花子さんと有栖さん

 昼休みに北棟に行く人間はいない。殆どが空き教室であり、普段使われている東棟から最も遠いからだ。

 その三階、陽光がどろりと沈む廊下を進み、突き当たりを右に曲がった場所にある女子トイレの、手前から三番目の個室。

 夏の熱気が籠る中、有栖は立っていた。

 コンコンコン、とノックを三回。次いで、合言葉。


「花子さん、花子さん、遊びましょ」


 返事はない。けれど、中に何かがいることだけは分かる。人の気配ではない。そもそも人が持っているはずの温度がなく、肌寒い。


「花子さん、花子さん、遊びましょ」


 ノックを三回。

 けれど返事はなく、仕方がないので有栖は扉の取っ手に手をかけた。


「お邪魔しますよ〜?」


 ガチャ、と音を立てて開く扉。視界の下に黒い物体が見え、有栖は目線を下げた。

 そこには、閉じた便器の上に蹲る、白い半袖に赤いジャンパースカートを着た小さな女の子のおかっぱがあった。学校の七不思議の定番——トイレの花子さん。気配はあったからこの学校にもいるとは思っていたが、大当たりだ。

 有栖は顔を華やがせ、花子さんの肩を指で突く。


「こんにちは」


 瞬間、ゾッとするような冷気が辺りに立ち込め、有栖の額に冷や汗が浮かんだ。

 もしかすると、話しかけてはいけない類の怪異だったかもしれない。

 鼓動が早まり、息を呑む。花子さんはゆっくりと顔を持ち上げる。おかっぱの髪が流れ、中からぐちゃぐちゃに踏み潰された少女の顔が覗いたかと思うと、ガッと有栖の首を掴みトイレに引き摺り込んだ。

 閉まる扉。マフィンが落ちる。鍵が掛かる音。体を壁に叩きつけられた。

 詰まった息に有栖は笑い、悍ましい形相をした花子さんを見やる。


「こんにちは、花子さん」

「恨めしい恨めしい恨めしい恨めしい恨めしいよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくも」


 子供とは思えない怪力が、ギリギリと首を絞めていく。有栖はその腕に手をやりながら、笑みを保った。


「……うん、ちゃんと聞くよ。代わりに私とお菓子食べてね」

「よくもよくもよくもよくもよくもよくもよくも」

「大丈夫。聞いてるよ」


 怪我を負うことにはなれているし、これくらいの痛みなら大丈夫だ。加えて有栖はまだ死んでいない。つまり、この花子さん自身、有栖を殺す気がない。

 薄くなる空気と暗くなる視界の中、有栖は空いた手を持ち上げて、花子さんの頭を優しく撫でた。花子さんは呪詛を吐き続けたが、有栖には効かない。

 それから五分か十分か、手の力が徐々に弱まっていった。指を開く。便器を避けて床にドサリと下ろされた有栖は、背中を壁に預けて咳き込んだ。

 彼女の腕の中には花子さんがいた。狭い個室なので、体が幾分か圧迫される。それでも有栖は花子さんを抱きしめた。

 有栖にしがみついた彼女の目からは、大粒の涙が流れていた。


「……病院で死ぬ前、弟に、お菓子食べられたの」

「うん」

「あれが最後のお菓子だったの…! なのに、弟が勝手に…!」

「うん」

「お母さんもお父さんも怒ってくれたけど…やっぱり食べたかった…! 私のだったのにぃ!!」

「そっかそっか。…とりあえずこれでも食べな」


 さりげなくマフィンを差し出すと、花子さんは有栖の膝に座り直し鼻を啜りながら受け取った。


「…これ何?」

「マフィンっていうお菓子だよ。卵と小麦粉とお砂糖と、ふくらし粉を入れて焼いたの」

「お砂糖! このお菓子甘いのね」


 目を輝かせた花子さんに、「勿論」と有栖は笑った。ラッピングを外し、マフィンに齧りつこうとした花子さんだったが、ふと動きを止めて周囲を見回す。


「…便所で食べるなんて、柄じゃないわ」


 そうして二人は北棟に隠された小さな広場へ向かった。

 北向きのため日差しはないけれど、夏場だからかとても涼しい。歩の明るい芝生に座った有栖の膝の上に、花子さんが腰掛ける。どうやらこのポジションが気に入ったらしい。一緒にお菓子を食べられればなんでもいいので、有栖は何も言わなかった。

 夏の微風が頬を撫でる。チクリとした痛みが走り、首の包帯を外すと血がついていた。どうやら首を絞められて傷口が開いてしまったようだ。とりあえずティッシュでカバーして巻き直す。

 その様子を見ていた花子さんは、「…さっきは悪かったわね」と顔を逸らした。


「いいよ。それだけひとりぼっちで抱えてたんだよね」


 コクンと頷かれたのがいじらしく、有栖は花子さんの頭を撫でた。


「…ちょ、これでも私、あなたより相当年上よ。さっきはストレスが溜まってあんなだったけど……」

「関係ないよ。『よく頑張ったね』って、私が言いたくなっただけだから」

「そう…」


 花子さんはマフィンを頬張る。本来、実体のない自分に物は食べられないのだが、この食べ物は霊力が宿っているらしく普通に食べられた。黄泉竈食ひの逆のような現象。ぎっしり詰まった生地はしっとりしていて、素朴な甘さが口に広がる。花子さんは思わず頬を緩めた。米神の髪が流れてくすぐったい。


「……お菓子って、こんなに美味しかったのね」


 そう言った花子さんの表情に、有栖は瞼を持ち上げ、次いでふわりと笑った。

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