でお礼を言うべきだね。同行はするよ」
「それ、まだ小紅ちゃんも言ってないってだけだろ……」
「シルバーウィークには連休をとらせるよ。いや、前回彼に現場指揮の経験を積んでおいてもらって本当によかった。ここ一ヶ月ほど、事実上の支部長は彼だったんだ。もしも東雲くんに訴える気があれば、私は今頃刑務所だろう」
そういうことを、けろっと言わないでくれ。こんなのが往々にしてある組織だと知ってはいた。それでもなんだか面白くない話だった。
霧谷さんもポーカーフェイスだよな。俺を脅す爺さん連中の存在に、あの人が気づかなかったとは思えない。だから、俺と彼女が互いのために走り回らされる状況に持ち込んだのは彼のはずだ。まあ、一番忙しいあの人が緩衝材になってくれた上、最適な振り分けをしてくれたことは認めるけどさ。でも、それなら、小紅ちゃんが俺のために利用されるっていう図に俺がいい顔しないことだって、見通してたはずだぜ。トップがそんな矢面に立ってどうすんだよ。
東雲さんだってそうだ。俺が忙しいことなんて知らなかったはずなのに、一個も仕事を振って来なかった。黙々とやるべきことをこなすのはあの人らしいが、皮肉の一言くらいくれてもよかったじゃねえか。俺なんかにチルドレンを預けるのも気が気じゃなかっただろうにさ。どいつもこいつも、ほんとに賢くて頼りになる大人で安心するよ。
弛緩しきった頭は、拗ねる俺を悪戯っぽく見下ろす彼女をやけに眩しく見せる。顔を見られたくなくて横を向けば耳朶を引っ掻かれた。あのさあ、君ってほんとに俺を舐めてるよな。
「……なんだよ。じゃあ結局は俺自身が鉄砲玉として使われただけか? 本部のお偉いさん方は、射撃の腕前は俺以下だな。チルドレンに混じってBullet of Ray先生に訓練つけてもらった方がいいんじゃねーの」
「若々しいことを言うじゃないか。まるで説人だな。普通、影響を受けるのは逆だと思うけど」
「……支部長~僕許せないよ~これってリベレーターズの一件への制裁行動なんじゃないの~?」
聞いてたら殴られていたかもしれない。
「驚くほど似てない物真似だな。かくし芸大会で披露するつもりなら、重力土下座の刑くらいは覚悟しておきたまえよ?」
ほんとうにやらされそうな刑を言い出すんじゃねえよ。
「だがまあ、君の自制心に期待していた者も多かったんじゃないか。事実、エウヘニアの歌を聞いて刃傷沙汰にならなかったのは君だけだ。鞭はノーカンとして」
それだと銃もノーカンじゃねえか。それに、無事で済んだのは決して俺の忍耐力の賜物なんかじゃない。小紅ちゃんが間に合ってくれたからだ。俺は、もう少しであの子を殺すところだった。事実、発砲してたんだ。まだイルカも見たことのない少女を、俺は射殺しようとした。
白銀には、俺のために言わなくてもいいことを言わせちまった。俺も、彼女を突き放すためとはいえ酷いことをたくさん言った。それだけじゃなく、本気で白銀を疎ましく思う気持ちは、俺にもあったのだ。そこから目を逸らすことは出来ない。それが例え、俺が軽蔑しているやつらと違う意味だったとしても。その形が違っても。チルドレンがいることで生まれた悩みの矛先を彼ら自身に向ける感情が、俺の中にも確かに存在した。
「……白銀ちゃんには、悪いことしたな」
説人のことだって、隙がなかっただけで撃つ気はあった。殺せる気がしなかったから脅していただけで、方法はあると思っていた。まな実相手にはしなかったが、気づかれてはいたな。
たぶん、白銀の分析は間違いじゃないんだろう。支部の仲間相手に、こいつには勝てるとか、こいつなら撃てるかとか、犠牲にできる順番を、俺は考えていた。これは、奇妙な歌なんて聞くよりも前からの癖だ。状況の良し悪しで判断できる小紅ちゃんに甘えて、俺は自分の情動を優先していることを、認める。
「明日香は問題ないさ。彼女は、君やこの支部の面々に恩を返したかった。その機会を得て、やるべきだと思ったことを自分の意志で行ったんだ。むしろ、褒めてやるといい。まあ、それをしないのが君っていう男だとは知っているけどね」
人の頬を挟んで揉みながら、小紅ちゃんは少しだけ寂しそうに笑った。君にそんな顔をさせるやつのことなんて、俺は嫌いだな。
「……さあ、他に質問がないならそろそろ休みたまえ」
「いや、あるぜ。打ち消しが効いたってことは、エウヘニアのことを思い出しても大丈夫なんだよな」
「私の膝に乗っておいて、まだそんなふざけたことを宣うのかい?」
咎めるニュアンスはやや大仰だ。冗談めかしているのに、どこか本気にも聞こえる。君が怒っていることは十分わかったけど。なんだよ、小紅ちゃん。俺をどうしたいんだ。
