第四十七話「氷布の境、凍る座」
1 北への道
王都を発ってから七日。
冷気が肌に刺さるようになり、吐く息は白く、指の先が硬直していく。
街道は半ばで終わり、その先は氷に覆われた荒原だった。
雪ではない。
凍りついた布のように、地表一面に光沢のある板が重なっている。
歩けば靴底が鳴るが、その音はすぐに吸われ、どこにも返らない。
「……ここが氷布の境か」
セレスティアの声は低いが、呼吸は整っていた。
アリアは胸を押さえ、吐く拍を意識している。
「吸っても返らない……吐きに頼るしかない」
2 凍る座
広場のように開けた場所に、氷でできた椅子が並んでいた。
誰も座っていないのに、その形は明らかに「座」のためのものだった。
フロエが柄板で叩いた。
硬質な音が鳴ったが、響きは一瞬で消えた。
「座るための椅子が、返りを持たない……」
工匠は杭を氷に打ち込もうとしたが、杭の先は弾かれた。
「斜が入らない。全部が真っ直ぐで、冷たい」
ミラが糸をかけようとしたが、結び目はすぐに凍りつき、動かなくなった。
封糸の女が札を貼っても、氷は何も語らなかった。
3 沈黙の民
椅子の奥に、氷で覆われた人影が並んでいた。
動かない。
まるで座ったまま凍りついたかのように、膝を折った姿勢で固まっている。
「……座って、返りを失ったのか」
アリアが震える声で言った。
「座が……奪われる?」
セレスティアは剣に手をかけた。だが抜かずに言った。
「座は奪われない。——だが、凍ることはある」
4 氷布の試練
突如、椅子に座った氷像たちの胸が光った。
次の瞬間、氷の座から冷気の波が広がり、俺たちを襲った。
呼吸は凍りつき、胸骨の返りが停止する。
「浮き受け!」
セレスティアの号令で、俺たちは一斉に胸を軽くした。
重みをはね返さず、宙に置く。
冷気の波は突き抜けたが、全てを奪うことはできなかった。
「三点!」
フロエが床、身、帆の代わりに手足と背を揃えた。
冷気の流れが三角の輪を避け、俺たちの内側に返りが残った。
5 凍結の泡返り
氷の椅子が一斉にきしみ、次の波を放った。
だが今度は泡を含んでいた。
白い冷気が細かく砕け、軽い。
「泡返り!」
俺は呼吸を浅くして軽く受け、厚みに渡す。
アリアも同じく息を短く吐き、冷気をやり過ごす。
波は重さを持たずに去り、俺たちの内に厚みが残った。
6 沈み癖の抜き
だが次の瞬間、地面が割れ、氷の穴が口を開けた。
足を取られた工匠が膝を沈めかける。
「沈む……!」
「抜け!」
俺たちは一斉に吐き切り、器を空にする。
空の器は重みに飲まれず、工匠は穴の縁を掴んで浮き直した。
「沈み癖、抜いたぞ……!」
額に汗を浮かべながらも、工匠の声には返りがあった。
7 雨の半拍
空から雪が落ち始めた。
雪ではない。氷の針だ。
降る音はない。だが身体に触れれば拍を奪う。
「雨の半拍!」
封糸の女が声を重ねた。
俺たちは一拍遅らせて避けた。
氷の針は地に刺さり、そこで消えた。
一拍待つことで、奪いをやり過ごしたのだ。
8 凍る座を溶かす
氷像たちはなおも座り続けている。
だが、俺たちが稽古で受けを重ねるたびに、彼らの胸の光がわずかに揺れた。
「……思い出している」
アリアが囁いた。
「座は凍っても、返りは完全には奪えない」
俺は砂時計を返し、その音のない拍を胸に落とした。
「やり足りないで終える。次の縫い目を呼ぶために——座れ!」
氷像の一体が膝を崩した。
音はなかった。だが、その沈黙には返りがあった。
やがて、他の像も次々と氷を砕き、座り直した。
9 氷布を越えて
氷の椅子は次第に溶け、透明な水へ変わった。
地表を覆っていた氷板も、ひび割れ、下から土が顔を出した。
「……氷布を越えた」
セレスティアの声は静かだった。
「座は凍っても、奪えはしない。受け続ければ、必ず返る」
俺は砂時計を返した。
粒は落ち、胸骨に厚みを残す。
次の縫い目は、もう遠くで待っている。
——第四十八話「北の果て、布を超える境」へ続く。
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