第三十八話「波間の稽古、沈むか浮かぶか」

1 沖の色


 港を離れて二日、潮の町の匂いは背後へ薄れ、海の色が濃くなっていった。

 陸沿いでは青かった面は、沖へ出るほど墨を溶かしたような深い藍に沈む。日差しは強いのに、海面の光はむしろ鋭さを増し、刃のように瞼を刺した。


 舟は小さい。帆柱は年季が入り、節の盛り上がりが手の平に毎回のぼってくる。船底の板は乾いた日の木の匂いと、長く染み込んだ海の塩を同時に吐いた。縄の結び目は、ミラが昨日打ち直したばかりのほどけやすい二重だ。


 「風は東南、波は北へ流れてる」

 セレスティアが立ち姿のまま、足幅を半歩広げた。受けの型を、舵に移す。

 アリアは帆桁に背を預け、笛に触れない手で胸の上下を測っている。フロエは柄板を船底に軽く置いた。工匠は船縁に境杭を三本打ち、封糸の女は帆の縁に薄い沈黙札を貼って風鳴りを抑えた。


 俺は砂時計を返し、落ちる粒の音を波の底鳴りに照らした。砂はきちんと落ちる。波は、落ちたり上がったりする。針が縫う布はここにない。——だからこそ、縫い目をこちらから作る。


2 一波目の跡


 最初の大きい波は、ためらいなく来た。

 遠目に見れば二段の山だった。舳先が小さく持ち上がり、次の瞬間、船底を叩く硬い掌がこちらの形を問うてくる。


 船が軋む。

 アリアが息を一拍吸い、塩鈴を舌の奥で転がした。

 「短、長。——ここで浮く」

 セレスティアが号令を短く落とす。

 俺は船底に膝を置き、胸骨の裏で砂時計の音を遅くする。フロエは柄板で弱いンを三つ散らし、工匠が杭を踏み、ミラの結びが帆の力をわずかに逃した。


 舟は沈まず、波の背中で一度ふわりと浮いた。

 浮くと言っても、船体が空へ飛ぶわけではない。押し上げる力を、硬くはね返さず、柔らかく受けて自分の重みを一瞬宙に預ける。

 その一瞬の軽さが、次の落下の痛みを半分にする。


 「浮き受け、一」

 セレスティアが短く記す。

 海の稽古は、名付けで手に入る。呼び名を与えると、身体が次にその形を探しに行く。


3 沈むか、浮かぶか


 二波目は斜めに来た。

 舳先は上がらず、側面を叩かれる。舟が寝る。

 「——横だ」工匠が舵を引く。「寝たら戻らねえ。三点の受けで立て直すぞ」


 ミラが瞬時に帆の下辺を二重ほどけで緩め、風の掴みを薄くする。アリアは胸で二拍吸い、肩の力を落として体の重みを舟の内側へ寄せる。フロエは柄板の角を足裏に当て、俺は砂時計を船縁に軽く押し付けた。