「結局のところ、動機がわからなかったなと思ってさ。まあ、白銀も尋常じゃない様子だったし、十中八九与儀関連とは思うが……ここのところは日本支部預かりだったけど、彼女、点々としてただろ。交流なんてチルドレンとその周囲くらいだったわけだし」
彼女のコードネーム「エウヘニア」はスペイン語で「高貴なるもの」を意味する女性名だ。英語では「ユージェニー」で、男性名になると「ユージーン」となる。「ゆーじー」とは沖縄の言葉で「与儀」を意味する。
たぶん、彼女は与儀のことが好きだったんだろう。この事件は、冬の事件と酷似している部分も多い。ただ、与儀への手向けだったと考えるなら、微妙に推理に穴が空いているような気もする。エウヘニアよりも少しばかり悪辣な俺が同じ動機で事を起こすなら、姿を借りるのに白銀を選ぶからだ。
復讐──そういう激情に心当たりがないわけじゃない。過酷な予習になったもんだが、小紅ちゃんが本当にああなった時、俺はきっと今回どころじゃ済まない騒ぎを起こすだろうと想像できるようになっちまった。それまでに、仲間ともっと関わるべきだと戒める。
俺は自分の性格の悪さをよく理解していた。俺は一人でいると視野が狭くなって、自分の冷徹さを許容しそうになる。色眼鏡を進んで掛けて、憎悪だけにピントを絞って、賢い頭を使って。
そうやって他人を追い詰めることが、出来てしまう側の人間だ。
「……まったくノイマンと言う病は厄介だ。自分の認識に自信を持つなんて、もっとも愚かな行いの一つだろうに」
「なんだよ、人が熟考してるっていうのに。彼女のあれは、所謂ワールド・エンド・ジュブナイルの再演だったんじゃないのか?」
「その一点のみは間違いないさ。でも丸はつけてやれないな。それでは途中式が完全に抜けている。まあ、この分じゃ解の方も間違っていそうだけど……これを私の口から言わせるのは君、かなり性格悪いぞ」
頭を撫でる手が止まってしまったので、小紅の顔を見上げる。昼日中の光が窓から差し込んで、彼女の髪を滑って頬を赤く照らしていた。どこを見ているかまるでわからないつるりとした黒目を、やっぱり魅力的だと、そう思う。
「──エウヘニアは、君に好意を寄せていた」
頭が、真っ白になった。
時間が止まったみたいな錯覚の中で、壁掛け時計の針音が否応なく心拍数を加速させる。
何を、言った?
てっきり小紅ちゃんに告白でもされるんじゃないか、なんておめでたい思考をしていたものだから、豆鉄砲を食らった気分だった。真意を探ろうと注視すれば、不意に彼女は顔を背けてしまう。皮肉の準備でも、切なさを隠したのでもなく、俺の視線を嫌がったのだとわかった。それが、ただ単純に不機嫌な時に見せる態度だったから、俺は二重に慌てた。静止する彼女を振り切って起き上がれば、酷く傷ついたような顔をされて、三重に、慌てた。
「いや、エウヘニアがか……? なんだそりゃ。冗談きついぜ、小紅ちゃん」
「きついのはこっちだとも、忍くん。二度も言わせないでくれ。彼女は君に恋をしていたんだ」
そんなことはあり得なかった。彼女が俺を好きなわけがない。そんな仮定は成り立たないし、そんなこと、今更知っても。あの子が死んじまった今、俺は、もう挽回のしようもない。そんな真実はないはずだ。あったら、困る。やめてほしかった。だって、それが事実なら。なら、俺はどこまでも愚かで、救いようがないくらい無能な男ってことになっちまう。これ以上まだ自分に嫌えるところがあるなんて、信じたくはなかった。
なんでだよ。それなら、ぜんぶ、まるで逆だったってことか。俺は小紅ちゃんを真似たあの子を殺す羽目になって、その卑劣さを心底憎んだつもりだった。そんなことを命じた老害どもも含めて、許せなくなったと、そう思っていた。
でも、前提から間違っていた。
俺がやったのは、最低な行為だった。
俺みたいなどうしようもないやつを好きになってくれた子がいたのに、それを知らないままこの手で始末したってことだった。
腑に落ちない。わけがわからない。なんでだ? 彼女に好かれるようなことなんて、した覚えがない。それどころか、彼女が俺を好きなことと、あんな惨状を生み出したことにはなにも繋がりがないじゃないか。理解を拒む出来の悪い頭が、俺のせいだという寒気だけを迫り上がらせる。身体が、沈んでいく感覚がする。
「おいおい、どうやら本気でわからないみたいだな……いいかい。ワールド・エンド・ジュブナイルの再演、それ自体はおそらく間違いない。エウヘニアはどこからかあの事件の詳細──まな実と桐生少年の別れ話を仕入れたんだろうからね」
桐生嚆矢。ライトニングボルト。リベレーターズのリーダー。チルドレンの解放のために俺たちと対立し、まな実の手で散った少年。あの冬の事件の当事者で、実行犯の筆頭で、コードウェル博士の実験の、被害者でもある。
