八尺様と有栖さん
夏。午後五時からは
休憩スポットも近所の駄菓子屋くらいだ。一度そこに寄ってから帰ろうと思いながら、有栖は白い首筋にぬらりと流れた汗を荒々しく拭った。
蝉がジワジワ鳴いている。まばらな拍手のように聞こえる蝉時雨の中にいると、ラムネが飲みたくなってくる。
ポケットに手を入れる。四百円。これなら二本は買えるだろう。駄菓子屋に売っているはずだ。
そう思って走り出そうとした時、有栖はふと、自身の影の違和感に気づいた。午後の影だとしても、異様に長いのだ。有栖の背丈の三倍はある。これでは、誰かの影がすっぽりと彼女の影を覆い隠しているかのような…。
気づいた瞬間、ぶわりと鳥肌が立った。
背後に、いる。
「……」
そっと後ろ髪を掬われたのが分かった。首後ろが冷たい。首に巻いた包帯に大きな手が添えられている。有栖の首をすっぽり包んで折ってしまいそうなほど大きな手だ。何か言おうと開いた口にも違う手の指が当てがわれ、グッと中に押し込まれる。涎が垂れ、地面に落ちる。ジワジワと蝉の声が聞こえる。
ジワジワジワジワジワジワジワジワジワジワジワジワ…。
口に食い込んだ指を両手で押し返しながら、有栖はどうにか背後を見た。
白いワンピース。長い長い黒髪が、鼻の部分で自然と二つに分かれている。覗いた口はニタリと弧を描き、彼女は一層有栖の口に指を入れた。
——八尺様。その名の通り八尺(およそ240センチメートル)の体を白いワンピースに包んだ女性。気に入った子供を連れていくとか、いかないとか。
「ポポ、ポ」
無機質な笑い声。
有栖は笑う。
「八尺様、だよね。私が食べてたものが気になるなら、一旦手をどかしてくれないかな」
「ポ、ポポポ」
拘束が解かれ、有栖はほっと胸を撫で下ろし、口元を拭った。普段なら怪異に絡まれることはないのだが、お守りを忘れたせいだろうか。振り返ると、特に反省もしていない八尺様がこちらを見下ろし、ニタニタ笑っていた。
「まず、私が食べたのはマフィンだよ。甘い匂いにつられたのかもしれないね」
「ポポ、ポポ」
「ごめんね、予備は今持ってないんだ。家に来てくれたらあげるよ」
八尺様は首を横に振った。どうやら、直ぐにでも甘いものを食べてみたいらしい。
「でも、八尺様って実体無いよね? 私が作ったやつならともかく、何か買ったとしても食べられないと思うけど…」
「ポ」
ボフンッと煙が巻き起こり、一人の女性が姿を表す。長い黒髪で目元を隠したスレンダーな人だ。ワンピースの他に麦わら帽子を身につけており、まるでお忍びで田舎を訪れたお嬢様のようだった。
「人間に擬態したってこと?」
「ポポ」
「それなら飲み食いできるね」
逸れないよう、八尺様と手を繋ぐ。先ほどまでの大きな手と違い、今は有栖と同じくらいの大きさだった。日が暮れると駄菓子屋が閉まってしまうかもしれないので、手を引いて走る。白と黒の髪が、緑の畦道に靡いていた。
駄菓子屋の前の赤いベンチ。瓶ラムネのA玉を押し込むと、ソーダ味の炭酸が勢いよく吹き出す。濡れないようにかわせば土の地面に小さな水溜りができた。八尺様を見やった有栖は、ニヤ、と絆創膏をした口角を上げる。
「八尺様には難しいかな〜?」
「ポポポ」
瓶ラムネを受け取った八尺様は、ムキになったのかA玉をガンガンと手のひらで殴るも、簡単には開かない。
「コツがいるんだよ」
貸してみ、と手を寄越すも拒否。しかし瓶は開かないのでどうするつもりかと思ったら、八尺様は瓶ラムネの上と下を握ると、ポキッと折ってしまった。吹き上がる炭酸が彼女の顔を濡らし、八尺様はきょとんと首を傾げる。それをみていた有栖は、お腹を抱えて吹き出した。
「あはははっ。すっげ〜! 怪力なんだね」
「ポポ」
彼女に釣られてか、八尺様はニタリと口元を歪める。
「じゃ、乾杯」
「ポ」
カランと鳴らした瓶を傾け、有栖は炭酸をチビチビ飲む。炭酸のこの、舌が痺れる感覚が好きだった。八尺様は勢いよく瓶を傾けて中身を豪快に飲み干し、けたたましくゲップする。
満足したらしい。静かに立ち上がった彼女は有栖の頭を雑に撫で、手をふりながら幽霊のように消えてしまった。
「急だなぁ…」
あっさりした別れに呆気に取られるも、それもまた一興と有栖はラムネを口に含んだ。
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