第二部

序章「織布の外にて」 第三十一話「境界の解(ほど)き」

序章「織布の外にて」


 朝、王都の屋根は新しい拍で鳴った。

 織り上がった街は、歩くたびに微かな布目の返りを生み、通りの斜は人の重心をやさしく受けた。井戸は遅鈴に応じて水面を揺らし、掲示は白い余白で未来の行を待っている。


 だが、城壁の外は——沈黙だった。

 布の端は、そこで途切れていた。


 王は広場でひざまずき、低く言った。

 「織は内だけで完結しない。布は端を持って風にさらすから強い。外へ出て、外の歌を聞こう」


 セレスティアは短く頷き、導線の地図を広げた。

 「北には塩の都、東には峡谷の舟街、西には写本砂漠。南は……名のない地図」

 王は視線を俺へ寄越す。「ユリウス。観測士として境界を縫え。内を外に裂かせず、外を内に閉じ込めず」


 俺は砂時計を返した。

 落ちる砂は、城壁の内では布目に沿って音を返す。だが壁の外ではどう鳴る? 返りのない土地は、拍を持たないのか。

 祖父の最後の余白が、ふっと脳裏によみがえる。


 〈境は縫い目。きれいに隠すな。見えるように縫え〉


 ——境界を「見える縫い目」にする旅が始まる。


第三十一話「境界の解(ほど)き」

1 門を出る


 選ばれたのは少数だった。

 セレスティア、アリア、ミラ、フロエ、工匠、封糸の女、掲示官グラール、そして俺。王は街に残る。王が外へ出れば、街の拍は王を追って歩幅を狂わせる。王はひざまずく場を守るのが役目だ。


 城門の閾(しきい)は、今やただの石ではない。織布の端が緩やかな綾を作り、外気と内気が擦れ合って「境返り」と呼ぶ微かなざわめきを生み出す。

 「ここから外だ」

 セレスティアが一歩出る。布の端で靴底がほどよく滑り、受けの型が自然に出るよう仕立ててある。工匠の手柄だ。


 門をくぐると、音が少し遠のいた。

 内では二度打ちの遅鈴がどこからでも抱え上げてくれたが、外には鈴を受ける梁も、返りを育てる壁もない。

 アリアが笛の穴を指で塞ぎ、そっと吸う。音は出さない。

 「ここ、無拍域が混じってる。吹いても返らない帯がところどころにある」


 「帯が見えねえなら、見えるようにすりゃいい」

 工匠が荷から取り出したのは、境杭。街の端材で作った小さな斜の杭だ。

 「これを地面に打てば、足裏で返りを感じられる。布じゃなくても“手触り”が立つ」


 ミラは青い糸を二重に結んだ小札を配った。

 「結び標(しるし)。帯の端にこれを置くと、ほどけながら方向を教える」


 封糸の女は沈黙札を裂いて風に放つ。軽い札が舞い、音の“浅さ”と“深さ”をすくう。

 「深い方へ進めば、返りは育つ」


 俺は砂時計を返し、粒の落ち方を耳で照らし合わせた。深い返りは胸骨の裏にわずかな温度差を残す。

 「東の帯は浅い。北東へ切り上げれば、深みが出る」


 セレスティアが導線を引く。「北東へ。最初の目的地は塩の都」


2 塩の風と歩幅税


 午後、地平線に白が浮かんだ。

 塩の都は、その名の通り白かった。塩脈を削って築いた城壁は光を跳ね返し、道は乾いた結晶でぎしりと鳴る。人々は歩幅税という奇妙な習わしに従い、同じ間隔で足跡を刻んでいた。