「おっと、ちなみにエウヘニアとコードウェルには接点はない。そこは安心したまえ。彼女にとって重要なのは、あんな男じゃない。君だ。天涯孤独で、人を狂わせることだけを命じられて生きてきたその心を癒やした、君だけだ。彼女は、桐生少年を羨ましいと思った。彼が、まな実の中で永遠になったことを」
「……嘘、だろ。そんなことのためにあんな、ほとんど話したことだって……」
「そんなことのために、だ。まさか、君は恋愛感情に夢を見ているクチか? あれは理屈の通用しない病だよ。正気の産物じゃない。潜伏期間があるかどうかは人によりけりで、そもそも、彼女がきみに恋愛感情を持つことに君の了承は必要ない。恋なんてものは一人でもできるだろう?」
N市の情報屋とエウヘニアの接点なんて探しても仕方がなかった。彼らと一番会っているのなんて、そんなの俺に決まっている。エウヘニアが誰と交流しているかなんて調査が、進展するはずがない。最も交流した相手は、俺だったのだから。
俺は、それに気づいていた。たしかに他人の口から聞いた情報だったのに、あり得るわけがないと一蹴してしまった。だから結論に辿り着けなかった。その上、責任転嫁までした。なにが与儀のことを好きなはず、だ。もう与儀が言い訳できないのをいいことに、罪を擦り付けようとしただけじゃねえか。拳が震える。俺は、一体なんのために、この一ヶ月走り回っていたんだ。
「彼女は君の記憶に残りたかった。君が事件を担当するまで、いくらでも情報屋を消すつもりだったんだろうね。最初から狙いは君だ。事件が凄惨であるほど君は忘れないだろう。情報が少ないほど、君は謎を解こうと彼女のことを考える。実に計画的だな、エウヘニアという女は。ホストに本気になる辺り、救いようはないが」
「じゃあ、林檎……林檎はなんだったんだ? 彼女の遺言だ。朝が来たら、とか……」
「さあ? 君が覚えていないほどの、どうでもいい雑談の中で話しでもしたんじゃないか。君もこれに凝りたら、今後は誰にでもいい顔をするのは控えることだね」
それなら、あの表情はなんだったんだ。俺に対して、待ち人来たらずみたいな顔をしたじゃないか。考えりゃわかるのに、できないでいる。否定するための材料を探しているだけの俺は、行き止まりにいるのにまだ逃げる気でいた。
「大方、自分の頭の中でも好きな歌をループさせるような女だったんだろう。想像の中の相手しか見ちゃいないんだ、ああいう手合は。まったく、冗談じゃない」
──ああ。そうか。そうだったのか。
吐き捨てるような声色の小紅ちゃんを見下ろせば、彼女はしずかに怒りを抱え込んでいた。なんだ、全部、俺のせいだった。そんなシンプルな事実が喉元を引っ掻いて、不快感を残している。俺のせいで、みんながとんでもない目に遭った。死ぬ必要のない関係のない人間が、五人も死んだ。なんで。なんでだよ。エウヘニアは、どうしてあんな格好をした?
「露骨に落ち込むのはやめたまえ。忠告はしたが、あんなものは当たり屋だ。君のせいではない。それに、その問いはノイマンじゃなくてもわかることだろう。彼女が私を真似たのなんて、君を事件に引きずり出すために決まっている。君の記憶に残るための死に装束にも関わらず、そんな悪手を選んだのだって……それだって、君が私を憎からず思っているからだ。それ以外に、何か理由があり得るかい?」
「……ないな」
今度は、正気じゃなく死にたくなった。
エウヘニア。赤髪の少女。いつも一人で手作り弁当を食べていた、料理好きで、無口な女の子。彼女の頭頂部に「久しぶりだな」と何度か話しかけた。すれ違えば「最近どうだ」なんて声をかけた。どれも返事はなかった。でも、なんとはなしの俺のその行為が、彼女にとってはかけがえのない一時だった。俺は好きでもない歌を喉が枯れるまで歌うだけの彼女の人生を癒やしていた。
そんなこと、知りたくなかった。
一度だってまともに向き合わなかった俺を、彼女は好きになった。なんで俺なんか。なんで俺の記憶に残るためだけにあんなことをしたんだ。なんで、俺を好きになんかなるんだ。なんで。
なんで、俺はわかりやすい弱点を晒して、小紅を危険な目に遭わせた。
侮蔑がある。悔悟がある。恐怖と劣等感と、それから憐憫があった。
いつから思ってくれていたんだろう。ああまで思い詰める前に、なにか出来たんじゃないだろうか。
「すべてが自分のせいだと、傲慢にも悲劇ぶるなよ。恋なんてものは破滅の劇薬だ。自分を好きになってくれたからなんて理由で、一緒に飲んで酔ってやることはない。いいかい? 私はずっと怒っているんだ。これだけ言ってもまだわからないなら、強烈な気付けが必要だな」
襟首を掴まれ、息が詰まる。反射的に閉じそうになる瞼をなんとか開く。殴られるだけの自覚があった。間近に迫る顔に許しを請う方法を模索していたら、鼻先が、触れ合っていた。
「キスして、あげようか」
頭が、真っ白になった。
なんだって?
