第二十話:偽りの希望
「助かった……! 俺たちは、助かったんだ!」
リーダーの狂喜に満ちた叫びが、静まり返った洞窟に虚しく広がった。だが、その安堵はあまりに早く、そしてあまりに浅はかだった。
彼の視線の先、俺を取り囲むようにして立ち尽くしているゴブリンの群れは、まだ一匹も消えてはいない。
混乱から立ち直り始めたモンスターたちが、再びじりじりと包囲の輪を狭め始めていた。その事実に気づいた瞬間、リーダーの顔から歓喜の表情がすっと抜け落ち、再び恐怖がその座を取り戻した。
彼は、希望と絶望の間でぐらつきながら、最後の蜘蛛の糸である俺へと、必死の形相で向き直った。
「た、頼む! 助けてくれ! この通りだ!」
彼は俺から数メートル手前で、その場にどさりと膝をつくと、泥まみれの額を地面にこすりつけ始めた。
土下座。
かつて、俺に対して、あれだけ尊大に振る舞っていた男が、今、俺の足元で、命乞いをしている。
その光景を、俺は、仮面の下で、何の感情もなく見下ろしていた。
心が動かない。
同情も、憐憫も、そして、溜飲が下がるような快感さえも、何一つ湧いてこない。
ただ、目の前で起きている事象を、機械が処理するように、冷静に分析しているだけだ。
こいつは、俺が誰だか、全く気づいていない。
まあ、当然か。
今の俺は、あの頃の貧相で、生気のない荷物持ちの面影など、どこにもない。声も雰囲気も、そして、その身にまとう力も、全く違う。
こいつの目には、S級ランカーか何かに見えているのだろう。
滑稽な勘違いだった。
「ギャアアアアア!」
不意に、我に返ったゴブリンの一体が、甲高い奇声を上げた。
俺という存在への恐怖よりも、血の匂いがもたらす興奮が勝ったらしい。
それを合図に、他のゴブリンたちも、再び凶暴性を取り戻し始める。
彼らの憎悪に満ちた視線は、もはや、『ブラッディ・ファング』の三人には向いていなかった。
全ての敵意が、この場の秩序を破壊した、俺という存在へと、集中していく。
包囲の輪が、ゆっくりと、俺に向かって縮まってくる。
「ひっ……!」
リーダーが、短い悲鳴を上げた。
彼は、俺がゴブリンに気を取られ、自分たちを見捨てると思ったのだろう。
「た、頼む! こいつらを……! こいつらをなんとか倒してくれ!」
必死の形相で、俺に懇願する。
その姿は、もはや、哀れを通り越して、醜悪ですらあった。
俺は、そんな彼の声など、耳を通り抜ける風の音ほどにも気に留めず、ただ、静かに、迫りくるゴブリンの群れを見つめていた。
二十数体。
その一体一体が、錆びた武器を構え、涎を垂らしながら、俺との距離を詰めてくる。
彼らにとって、俺は、自分たちの縄張りを荒らしに来た、ただの邪魔者なのだろう。
そして、俺にとって、彼らは。
「……うるさい」
俺は、誰に言うでもなく、そう呟いた。
その声は、洞窟の湿った空気の中で、乾いて響き渡った。
うるさい。
ただ、本当にそれだけだった。
リーダーの命乞いも、ゴブリンたちの威嚇の叫びも、全てが、俺の平穏な思考を乱す、不快なノイズに過ぎない。
俺は、ゆっくりと、右手を、胸の高さまで上げた。
そして。
パチン。
再び、あの乾いた指の音を、静寂が支配しかけていた広間に、響かせた。
それは全ての終わりを告げる、合図だった。
直後。
信じがたい光景が、その場にいた全ての者の目の前で、繰り広げられた。
俺に向かって殺到していたゴブリンたちが。
ホブゴブリンが。
後方で次の魔法を詠唱しようとしていたシャーマンが。
その、全てのモンスターたちが、一斉に、ぴたり、と動きを止めた。
まるで、巨大な再生ボタンが、一時停止されたかのように。
そして、次の瞬間。
彼らの身体が、まるで風化した砂の彫像のように、サラサラと、音もなく、崩れ始めた。
緑色の肌が、乾いた土の色に変わり、細かい粒子となって、はらはらと地面に落ちていく。
