第四十五話「裏布蜂起、座のための戦」
1 静かな火種
王都の夜は、焔を使わずとも赤かった。
裏通りの窓に掛けられた灰布が、風に揺れて街灯の光を吸い、通り全体をくすんだ赤灰色に染めている。
職人たちの影は列をなし、声ひとつ発さずに歩を揃えた。だが、その足取りは規則的で、沈黙の行進はかえって戦鼓のように響いた。
「……これは蜂起じゃない。沈黙の縫い合わせだ」
フロエが柄板を胸に抱き、低く言った。
「彼らは自分の意志で動いてない」
「なら、止められる」
セレスティアの声は短い。だが剣にはまだ触れない。
2 奪われた目
蜂起した者たちの目は虚ろだった。
光を映すはずの瞳は、ただ灰色の布の折り目をなぞるように揺れる。
工匠が杭を床に突いて確かめた。音は返らない。
「完全に裏布に縫われてる。足も腕も、布の延長だ」
アリアが息を吸ったが、返りは胸に戻らない。
「呼吸が、吸い取られる……このままじゃ私たちも」
封糸の女が札を構えた。「……奪われる前に、沈黙を沈黙で閉じる」
だがセレスティアが手を挙げて制した。
「座らせる。昨日の秤を忘れるな」
3 広場の対峙
裏布の群れはやがて中央広場に集まった。
王宮の白布の幕が夜風に翻り、その手前で灰布が渦を巻く。
王都の兵は剣を抜いて立ち塞がったが、一歩も踏み出せない。
沈黙の波は剣の力を奪う。打てば打つほど、音は吸い込まれる。
「王都の布が裂けるぞ!」兵の一人が叫んだ。
セレスティアは前へ出て、刃を納めたまま言った。
「刃で裂けば、布はもっと崩れる。座らせるしかない」
4 名の稽古を広げる
俺は壇に上がり、押し跡の板を掲げた。
「聞こえなくてもいい。指でなぞれ」
浮き受け。三点。泡返り。沈み癖の抜き。雨の半拍。
五つの跡を広場に置く。
兵や市民が指でなぞるたび、胸骨の奥にわずかな返りが芽生えた。
「見える縫い目だ!」
フロエが叫ぶ。
工匠が杭を斜めに打ち、市民の足元を支える。
ミラが糸を緩め、群衆の緊張をほどけやすく保つ。
アリアが呼吸を配り、吐く拍を合わせる。
封糸の女が札で余計なざわめきを黙らせ、必要な声だけを残す。
やがて、広場の一角に座る人々が現れた。
5 沈黙の壁を座らせる
裏布の群れは一斉に沈黙の壁を押し寄せてきた。
広場を呑み込む灰の波。
だが、座った人々の周囲だけは返りが残る。
「座は……奪えない」
セレスティアの声が、胸の奥に響いた。
俺は砂時計を返し、落ちる粒を指でなぞる。
座る者たちの肩と肩を結び、座の輪を広げていく。
沈黙の壁が、その輪にぶつかる。
刃で止めるのではない。
座で受けるのだ。
灰布の群れの足が鈍り、やがて何人かが膝を折った。
6 影の煽動者
だが、群れの後方から新たな影が現れた。
灰布をまとった若い議員——昨日、議場で告白した男だった。
「座は弱さだ!」
彼は叫び、灰布を掲げる。
その声は返りを持ち、裏布の群れに力を与えた。
「……彼は座っていない」
アリアが震える声で言う。
「だから声が刃になる」
セレスティアが前に進む。
「座るか、斬られるか。——選べ」
剣を抜いたわけではない。だが、その立ち姿は秤だった。
7 秤の一拍
群衆は息を止めた。
議員の声と、セレスティアの沈黙。
刃と座が秤に乗って揺れる。
俺は砂時計を返した。
粒が落ちるその一瞬に、押し跡を地面に刻む。
——点。
雨の半拍。
議員の足がわずかに止まった。
秤が傾く。
「……座れ」
セレスティアの声は命令ではなく、返りだった。
男は震え、やがて膝を折った。
その瞬間、裏布の群れの半分が座った。
8 裏布の座
残った影たちも、次々に膝を折っていく。
沈黙の波は座に吸われ、広場は深い静けさに包まれた。
だがそれは奪う沈黙ではなく、返りのある沈黙だった。
工匠が杭を抜き、フロエが板を置き、ミラが糸を結び直した。
封糸の女が最後の札を剥がし、風の音を戻す。
アリアが深く吐き、広場全体が呼吸を合わせた。
「……やっと、座ったな」
セレスティアが剣を納め、低く言った。
9 座のための戦のあとで
広場の中央に、灰布の切れ端が山のように積まれた。
人々はそれを燃やさなかった。
燃やせば再び刃になる。
代わりに、押し跡の板で覆った。
浮き受け。三点。泡返り。沈み癖の抜き。雨の半拍。
五つの名が刻まれた板の下で、灰布は静かに座り続けた。
俺は砂時計を返した。
粒は落ち、胸骨に返りがある。
「やり足りないで終える。次の縫い目が、次を呼ぶ」
——第四十六話「灰を超えて、新たな織布」へ続く。
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