俺は今、人生で二番目くらいに色々なことを考えていたはずだった。それはもうシリアスに、あの子からの気持ちを知って衝撃を受けていたんだぜ。花くらい手向けてやりたいと思ったし、せめて一人くらいはその死を悼むべきだと思った。たとえ一連の事件が俺のせいで起きたとしても。俺が殺したんだとしても。だからこそ。
それなのに、それらがすべてが吹き飛ぶ瞬間最大風速の発言で、会話の前後の関連性がまったくわからなくなった。他の女のことを考えることを許さない君の強引な態度に、くらくらと、きた。
「……え、してくれんの!?」
「普通は断るだろう……でも、いいよ。言ったからには」
髪を耳にかけた小紅が、ちょっと困ったように目を伏せる。そして呆れたように俺を笑って、身体を寄せてきた。
「……やれやれ、まったく恐ろしい脅迫だな。できればもっとムードがある時にとっておきたいから、遠慮しとくぜ」
「やり直したつもりか? 臆病者め。よろしい。ならば膝枕の刑務に戻ることだ」
自信満々に、それでも微かに耳を赤くして、小紅ちゃんは手を差し伸べる。ゆったりと導かれて、身長差を覆す大魔法をかけられる。なんつー強力な気付けだ。さっきまで、君が俺を絞首台に寝そべらせていたと思ったのに。
あーあ。俺、ほんとうにショックだったんだぜ。ある意味、あんなに熱烈にアプローチされたことなんてないわけだし、もっと声をかけてやればよかったって、後悔だってしてる。
「彼女が君にかけた呪いの内容について、私は言及しない。墓はおそらく立たないだろう。もう、忘れることだ。それが出来ない君だとしても、私はそうしてほしいと思う」
それなのに、こりゃないぜ。一から百まで格好がつかなくて、全部君の手のひらの上だ。喪失感や絶望が襲ってくる前に引き止められて、好き勝手に転がされる。それが悪くない気分だって言うんだから、俺は阿呆だった。
なにかしてくれなんて、君は俺に一度も懇願してこなかった。そんな言い方をさせた俺なんて、もっと軽くあしらってくれよ。なあ、君のそれは愛情って呼んじゃいけないのか。そう追求したくなる。煽るだけ煽っておいて名言を避けられちゃ、こっちも言い出しづらいぜ。臆病者だからな。
「……で、俺の処分はどうなるんだ?」
「今してるじゃないか」
いやほんとに罰のつもりだったんかい。
部屋に響く掠れたレコードは、おそらく前支部長の私物かなにかだ。抜けた人なのに、学生時代からひとつも変わらずどこか洒落れてる。これ、今ムードあるんじゃねえか。どうなの。引っ込めたばかりのチャンスに飛びつきそうになる。思春期みたいにどぎまぎする俺の百面相に、小紅ちゃんは申し訳無さの欠片も感じないらしい。盛大に吹き出しやがった。
「ふっ……あはは。自分を殺した女に膝枕されるなんて、耐え難い苦痛だろうからね。そうだろう?」
「……ああ、そうだな。ほんと、胸が痛いよ」
「後でそっちも撫でてやるさ」
そんなに甘やかさないで、もっといくらでも嫌味を言ってほしいのに。そうしないことも罰のひとつだとでも言いたげに、小紅ちゃんは片目を閉じた。
「まあ、向こうだって都合の悪い案件を秘匿したんだ。こっちは事件を解決した上で身内で処理したのだから、とやかく言われる筋合いはないだろう。黙っていればバレないさ」
手慰みの玩具みたいに俺の鼻をちょんと突いて、お預けを食らわせるみたいに口元に人差し指の感触を残していく。俺が洗脳にも耐性のある精神力の強い男で、君はほんとうに良かったね。
「……さては小紅ちゃん、全部織り込み済みだったか?」
「それはいくらなんでも過大評価というものだよ。リヴァイアサンが君を買っていた──ひいては、君の日頃の行いのおかげというわけさ。みんなが時間を稼いだのだって、そういうことだろう?」
ここまでのやらかしをして、それなのに報われてもいいのだろうか。照れくさくなって丸くなる背中を、あやすように彼女が撫でる。見てろよ。生涯のどこかで絶対やり返してやるからな。
「さっきも言ったが、今日は休みたまえ。なにかご褒美が欲しいというのなら、検討もしよう。その……なんだ。できる限り期待に応える備えはあるつもりだからね」
「マジかよ。これ以上があるのか。じゃあ……例の鼻歌を相殺するのに歌ってくれた歌って、今聞けたりする?」
「それは断る」
「即答かよ!」
唐突に膝から放免された。どんだけ嫌なんだよ。毛足の長いカーペットを、妙に硬質に感じた。
「なんだいその目は。可愛くないのに可愛い子ぶるのはやめたまえ」
可愛い君にそう言われちゃ、反論もできない。
「……心配かけて、ごめんな」
「なに。いつもの君ほどじゃないさ」
とん、と軽く胸を小突かれる。みんなにも謝らないとな、とようやく思えた。
俺はずっと、自分の内側の声ばかり聞いていた。人と関わる何倍も、自分自身と話してきた。
外交担当みたいな椅子を用意してもらって、身の丈に合わないと嘯きながらも座り続けてきたんだ。交渉は最も孤独な作業だ。カジノの胴元が客と馴れ合うことはない。どれだけ繋がりを作っても、離さないでいてくれても、俺はそれを価値で換算してしまう。
その寄す処を立ち去ることも、縁を断ち切ることも、決めるのは自分一人だけでしてきた。一人は気楽で、責任がない。俺の知らないところで失われる人々に、心を砕かないで済む。