 「三点——帆、身、底」

 セレスティアの声は低く太い。

 舟は寝返りの手前で、止まった。

 とどまる。倒れない代わりに、次の波を待てる形。


 押し寄せる水が、舟縁を越えて甲板に指を伸ばした。冷たい。

 水はすぐに去るが、濡れた木は重くなり、動きが鈍る。

 「これが濁鈍だ」アリアが言う。「停布で学んだ濁り。動きは鈍るが、厚みは増える。——厚みを返りに変える」


 封糸の女が帆の腹へ沈黙を一枚、薄く置いた。風鳴りが一段収まり、舟の軋みが読める音になった。

 船が人になり、声を持ち始める。


4 各人の受け


 海の稽古は、個別に来る。

 フロエは波の裏打ちを読むのが早い。柄板を床に置き、指先で板の震えを拾って、次の拍の向きに弱いンを先回りで挿す。

 工匠は船体の節を感じ、わずかな斜で負担を逃がす。板と板の取合いが鳴く瞬間に、杭で重みを受け替える。

 ミラは結びをほどけやすく保ち、効きすぎた力を即座に緩める。締め直すより、まずほどける。この舟では、その順番が生死を分ける。


 アリアは笛を吹かない。笛が沈むからだ。

 代わりに、彼女は呼吸を船の呼吸に合わせた。吸い、吸い、吐く。——吐くを長めにとる。波の引きと一致する。

 「音は波に奪われる。呼吸だけが、奪われない」

 彼女の低い声が、帆柱に伝わって落ち着く。


 封糸の女は、あらゆる「鳴り」を黙らせるのではなく、「語りたくない音」を黙らせ、「語るべき音」を残した。沈黙は無ではない。選別だ。

 俺は砂時計で全体の遅れを測る。どの波も、どこかに遅い部分がある。そこが、刺す場所だ。


 セレスティアは、座る。

 彼女が座ると、舟の重心が微妙に落ちる。立って舵を取るより、座っているときのほうが受けが深い。

 「王都で学んだことが、海で違う形になる」

 彼女の目に、わずかな喜びが宿る。戦ではない。運用なのだ。


5 泡返り


 昼過ぎ、太陽が真上からわずかに傾いたころ、波の表情が変わった。

 白いものが混じる。泡だ。

 泡は光を散らし、波の輪郭を見えづらくする。

 「泡は、返りが軽い」フロエが眉をひそめる。「叩いても厚みが戻らねえ。空(くう)だ」


 「空を、空のまま返す」

 俺は船縁に耳を寄せた。泡の下の音は、乾いた木を爪で撫でるような薄さがある。

 アリアが息を浅くした。吐きを短く、吸いを浅く。

 ミラは帆の結びを更に緩め、風の掴みを中空に逃がした。

 工匠は杭を打たない。打てば空を叩く。代わりに、船底の節を指で押して、そこにある生の硬さを探す。

 封糸の女は沈黙を置かない。泡は沈黙で消えない。

 セレスティアは座ったまま、舵だけをゆっくり戻した。


 「泡返り、零(ぜろ)。——厚みのない返りは、薄く受ける」

 名付けると、身体が余計な力を抜いた。舟は波の上を滑っていく。

滑り続けるわけではない。やがて泡は切れ、重い水が戻る。そこに合わせて、再び厚く受ける。

 厚薄の交替。布の織目みたいな拍が、波に出現する。


6 沈みかけ


 夕刻前、遠くの水平線が黒ずんだ。

 「雨の帯」セレスティアが短く言う。

 風が一段強くなり、波頭が細かく砕ける。

 舟が一度、深く沈んだ。次の瞬間、戻りが遅れた。

 「——悪い」工匠の声が低い。「沈み癖をつけた」


 沈み癖。沈んだ形を身体が覚え、その形に戻りやすくなること。陸でも起きるが、海では一気に命へ近づく。


 「抜く」

 セレスティアの声は鋭いが、急がない。

 アリアが吸いを止め、吐き切る。

 フロエが柄板で裏の裏を打つ。打つというより、板の重さを底に預ける。

 ミラは舷側の結びをほどき、舟と帆の間の距離を一寸だけ増やした。

 封糸の女が沈黙を船内に一枚置く。外ではなく、中。音の逃げ場が変わる。

 俺は砂時計を逆に返す。粒が上がるのを想像して、胸の重みをひっくり返す。


 舟は、わずかに浮いた。

 沈み癖の溝に嵌りかけた身体が、溝の縁を爪で掴むように持ち直した。

 「浮き受け、二。——吐き切るが鍵」

 アリアが肩を落とし、喉の奥に残ったわずかな空気までも押し出す。

 空になった器は、次の水を受けられる。


7 感情の波


 怒鳴り声が上がったわけではない。

 だが、ミラの指が震えていた。硬い結びをほどくことは躊躇いが出る。ほどけやすい結びの誇りが、硬くする場面に追い詰められるからだ。