 「ここでは、歩幅を外すと罰金らしい」

 グラールが掲示を読み上げる。

 > 『均一は富、乱れは罰』


 「……均一は、停布の餌」

 アリアが眉をひそめる。

 俺は砂時計を返す。塩の都には返りがある。だが、それは速い照り返しに寄っている。厚みが浅い。


 市門で役人が手を上げた。「旅人諸君、歩幅を揃えよ。合わぬ者は罰金だ」

 セレスティアは剣に触れず、一歩だけ前へ。「揃えること自体は争わない。ただし我々は遅鈴を帯びる。二度打ちの間を一拍だけ許してくれ」

 役人は怪訝そうに首を傾げたが、帳付けの老人が小声で言う。「……間を置くと塩倉の梁が長く保つ、と昔から言う」

 古い知恵は残っている。

 俺はミラの結び標をさりげなく地面に置き、工匠の境杭を城門前に一本打った。返りの種を植える。


 塩市を歩くと、均一の足音が白い街を揺らした。

 「歩幅税の収益で塩道を保つ。そう謳ってるけど……」

 グラールが紙束を繰り、眉間に皺を寄せる。「近年、道の補修は減っている。代わりに『外歌禁制』の掲示が増えた」

 外の拍を嫌う政。灰の縫い手の影がないと言い切れない。


 そのとき、塩倉の前で小さな騒ぎが起きた。

 荷運びの少年が歩幅を外したのだ。足がもつれ、塩袋が崩れ落ちる。

 役人が笛を鳴らし、罰金札を掲げた。

 「待って」

 ミラが駆け寄り、少年の靴紐をほどけやすく結び直す。

 アリアは無音の二音を置いた。短・長。

 少年の呼吸が遅れて揃い、足が個の癖に戻る。

 工匠の境杭が足裏を斜に導き、フロエの柄板が厚い返りを足元に置く。

 少年は倒れず、袋は持ち直された。

 周囲がざわつく。「外歌だ」「いや、足の癖を見ただけだ」

 役人の手が迷った。均一と秩序の間で。


 セレスティアは静かに言った。

 「罰より踏止。外歌が乱れを呼ぶのではない。乱れを受ける型が街に足りないのだ」


 塩の都の長老が、人の輪を割って近づいてきた。腰は曲がっているが、目は澄んでいる。

 「踏止。……昔、うちにもあった言葉だ。倉が暴風で軋むとき、いきむな、止まれと教えた」

 長老は役人を見やった。「この旅人の一拍を許せ。税は変えん。だが間は免ずる」

 役人は渋々頷いた。足並みの均一は保たれるが、その間に一拍の息が戻る。

 白い街に、わずかな厚みが入った。


3 塩倉の崩れ


 夕刻、塩倉の梁が鳴いた。

 均一に刻まれつづけた足音が、ある拍で同期しすぎ、共振を起こす。

 「梁が落ちる!」

 人々が悲鳴を上げる。

 遅鈴は塔にない。返りを育む壁も薄い。ここは外だ。

 セレスティアが叫ぶ。「外式・遅鈴(そとしき・ちちりん)!」

 アリアは笛を口に当てず、両手で無音の鈴を振った。

 フロエが柄板で三間一厚の裏打ちを床に叩き込み、工匠が境杭を梁下に打つ。

 ミラが渡し結びを梁と柱に二重で掛け、封糸の女が沈黙帯を人の頭上に広げる。

 俺は砂時計を胸に抱え、落ちる粒に遅れを足した。

 ——梁の返りが、遅れた。

 均一の足音は、遅れの床に沈む。

 崩れは止まり、塩の粉が静かに舞った。


 人々が息を吐く。

 長老が低く言った。

 「外から来た歌を、倉で殺す気はない。倉は受けて残す器だ。……礼をさせてくれ。**塩鈴(しおりん)**を進呈しよう」

 差し出されたのは、小さな塩の鈴。振ると音は出ない。だが舌に載せると、遅い辛みが胸に降りる。

 「無音の合図に使える」

 アリアが微笑む。


 塩の都は、完全に変わったわけではない。歩幅税は残る。だが、その間に一拍が宿った。

 境目の縫い目が、ひとつ見える形で縫われたのだ。


4 峡谷の舟街へ


 翌朝、東へ向かう。塩の白が褪せ、地面は裂け、影が深くなる。やがて地平線が割れ、峡谷が現れた。

 底は見えない。

 谷沿いには、岩に吊られた舟が並ぶ。帆はない。風ではなく拍で渡る舟らしい。

 「ここが舟街か」

 工匠が感心して舌を鳴らす。「吊り金と板の段差で返りを作って渡る仕掛けだ。……だが、遅鈍に偏りすぎてる」

 舟はゆったり揺れる。乗り場の合図は遅い。

 掲示には、こうある。

 > 『早者立入禁止。落下の恐れあり』


 遅さは美徳だ。だが、急げないことは別の危険を呼ぶ。

 「昨日、対岸の市場が崩れた。遅れで合図する間に、荷が落ちたらしい」

 岸で縄を巻いていた老船頭がぼそりと言う。

 「遅鈴はここじゃ鈍る。風が合図を持っていっちまう」


 俺は砂時計を返し、谷から上がる風の層を数えた。三枚。上に行くほど薄く速い。

 「合図を上に置くべきです。谷底ではなく、梁の上へ」

 セレスティアが頷く。「橋のない橋を、拍で架ける」