奪われるのは大嫌いだった。聞き分けも、ほんとうは誰より悪い。まともに傷つく健常者でいるには痛みに慣れてはいけないと教えられたのに、痛いことを迂回して、野良猫みたいな気ままさを選んた。
でも、俺はここに帰って来てしまった。あたたかいこの場所に。情で縛り付けられて、雁字搦めにされて、引きずり戻されるような形で。小紅ちゃんと同じく、ツケを払ったことに、されて。
喪失を怖れて孤独を選べば、俺もいつかは気まぐれの施しを信仰するような人間になっちまう。特別な力があったって、俺はスーパーマンにはなれない。間抜けな凡人の域を出ない俺は、自分の影響力っていうものを見積もることから逃げ切れない。一番隠したい人には、浅ましい本性を暴かれてしまう。
どんなに冥護忍を辞めたくなっても、きっともう無理だ。悪魔ってものがあっても、永劫の炎の中で焼かれながら生きられるほど、俺は丈夫でもない。復讐に身を焦がすよりも俺を止める彼女の疾駆のほうが、速い。
耳を澄ませて、精算を済ませて。避け続けてきた紐が何本も固結びされてしまったことに、謝罪よりも多く感謝をして。そうすることが償いで、そうすることが、当てつけになる。
今は廊下から、子どもたちのはしゃぐ声と、それを叱る大人の声が聞こえる。ほんとうに帰ってきたという実感に包まれて泣きそうになる俺の顔を、なんとか見てやろうと小紅ちゃんが覗き込む。
これが俺の日常だ。
これでほんとうに、事件は終わったらしかった。
窓の外を眺めている。
灰色の雲が重さを増して、低い位置に降りてきていた。一雨来そうな空に、今ばかりは悪い気はしない。家路を急ぐ二羽の燕が連れ添って、ビルの隙間を縫うように飛んでいる。その翼が濡れなければいいと感じるだけの余裕があるくらい、心の傷も治り始めていた。
支部長室の、他より若干高級な来客用のソファーに俺は寝転がっていた。家に帰るより落ち着くだなんて戯言を許されて、薄手の毛布まで掛けられて。彼女が机に向かって仕事をしているのを、時折横目で盗み見る。打鍵音の合間のクリックやため息を、やたらと鮮明に耳が拾った。心地がいい。なんとも贅沢な時間だ。
「そういや子どもたち、次は月見とハロウィンを計画してるらしいぜ」
「それで私に参加を促しているつもりかい? 遠慮しておくよ。青白い幽霊ならさっき一度殺したし、仮装なんて今の君には禁句だろう?」
漫画みたいに格好良く登場したから忘れそうになったが、そういえば彼女はこういうやつだった。瘡蓋になったばかりの傷口を、血が通っているかどうか突いて確かめる厄介さを持っている。
人の幸福を遠巻きに眺めて微笑むときの、その眼差しの一割だって俺には分けてはくれない。だから、さっきの膝枕も本気で罰のつもりだった可能性が高いんだろうな。
「とっきーがキャンプのこと根に持ってんだよ。まな実は、遊ぶのが子供だけの仕事だなんて大人は狡いって言ってた。東雲さんも、上司が休まないと休みにくいみたいだぜ?」
最後は大嘘だけど、代弁しただけだ。東雲さんは、マジで休んで欲しい。
「なんだよ。そんなに私が仕事好きの社会派畜生に見えるかい?」
「社畜ってそんな略語じゃねえだろ」
小紅ちゃんは、公私共に集まりというものにあまり参加しない。自分がいたら盛り下がるとか、共感してやれないからとか、とよく断る。それってもう、十分相手の気持ちを慮っていると俺は思うんだけど。その気持があれば十分だし、そももそも子どもたちはそんなこと気にしないだろ。違うか?
「やることがあると落ち着くのは、俺だけの性分じゃないよな」
「元気になった途端これだ。君は弱っているほうが可愛げがあるな」
嫌いな書類仕事から視線を外さずに行われる、軽口の応酬。久々の感覚なのは彼女も同じなのか、纏う雰囲気がいくらか柔らかい。
「ま、ハロウィンだけでも付き合ってやれよ」
「なぜそっちなんだ。白衣とスーツ以外を着ていれば仮装に見える私が着飾って、誰の得になる?」
「……そりゃ、俺だろ。俺が嬉しい」
「おや、疲労が限界なようだ。強制的に寝かしつけて欲しいならそう言いたまえ」
「その恐ろしい手首のスナップをやめてくれ」
小紅ちゃんがドアへちらと目をやり、存外優しく笑う。なるほど、彼女の耳が先に、ささやき声を拾っていたわけだ。
もう起きたかな。どうする? 二人きりにしてあげたら? そんないじらしさに〈声無き声〉で起きていることを伝えると、説人とまな実、白銀が三者三様に反応して、ぱたぱたと逃げていく足音がする。
「なにか置いていったようだよ。お見舞いの品じゃないか?」
「ここは病室じゃねえってのに」
「病人しかいないんだ。同義だろう?」
毛布を頭まで被り、サンダルを引きずりながらドアを開ける。別に食べたいわけで聞いて回ったわけではないが、うさぎに剥かれた林檎が皿に載せられて床に置かれていた。切り絵みたいに器用に顔まであるのから、途中で飽きて耳が片方しかないもの、食品サンプルみたいな出来のものと、個性が爆発している。
廊下の角から覗く、隠れ切っていない三つの頭に「ありがとうな」と大声を出して、応えた。しばらくは見たくもないと思っていたのに、まったく。全部食べないわけにはいかねえな、これは。
「さっき、君が眠っている間に東雲くんも見舞いに来たんだ」
「マジ? 俺そんな完全に眠ってたんだな」
「無事、彼も秋休みの申請を取っていったよ」
へえ、珍しいこともあるもんだ。人のふり見て我が振り直したってか?