 フロエは手のひらに細かな擦り傷を作っていた。板の角が濡れた皮膚に優しくはない。

 工匠は顎を噛みしめ、杭を握る手を一度離した。握れば助かる場面でも、握らない選択が要る。

 封糸の女の額に汗が滲む。沈黙は万能ではない。置く場所を誤れば、声を殺す。

 セレスティアは、座ったまま、目だけで仲間を見た。見て、頷き、否定せず、ただ短い合図を渡す。


 俺は砂時計を抱え直した。

 波は外から来る。感情の波は、内から来る。

 どちらも、同じ受けで迎えられるか。

 「……迎える」

 声に出すと、胸骨の裏に張りが出た。


8 雨の帯


 雨は意外に静かに落ちてきた。

 粒は小さく、数は多い。帆の上で跳ね、甲板を滑り、排水路に集まる。

 雨は波を鎮めるが、視界を奪う。

 アリアが笛を掌に包み、目を閉じて呼吸の視界を広げた。

 フロエは板を打たない。打つ音が雨にかき消されるなら、板の重さを置くほうが効く。

 工匠は杭の角度を変えた。斜に受けていた力を、垂直に折る。

 ミラは結びの尾を短くした。濡れた糸は長い尾で絡む。

 封糸の女は帆の縁から沈黙を剥がし、船の鼻先に移した。雨を切る刃を、静けさで薄く研ぐ。


 セレスティアは舵を半拍遅らせて返す。

 「雨の返りは、遅れて来る」

 俺は砂時計を返した。落ちる粒の一つひとつに半拍の影がついた気がした。


 雨の帯は長くは続かなかった。通り過ぎると、空気は塩を濃く含んだ匂いに変わり、海面の色がまた深まった。


9 灯のない水平


 夕暮れの境は、陸のそれより薄い。

 空の端に灯は見えず、水平線は墨で引いたように直線になった。

 港の灯台はまだ遠い。

 「……戻るか?」工匠が問う。「このまま夜を海で受けるのは、初日には重い」

 セレスティアは短く考え、首を横に振った。

 「戻る。——ただし、学びを持ち帰る」


 学び。名付けた技がいくつかある。

 浮き受け、三点の受け、泡返り、沈み癖の抜き、雨の半拍。

 それらを言葉にして残せば、港の灯の下で稽古にできる。

 港で次に海へ出る子どもが、倒れないように。


10 岸の気配


 風の匂いが、少しだけ変わった。

 潮に混じって、湿った土と藁の気配がする。

 「岸だ」アリアが囁く。「灯はなくても、匂いが返る」

 セレスティアが舵を微調整し、ミラが帆を段階的に落とす。工匠は杭を抜く準備を進め、フロエが板を引き、封糸の女は沈黙を帆から外した。

 俺は砂時計を返し、最後の一粒が落ちる前に、舟が桟橋に触れる姿を胸の裏で描いた。


 桟橋の木が低く鳴り、縄が擦れる音がして、舟は静かに止まった。

 波が一度ぶつかり、もう一度やさしく押し返す。受けの仕上げみたいな返りだ。


11 港の夜


 防波堤の上で、昼間の老人が待っていた。

「沈んで戻らぬ者も、昔は多かった」

 老人は海を見ない。俺たちの靴と手を見た。濡れと傷の具合で、どんな波とどうやり合ったか、読み取っているらしい。

 「名をつけたか」

 「いくつか」

 フロエが指を折る。「浮き受け、三点の受け、泡返り……」

 老人が頷く。「名は縫い目だ。明日の朝、灯台でそれを子らに渡せ」


 灯台。

 海だけの建物。風に曝され、光で答える塔。

 そこで渡すべきは、光ではなく、受けの名だ。


 グラールは押し跡の板を三枚用意した。

 字は薄く、跡は深い。濡れた指でなぞれば、誰でも受けの形を指で覚えられる。

 「読むのではなく、なぞる掲示」

 彼の目が静かに光る。


 セレスティアは刃を鞘から半寸だけ抜き、また納めた。

 「明日は斬らない。縫う」


12 眠りの波


 港の小宿で横になると、揺れがまだ体の中に残っていた。

 床は固いのに、世界がゆっくり波打つ。

 目を閉じると、昼間の泡の光がまぶたの裏で散った。

 耳の奥では、波が落ち着いて代わりに砂時計の音がはっきりする。

 砂は落ちる。波は返る。

 その二つが重なって、胸骨の裡に新しい拍が生まれる。


 眠りに落ちる前、セレスティアの声がした。

 「今日、沈み癖を抜いた」

 「はい」

 「陸でも、抜ける」

 「はい」

 短い言葉が、波より深く沈んでいく。


 やり足りないで終える。明日の灯に、今日の稽古を縫い付けるために。


――第三十九話「灯台の誓い、海に残す縫い目」へ続く。

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