 アリアが塩鈴を舌に載せ、無音の辛みを二度、三度。

 フロエが柄板で高返りの拍を岩に刻み、工匠が梁の上に境杭を線のように打つ。

 ミラは青糸を風見結びにして帆柱の先へ掲げ、封糸の女は上空に沈黙帯を張った。

 俺は砂時計を高く掲げ、落ちる砂の影で上の返りを測る。

 ——舟が動いた。

 足下ではなく、頭上で合図が響くと、人は自然に目を上げ、体を起こす。

 遅鈍の美徳は残しつつ、「急ぎ」を上空に逃がす術だ。


 対岸の岸で、若い商人が手を振った。

「外の橋なんて信じないね、と思ってたけど……渡れたよ」

 彼の背で、急ぎ足の子らが上を見上げる。足は急いでいても、目は遠い。倒れにくい急ぎだ。


5 写本砂漠の端で


 峡谷を抜けると、空気が乾き、風が文字を運びはじめた。

 砂の粒に細い書き線が刻まれている。読み取ろうとすると、風が一字ずつ剥(は)がしていく。

 「ここが写本砂漠」

 グラールが息を呑む。「書けば削れる。記せば消える。掲示官には地獄だ」


 砂丘の影に、小さな紙屋があった。女がひとり、油で指先を濡らし、紙を直している。

 「風が字を写していくのさ。残るのは、押した跡だけ」

 女は俺たちをちらと見て、封糸の女の手元に目を留めた。

 「その沈黙札を、砂に貼ってみな」

 封糸の女が札を砂に触れさせる。札は見えなくなり、砂のさざなみだけが黙って止まった。

 紙屋の女が微笑む。「字は残らない。けど、沈黙の跡は残る」


 アリアが塩鈴で合図し、フロエが柄板で押し跡の拍を刻む。

 工匠が境杭で低い柵を砂に作る。風の筋が変わり、ミラの青糸がほどけて道を描いた。

 砂の表面に、文字にならない導線が立ち上がる。

 「書けないなら、押して残す。読むものじゃない、歩くものとして」

 グラールが感心して頷いた。「掲示の第三形態だな。字、白、いまは跡」


 紙屋の女は、帰り際に小さな瓶をくれた。

 「文字油。字は消えるが、手の温度は紙に残る。触れる掲示を作りな」

 触れて読む掲示。闇返りの延長にあるやり方だ。


6 灰の縫い手の影


 砂の稜線に、人影が立った。

 顔を布で覆い、風に逆らわない立ち方をしている。灰の縫い手——と名乗りはしないが、纏う仕立ては、俺たちに馴染みの悪い均一と速度の匂いを持っていた。

 「織った街は美しい」

 声は乾いていた。

 「だが、外に織りを広げるのはやめておけ。境は、境のまま凍らせるのが秩序だ」


 セレスティアが一歩出て、剣の柄に手を置く。抜かない。

 「境を凍らせると、内が腐る。外も飢える」

 「飢えは秩序を生む」

 男は砂を掬い、風に放った。文字の線が散って消える。

 「散った線を拾うのが、我らの仕事だ」


 封糸の女が静かに札を割り、風に乗せた。沈黙の粉が、文字の消えた跡に薄い床を作る。

 「散るのは自由。だが、受けがない自由は、倒れだ」

 アリアが塩鈴を舌に載せ、無音を二度。

 フロエが厚みを足元に置き、工匠が境杭で砂の角を斜にする。

 ミラの青い糸がほどけやすく男の足元へ走り、グラールの白が触れて読める跡を男の前に置いた。


 男は足裏で僅かに返りを感じたのか、姿勢を変えた。

 「……境を縫う、というのか」

 俺は砂時計を返した。

「見える縫い目にする。隠せば裂ける。見せれば、選べる」

 男はしばらく沈黙し、やがて砂の稜線の向こうに姿を消した。追わない。境に残ったのは、薄い返りの床だった。


7 境界の地図


 旅は始まったばかりだ。

 塩の都には一拍が入り、峡谷の舟街は上の返りで橋を得、写本砂漠には押し跡の導線が置かれた。

 王都に戻れば、境界で見たものを織図に落とさなければならない。

 内の布と外の歌を、見える縫い目で結ぶ第二部の地図を。


 夜、砂の上で小休止。

 アリアが笛を磨き、ミラが結びを解き、工匠が杭を数え、フロエが柄板に新しい型を刻み、封糸の女は札の割れを撫で、グラールは文字油で白紙に押し跡を残した。

 セレスティアは見張りに立ち、俺は砂時計を返して胸骨の裏に音をしまった。


 祖父の余白はもうない。

 代わりに、境界の余白がある。

 そこへ、俺たちがこれから書かずに押すこと、鳴らさずに置くこと、見せずに触れさせることを、ひとつずつ足していく。


 やり足りないで終える。次の線が、次を呼ぶ。

 針は両刃。

 だからこそ、切れて、縫える。

 切り結ぶのではなく、縫い合わせるために。

 そして今度は、境界そのものを。


――第三十二話「塩鈴の盟、上に架ける橋」へ続く。

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