「膝枕でにこにこ笑って寝言を言う君を見ていたら、すべてが馬鹿らしくなったらしい」
「あ、その時点!? 起こせよ!」
あやうく林檎を落としかけた。万有引力の法則が見つかるところだったぜ。じゃなくて。
「それ、小紅ちゃんだって恥ずかしかったんじゃないのか」
「私の場合は君が恥をかいている状況に限って、帳消しになる法則があるからな」
「知らない法則だ……あ、これ今度とっきーに言ってやろ」
「君も年を取ったんだな。少年におかしな冗談を吹き込むのだけが趣味とは。まったく……子供の世話もいいが、暇はつくるものだよ」
可哀想なものを見る目で肩を竦められた。自分のついでか、スティックタイプの紅茶の封を切り、カップに注いで出してくれる。ノンシュガーのそれはちっとも甘くないし、ノンカフェインのそれは眠気を散らしてはくれない。優雅な午後のティータイムにしては些か効率的だが、そういうところも含めて、君がいいと、そう思う。
「じゃあ俺とあくせく作ろうぜ。なんでかここにチケットがあってさ……」
貰ったんだ、といつもみたいに誤魔化すことだってできたのに、やめた。
「買ったんだ。奮発して」
しゃり、と林檎を齧りながら、彼女の顔を見る。まだ怒りは消えていないのか、視線は外さないままに瞼の重い目をしていた。長い付き合いになるが、もしかしてこの顔は照れ隠しなのか? なんて新しい発見をする。けれど、それはすぐさま悩ましげに切り替わり、一瞬、悲痛さを見せる。
「……ドレスコードがないなら考えてもいい」
そんだけ真剣に考えて、気にするところがそれかよ。
「おあつらえ向きに、ないぜ。ビアガーデンとか水族館だ。あるわけない……ないけどさ。可愛い服着てきてくれたら、そりゃ、嬉しいよ」
「君ね。しれっと一番難しい注文をするじゃないか」
「そうか? そんなことないと思うぜ。小紅ちゃんは何着てたって可愛いんだから」
「……なんだ? 恥ずかしいことを言い出すね。まだ正気じゃないと見える」
自分は散々壁際に俺を追い詰めたくせに、いざこっちが口説くと逃げ足が速いもんだ。でも、俺だって。君が足を止めて、俺がちゃんと着いてきているか確かめるタイミングが、わかってきたんだぜ。
「正気で言ってるんだよ。俺も学習してるんだ。今日くらいはいいだろ。言っていいなら、ほんとうは毎日だって言いたいくらいなんだ」
「……君、まさか口説いてるのか? 私を?」
そんな訝しげな顔することないだろ。
「俺が口説くのは小紅ちゃんだけだっつーの」
「舌の根も乾かない内に。どこが学習しているって言うんだ」
「たまには小紅ちゃんからも口説かれたい気分だな。褒章がもらえるっていうなら、それにする。いいだろ?」
好きだとか愛してるだとか言わなくても側にいてくれるのは知ってる。だけど君はちょっとくらい守らせて欲しいって思う俺を振り切って、いつも先へ走って行ってしまうから。その後結局、追いつくのを待っててくれるけどさ。たまにでいいから俺に君を振り返る権利がほしい。俺を追いかける君なんて、絶対に愛おしいに決まっているから。
「君は……」
言い淀む。小紅ちゃんの中では、まだなにか引っかかることがあるらしかった。それが何かは、彼女が言う気がない以上、俺も聞き出そうとは思わない。
「そうだな……まあ、また必要がある時に」
「今かもしれないぜ? 必要なのは」
「……わかったよ」
一拍。間が空く。
「やっぱり、そうしていると君は可愛い男だね」
そっちかよ。ほんとうにそれ、口説いてくれてるか? そっちがその気なら、最大限君のツボってやつを利用してやることにする。
「じゃあ、可愛い忍くんとデートしてくれるか? 弱ってるから、断らないでくれると嬉しいんだが」
「弱ってなくたってしてあげるとも。可愛い君となら。暇さえあればね」
「おいおい、小紅ちゃん。今更撤回できないぜ? 暇はつくるものだろ?」
「おや、言うじゃないか」
今までとちょっと違う日常を、君と過ごしたいと思った。そのちょっと違う日常が、俺達の日常になるまで。どうせ頭の中に響くなら、遺言や、自問自答じゃなくて、まだ聞いたことのない君の歌がいい。
「歌は金輪際遠慮したいところだが、ダンスなら構わないよ」
「そんな特技は初耳だな。上手そうではあるけど」
「踊って見せるのが得意な誰かさんのせいかもね。踊らされるのは嫌いだが」
「そりゃ気が合うな」
俺の走馬灯の半分は、玄野小紅の場所として空けておくから、予約しに来てくれないか。俺達が仲良くしていると喜んでくれるような、気のいいやつらを笑わせてやろうぜ。いつか二人で残り香になる時、墓前が騒がしくなるように。
「ノイマンのくせに遅いな。手を取りたまえよ、王子様」
「えっ!? 今かよ!?」
慌てて駆け寄り、差し伸べられた手を取る。これじゃどっちが王子様だかわかりゃしない。それどころか、尻尾を振って御主人様の号令にすっ飛んでくなら、犬の方が相応しい。それでもいいか。俺の首輪も犬小屋も、ここがいい。
「普通こういうの、俺から手出すんじゃねーの?」
「君が普通というタマか。それに無断で姫を演じたのはそっちだろう」
「ま、お姫様が起きたらダンスするシーンになるってのは、鉄板だな」
しばらくはこのネタでいじられそうだけど、それもいいか。
「あー、ワルツでいいのか?」
「なんでもいいさ。こんなもの、どうせ口実だ」
背中に腕を回されて、しがみつかれちゃ踊れない。胸元に埋められた表情は伺いしれないが、小刻みに震える肩を見なかったフリして、力いっぱい抱きしめる。ぜんぶ、俺の下心だってことにしてやろうと思った。
「言い忘れてけど、ただいま」
「二度と言い忘れるなよ」
「いてて。悪かったって」
つねられた背中は大して痛くないのに戯けて見せた。ここは家じゃないぞ、なんて言われる覚悟をしていたのに、誤魔化すと思っていたのに、瞳に涙を溜めたままで小紅は顔を上げた。
「……おかえり、忍くん」
君が泣き止んだら、今度はこっちから言わせてくれ。君を呆れさせた後は、いつも笑わせてきた功績があるだろ?