持っていた武器が、カラン、と虚しい音を立てて、床に転がる。
断末魔の悲鳴を上げる暇さえ、与えられなかった。
彼らは、自分たちの身に何が起きているのかを、理解することさえできずに、ただ、静かに、塵へと還っていく。
それは、もはや戦闘と呼べるようなものではなかった。
虐殺ですらない。
存在の消去。
まるで、初めからその存在がいなかったかような、あまりに無慈悲で、あまりに一方的な抹消。
数秒後。
あれだけいたモンスターの群れは、一匹残らず、この世から消え去っていた。
後に残されたのは、彼らが持っていた、錆びついた武具の山と、舞い上がった灰色の粉塵が、松明の光にキラキラと照らされている、幻想的で、そしてどこまでも不気味な光景だけだった。
「……………………」
『ブラッディ・ファング』の三人は、言葉を完全に失っていた。
リーダーは、土下座をしたままの姿勢で、顔だけを上げ、信じられないものを見る目で、目の前の虚空を見つめている。
痩せた男は、へなへなと、その場に座り込み、開いた口が塞がらない。
女は、短い悲鳴を上げたきり、白目を剥いて、完全に意識を失っていた。
彼らの単純な脳では、今、目の前で起きた現象を、処理することが、もはや不可能だったのだろう。
魔法?スキル?
そんな、彼らが知る、ちっぽけな常識の範疇に収まるような現象ではない。
これは、神か、あるいは悪魔の御業。
そうとしか、表現のしようがない、絶対的な力の行使。
「た、助かった……のか……?」
リーダーが、ようやく絞り出した声はおののいていた。
彼はゆっくりと立ち上がり、周囲を見回す。モンスターの気配は、完全に消えている。
静寂。安全。
その事実が、ようやく彼の脳に染み渡っていく。
「は、はは……はははは! やった! 助かったんだ! おい、お前ら、立て! 俺たちは助かったんだぞ!」
狂喜乱舞するリーダー。その時、彼の視線が、ふと、床に転がった一つのアイテムに吸い寄せられた。
それは、先ほど塵と化したゴブリンシャーマンが持っていた、禍々しい紋様が刻まれた杖だった。
大した価値はないが、今の彼らにとっては貴重な換金アイテムだ。
リーダーの顔から、安堵の表情がすっと消えた。
代わりに、そこに浮かび上がったのは、もっと生々しく、もっと醜い感情だった。
そうだ。
こいつらは、未来のドロップアイテムを担保に借金をして、このダンジョンにやってきた。
生き延びた今、次に考えるのは、その返済と、一攫千金の夢。
彼の視線が、シャーマンの杖だけでなく、床に散らばる他のゴブリンたちの武具へと、いやらしくさまよい始める。
そして、慌てて卑屈な笑みを浮かべ、俺に話しかけてきた。
「い、いやぁ、助かりました! あんた、一体何者なんだ? とにかく、すげえや!それで、だ……。その、報酬なんだが……」
リーダーがおもむろに切り出した。
「もちろん、あんたには相応の礼をしなきゃならんさ!だがな、見ての通り、今の俺たちにはした金しかなくてな。実を言うと、ヤバいところからダンジョンファクタリングで金を借りちまってて……」
リーダーは、俺が聞いてもいないのに、自分の惨めな身の上話を一方的に語り始めた。その目は、俺ではなく、床に転がるドロップアイテムをいやらしく見ている。
その時、彼の視線が、塵とガラクタの山の中にひときわ禍々しい光を放つ一点を捉えた。
「……あ?」
リーダーは言葉を止め、まるで何かに引かれるように、その光へとふらふらと歩み寄った。そして、ガラクタを手でかき分けると、そこから一つの宝石を震える手で拾い上げた。
それは、人間の拳ほどの大きさの、血のように赤い魔石だった。
不規則な多面体カットが施され、その内部では、まるで生きた心臓が脈打つかのように、どす黒い光が、ドクン、ドクン、と明滅を繰り返している。
