第二十七話「停布の腐り、熟れた種」
1 腐る朝
夜明けの広場は、いつもより湿っていた。
石畳の隙間からは酸っぱい匂いが立ち、パン屋の窯は火を入れても煙が上がらない。
藍色の紙に書かれていた宣告が、街そのものに効き始めていた。
> 「縫い留めた場はやがて腐る。
> ——停布(ていふ)。」
腐り。
止まった場が長く保てば、やがて澱む。澱みは人の心を鈍らせ、笑いも返りも遅鈍ではなく濁鈍に変わる。
祖父の余白がめくれる。
〈腐りは負けではない。腐りは熟れ、種を出す〉
俺は砂時計を返し、落ちる砂の遅れた音に耳を澄ませた。そこに濁りを聞いた。
澱みの返り。それをどう扱うかが、今日の稽古だ。
2 広場の停滞
最初に止まったのは、子どもたちの笑いだった。
昨日まで「縫盾ごっこ」で声を弾ませていた子が、今日は声を出しても響かない。声が、湿った布に吸い込まれる。
アリアが笛を吹いた。だが音は途中で濁って崩れる。
「……停布に音が沈んでる」
ミラが青い結びを試すが、結び目は水を吸ったように解けない。
工匠の踏み板は湿り、斜に踏んでも音を返さない。
フロエの柄板はタ…ンがタ…ン……に濁り、封糸の女の札は沈黙ではなく鈍音を返した。
セレスティアが導線を走らせ、広場の四隅を見渡す。
「場そのものが熟れを拒んでいる。——いや、熟れさせられている」
3 熟れの種
俺は祖父の余白を声に出した。
「腐りは負けじゃない。熟れになる。熟れは種を出す」
腐りを無理に否定するのではなく、腐りから芽を探す。
ミラが息をのむ。「腐った結びを……種に?」
「そう。結び目が濁って解けないなら、解けない形そのものを“種”にする」
ミラは湿った結びを持ち上げ、小声で歌う。
「解けないなら、芽を出せ」
子どもたちが真似をして、その濁った結びに手を触れた。
——芽が出た。
解けない結びから、小さな青い糸の芽が生まれ、笑いの声が遅れて弾けた。
工匠も踏み板の湿りを利用し、きしむ音を「低い裏打ち」に変えた。
「濁ってるからこそ、厚みがある」
フロエは柄板に濁りを刻み、タ…ン……ンと長い返りを「熟れ拍」と名づけた。
封糸の女は鈍音を重い沈黙に転じ、アリアは濁った笛を「泣き笛」として吹いた。
停布は、人を沈めるつもりだった。
だが、人はその沈みを「熟れ」と呼び、次の芽を作り始めた。
4 内通者の影再び
夕刻、グラールが眉をひそめて駆け寄った。
「癖帳の白紙が、また抜かれた」
今度は空白の部分。書いていない“注”の部分が、まるごと消えていた。
「停布が……熟れの芽を潰そうとしてる」
俺は砂時計を返し、砂の返りに影を探す。
——白紙に残った手跡。
ズィークではない。別の者。王の従僕の影が、僅かに混じっていた。
「内に、まだいる」
セレスティアが剣に触れ、だが抜かない。「止まる景色を持って行こう。疑いを急がない」
俺たちは踏止の型で王の間に入り、従僕の手にあった白紙を見た。
そこに書かれていたのは、
> 『止まるは負け』
という偽の注。
王はひざまずき、低く言った。
「私は負けても座る。だから立てる」
その声は、厚く遅れて広間に満ちた。
従僕の手から白紙が滑り落ち、偽の注は停布の濁りに吸われて消えた。
5 停布の総攻勢
夜。街全体が、同じ匂いに包まれた。
腐葉土のような甘酸っぱさ。パンもスープも同じ匂いを持ち、声も拍も同じ濁りで響く。
「——停布の総縛」
フロエが呻く。
だが、子どもが笑った。
「腐ってるけど、甘い!」
その声に、パン屋の老婆が頷いた。
「熟れりゃ、種が出るんだよ」
街全体が熟れの拍を刻み始めた。
濁った音が厚みを持ち、鈍った声が余韻を生み、停布の腐りを「発酵」に変えていく。
セレスティアが導線を張り、「街全体で熟れの陣を!」
アリアが泣き笛を吹き、フロエが熟れ拍を打ち、工匠が湿った板を踏み、ミラが解けない結びを芽に変え、封糸の女が鈍音を厚い沈黙に変えた。
王は言った。
「腐りは熟れだ。熟れは種を出す」
広場の石の隙間から、小さな芽が本当に生えてきた。
それは青い糸の芽であり、街の人の癖が形になったものだった。
6 次の布
夜明け前、風が紙を運んだ。今度は赤。
> 「熟れの芽、見事だ。
> だが、芽は刈られる。
> 刈布(りふ)。
> おまえたちの“生まれ”を、根ごと断つ。」
「……収穫の刃か」
セレスティアが剣を握る。
祖父の余白が最後にめくれる。
〈刈られても、根は残る。根はまた芽を出す〉
次の稽古は——刈られても残る根を、どう街に植えるかだ。
👉 次回、第二十八話「刈布の鎌、根を守る拍」。
停布の「熟れ」を越え、今度は「刈り取り」が街を襲う。癖そのものを根ごと断ち切る布に対して、人々は「根拍」という新しい稽古で応じることになる。
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