エスコートは不格好かもしれないけど。君に相応しくない俺だけど。
なあ、小紅ちゃん。俺たち、まともさの境界線の上で、下手なステップで踊ってきたよな。これからは、どちらかがはみ出した時に引っ張り上げるために、この手を離さないって誓いたい。
どうせ終末論のその先みたいな世界で、喪ってばかりなのに続いていく人生なら、一人で踊るのはつまらない。ついさっき死んで生き返ったばかりの俺じゃ、あまりに不確かな約束かもしれないけど。
でも、どうか頷いてほしいんだ。
この先、今生最後のその時まで。
おもしろおかしく、俺と踊ってくれませんか。
(完)
プロット
クランブルデイズから続く、ワールドエンドジュブナイルの自陣後日談
いくつかのシナリオを通過した仲間内で読むので暗黙の了解になっている描写はあえて省く。
シナリオ本編ではチルドレンを厳しすぎる教育で締め付け、死んだ娘のロールプレイを教え子の一人である白銀明日香に強要するなどの狂気と焦燥と喪失を抱えたまま世界を崩壊に導く計画を行っていたものの、自らの教え子であるリベレーターズに中盤で殺害されてしまった与儀大輔と、今回の小説の主人公であるソラリスとノイマンのクロスブリードであり、単独行動が得意だったもののN市という古巣に戻って仲間との絆を深めている冥護忍の対比を描く物語。→エウヘニアと小紅ちゃんを対比にするのでもいいかも 白雪姫とシンデレラ
物語の核になっているのは、エウヘニア〈宮廷調理士〉という孤独な女性エージェントの起こした連続殺人死体損壊事件を忍が単独で追っていたことにある。エウヘニアは実は密かに与儀に好意を寄せており、自分がチルドレンとして与儀に教育を受けられなかったことを悔やむほどの激情を抱えていた。その与儀がN市支部によって処分されたことを恨んでおり、復讐のために支部長のフリをしてN市支部を瓦解させようと企んでいた。エウヘニアはほとんど唯一といっていいほどの関りを持っていた忍がN市に返り咲いたことを快く思っていなかった。逆恨みのような形で忍の最も傷になる方法を取ったとも言える。
彼女のコードネームはスペイン語で「高貴なるもの」を意味し、英語ではユージーンとなる。「ゆーじー」とは沖縄の言葉で与儀を意味する。彼女は与儀が話していた、弁当に娘の剥いた林檎入っている歓び以上のものを彼に与えたいと考えていた。エウヘニアの衝動は妄想。林檎に見立てた人間を綺麗に剥いて、与儀への手向けとする冒涜的な儀式を行っていた。実際に与儀を殺害したのはリベレーターズだが、彼女にはそんなことは関係がないのだ。→これ与儀への感情を忍ちゃんに変えたほうが忍ちゃんが傷ついてかわいい 変える 忍ちゃんのミスリードにするために与儀のこと好きなんか? 部分も残したい
支部の五人+白銀って、みんな割と一人でいることが得意な面々だから、孤独であることの恐ろしさを強調したい エウヘニアのロイスどうなっとったんや しらん……
忍を好きになったが故にジャーム化してそれしかなくなってしまったエウヘニアと、彼女を追う忍 それを裏で止めようとしている小紅の図で展開する
できればみんな活躍してほしいな
エウヘニアを小紅ちゃんにちょっと似てるハヌマーンってことにしよう 狂ったしのぶちゃん書きたいけどキャラ崩壊嫌だから、エウヘニアが戦闘キャラっぽいけど洗脳が得意で与儀の調整を受けてたみたいな感じにする サイレンの魔女は洗脳系の技じゃないけど名前かっこいいから用いたい
どっかでタイタスやロイスの由来をもじったりして、おしゃれな部分もほしい 忍よ、広行灯演じてるだけで格好いい言い回しが得意であれ
みんなが忍ちゃんは支部にいた方がいい=必要(忍自身のためにも)と思ってる
忍は冒頭で昨晩の回想を行う。それは顔見知りの女性エージェント、エウヘニアによる情報屋の連続殺人事件のことだ。忍が彼女を殺すことで、その凶行はようやく止まった。忍はノイマンの記憶力と並列思考で口語調の日記を読み上げるような形で事件を振り返る。映像的にも覚えているが、精神的負荷を減らすために文字的に記憶情報を参照するのが忍の癖だ。
事件には、動機がない。犯人である女性は人との交流が極端に少ないタイプで、説得にも応じず、ほとんど忍とも会話をしないまま戦闘に持ち込まれた。女性が忍の勤めるN市のUGN支部長の変装をしていたことで、忍は甚大なストレスを抱えている。忍は支部長の玄野小紅のことを憎からず思っており、彼女に似た女性を手にかけさせられたことでとてつもない疲労を抱えている。→エウヘニアの命令にかかっていることを、忍は気づかない 自分のおかしさには気づいているが、それは希死念慮についてだとかんじている 事実としては逆で深層心理で大事な人を殺そうとする自分を止めるために死にたがっている ただ、死んでも忍にかけられたエフェクトは完治しない 作中殺すのは小紅からの一度きりの方が盛り上がる
忍は支部へ向かいながら考え続ける。エウヘニアの動機をはっきりさせたい。小紅のふりをしていた理由を解明しない限り、事件が解決したと断定できない。小紅になにかが起きる序章なのではないかと、警戒を解けないでいる。器用貧乏な忍ですら、その自らの精神状態をまともに保つことができないまま支部に出社することになる。忍は自らの衝動である憎悪に自覚的であり、その感情に振り回されないように冷静であろうとするが、そこかしこで相手を殺せるかどうかなどを考えてしまいそうになる。