周囲の空気が、その石が放つ圧倒的な魔力圧によって、ビリビリと震えているのが分かった。
『ゴブリンキングの魔石』
このダンジョンでは、最高ランクのドロップアイテムだった。おそらく、先ほど塵と化したモンスターの中から、ドロップしたのだろう。
「おお……おおおっ!!」
リーダーの手の中で、本物の『ゴブリンキングの魔石』が、紛れもない存在感を放っている。
痩せた男も、その赤い石を、まるで信仰の対象でも見るかのような、恍惚とした表情で見つめている。
彼らの目に、もはや俺の姿は映っていなかった。
映っているのは、自分たちの未来を、人生を、一発逆転させてくれる、魔法の石だけ。
安堵の表情は、いつの間にか消え去り、代わりに、もっと生々しく、もっと醜い感情が、その顔に浮かび上がっていた。
欲望。
隠しようもない、剥き出しの獣のような貪欲さ。
リーダーは、魔石をぎゅっと握りしめると、再び俺の方を振り返り、今度は先ほどとは全く違う、ねっとりとした媚びるような笑みを浮かべた。
「み、見てくれよ! あんたのおかげだ!とんでもねえお宝がドロップした!こいつさえあれば、借金も返せるし、俺たちは……!」
男はそこまで言うと、はたと我に返った。そうだ、このお宝がドロップしたのは、目の前の謎の男がモンスターを殲滅したからだ。所有権は、当然、この男にある。
リーダーの顔から、一瞬だけ血の気が引いた。だが、一度燃え上がった欲望の炎は、そう簡単には消えない。
「も、もちろん! こいつはあんたのもんだ! だが、そこをなんとか! 俺たちは、こいつがないと、あのファクタリング会社の連中に何をされるか……! だから、分け前を……いや、ほんの少しでいい! カケラだけでもいいから、俺たちに……!」
その目は、血走り、もはや正気の色はどこにもない。
俺は、そんな彼らの、醜い欲望の視線を、一身に浴びながら、ただ、静かに待った。
彼らの希望が、その頂点に達する、その瞬間を。
そして。
俺は、リーダーに向かって、ゆっくりと手を差し出した。
魔石をよこせ、と。
俺の無言の圧力に、リーダーは逆らえない。
彼は、名残惜しそうに、俺の手のひらの上に、その魔石を置いた。
その受け取った魔石を、俺は、道端の石ころでも見るかのように、ぽい、と、リーダーの目の前の地面に無造作に落とした。
コトン、と軽い音がした。
「……え?」
リーダーの間の抜けた声。
彼が、その魔石を拾おうと、汚れた手を伸ばした、まさにその瞬間。
俺は、上げた右足のブーツの底で。
血のように赤い宝石を。
何の感慨もなく、ただ、ゆっくりと。
ぐしゃり、と。
踏み砕いた。
パリン、というガラスが砕けるような、乾いた破壊音。
彼らの希望の象徴は、俺のブーツの底で、いとも容易く、赤い砂となって、砕け散った。
キラキラと、松明の光を反射しながら、舞い散る赤い粉塵。
それは、まるで、彼らの未来が、木っ端微塵になっていく様を、スローモーションで見ているかのようだった。
「…………………………………………」
リーダーの動きが、止まった。
伸ばしかけた手の指先が、空中で、意味もなく、右往左往していた。
彼の顔に浮かび上がったのは、混じり気のない、純粋な絶望。
一気に奈落の底へと突き落とされた、人間の顔。
俺は、その顔を、どこかで見たことがあるような気がした。
ああ、そうだ。
かつて、俺を裏切り、モンスターの群れの中に突き飛ばした、あの時。
死を覚悟した俺が、最後に見た、彼らの下卑た笑み。
それとは、全く逆の顔なのだ。
俺は、ブーツの底についた赤い粉を、近くの岩で、トン、トン、と軽く払った。
そして、全ての希望を失い、抜け殻のようになった彼らを冷たく見下ろした。
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