支部では、昨年の冬のワールドエンドジュブナイルの一件以来大きな事件がないまま一年近くが経とうとしている。忍は研究者として仕事をこなしつつ、FHとの小競り合いをしつつ、暗躍もしつつ、リベレーターズから戻ってきたチルドレンたちのケアを行うことも業務になりつつあった。対外的には、忍は夏休みは子供たちと遊んでばかりいた。忍は忙しいながらも子供たちとの交流に救いを見出していた。そんな日常を崩壊させたのがエウヘニアの事件である。
こんなかんじ
忍、みんなへのバグった際の感情など
エウヘニア 嫌悪から憐憫 殺すしかなかった→死なないでほしかった
東雲さんは同じ立ち位置の象徴 殺したくない→死んで欲しい
モブおじたち 死ぬのはよくないけど→まあえか殺しても 倫理観あるだけでハードルがひくい
モブこどもたち 守りたいけどうまくいかないもやもや→ちょっと殺してもいいかな〜
とっきーは自分が大人であろうと思える象徴 ほんのちょっと殺してもいい 割と
まな実は成長めざましさとまだ残る危うさの象徴 殺したいけど無理かもなー頑張ればいけるかー
白銀はまだチームに入りきれないモブこどもたちとの中間 白銀自身も自覚あり ちょっと殺していい〜のやや上
小紅ちゃん 安心できる居場所、帰りたいところの象徴 死んでほしくない→めちゃくちゃ殺したい
忍は仲間たちとの交流の中で癒やされるが、正気に近づけば近づくほどエウヘニアの歌は彼を蝕む。いざほんとうに仲間を殺しかけるところに駆けつけた小紅がエウヘニアの歌を相殺する形で盛り上げる
ラストはいちゃつけ
東雲さんはなんとなく秘密裏に事が動いてることを悟ってる 忍と小紅が危ないのかと思ってしゃあなし頑張った 忍との会話ではカマかけたり観察したりしてる 追及したいんじゃなくて対処するかもしれないから輪郭を掴もうとしてる 他の人より忍ちゃんを殺す時に苦しまない自信があるから、彼もその方がいいだろう、苦しまれるちつらいだろうなと居場所を伝えておいた 来なかったら小紅が対処するけど彼女が傷ついてもいいんですかくらいの圧は出してあげたし 東雲さんの想定より忍はボロボロだったので行けなかった
とっきーは事件とかはよくわからないけどただ忍が心配で 対個人として話してる
自分はイリーガルだしまだ子供だから、いざとなったら忍と戦わないと、と思ってる
でも全然殺したくなくて忍から大丈夫って言葉を引き出そうとした
とっきーはお兄ちゃんなので、頼られれば踏ん張れる 忍も同じタイプだと思って素直に頼った でも普通に銃持ってて撃とうとしてることに気づいて内心すごい傷ついた
忍ちゃんと会ってまだ浅いから自分じゃ説得力ないかも……とまな実にバトンタッチした
まな実は慈愛なのでいつでも殺してあげるねの優しさがある 今までよりも感情に広がりが出て守る範囲も広くなったし、コウヤとの約束だから面倒なことも多少我慢してお姉ちゃんしてる
忍のことは大事だけど必要なら殺す 多分、前より豊かになってるから実際殺した後にホロって泣いて まな実弱くなったかも〜やだ〜って思う みんなは弱っちいから忍ちゃんを殺す時に躊躇って殺されちゃうかもだしやってあげるよ その隙を見逃さない忍だというある種の信頼がある
白銀はとても頑張った エウヘニアがサイコラブガールだと知っていたし、忍を好きなことも知っていた 読んだことがある 今回の事件のことは全然知らなかったけど 小紅ちゃんに違和感を感じて読んで、やばい……と思ってた 夏休みも忍ちゃんを見張ってた(小紅ちゃんはわざと読ませたわけじゃないけどそうなるだろうなーと静観してた)
今回とても頑張った N市の仲間になりたかったし、でもなってないからもしも忍ちゃんが殺すなら自分にさせようと思ってた 自分が死んでも忍が傷つく量は少ないと思った
(メタ的なこと言うと忍ちゃんは白銀にロイスないからこう書こうと思った)
小紅ちゃんは支部長としても個人としても忍ちゃんに引導渡すなら自分と思ってるかも
できるから 嫌だって気持ちはあるけど忍くんは最後に私に会いたいだろ、という情けもある 先に月野さんとこで待ってな
今回は戻ってくるだろうっていう確率は70パーくらいの気持ちで、全然確証はなくて結構きつかったと思います 愛だね
忍ちゃんは自分を追っかけるのが好きだろうから、捕まらないでおいてやろうね という 素直にならないのは忍のためでもあるのだ……言い訳かも
小紅ちゃんは、エウヘニアの命令に心当たりがある。というか、調査の中で譜面を知っている。通常エウヘニアの歌は命令一つ分の一小節だが、だいちゅきな忍さんのために三小節つくった♡
内容は「私を愛して」「私を殺して」「私を覚えていて」の三連コンボ。
これを小紅ちゃんの姿でやることで、エウヘニアは小紅ちゃんを思い出したり見たりすることで自分と結びつけるという最悪なことをしている。そこまでして……
作中やたらと忍が小紅ちゃんのことを考えていることも、これが影響している。
小紅ちゃんがラストの方で、自分を口説く忍ちゃんに「まだエウヘニアの洗脳が残っているかも」と思ってうまく合わせられない感じ、ちょっとだけ出したい。しのぶちゃんも変だと思うけどつっこまないみたいな。小紅ちゃんは忍くんを取り戻すぞ!!!!とめちゃくちゃ怒っている せっかく戻ってきたのにくれてやるものか
鼻歌相殺のために歌いまくってるからもうやだ!!!もある そんな裏話
ワールドエンドジュブナイル後日談 マルヤ六世 @maruyarokusei
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