第二十話「偽布の影、本物の拍」
風がひとつ、王都の屋根を撫でていった。
夜明け前の空はまだ色を決めかねている。黒から藍へ、藍から灰へ。遠くの尖塔の輪郭が、布の耳のようにほつれている。俺は砂時計を返し、ゆっくりと落ちる砂の重さを胸骨の裏で受けとめた。
——偽布。
裂布、歪布と来て、灰の縫い手が次に放つと宣告したものだ。柄は模倣される。その言葉は、街に流れ始めた希望の“型”ごと奪う毒である。王がひざまずく布告が拍になり、人々が群れ結びで立ち直る稽古を身につけはじめた、まさにその今を狙う。
祖父の裏帳面の余白を撫でる。
〈偽りは写し。だが写しは照り返す〉
短い文だ。だが、何を照り返す? 光か、声か、人か。解釈の余地は大きいほど、道は多い。俺の仕事は、そのうちの一本を今、確かな道にすることだ。
廊下の角から、アリアの軽い足音が近づいてくる。笛はいつも通り腰に差してあるが、目の下の影がいつもより濃い。
「朝、広場に紙。灰色」
言い終えるより早く、俺は頷いて歩き出した。セレスティアはもう立っているだろう。ミラは結び袋を抱え、フロエは柄板、工匠は踏み板。封糸の女は木札と沈黙。王は——王は今日もひざまずくつもりだ。だからこそ、偽る者は王を“写す”。
階を降りる途中で、セレスティアが合流した。鎧の音はしない。彼女は戦場の音を自分で持ち歩かない。必要なときにだけ、音を立てる。
「紙の文言は?」
「『本物は一つ。偽物は多い。本物は倒れる。偽物はひざまずく。』」
アリアが早口で告げる。
セレスティアの眉がわずかに動いた。「……愚かな挑発だ」
「愚かほど、広がるのが早い」俺は砂時計を握り直した。「だから始まる。偽布」
◇
広場は、早朝にもかかわらず人で埋まりつつあった。屋台が半分だけ開き、子どもが親の手を引き、騎士が導線を守る。掲示板の前には灰色の紙が二枚、風に揺れていた。そのうちの一枚には、アリアの言った文言。もう一枚には、細い字で時刻と場所が記されている。
> 「午の鐘、一打ののち。王、南門にて布告。
> 王、同刻に北門にて布告。」
セレスティアが短く息を飲んだ。
「——同時、別場所。二人の王を出す気か」
「出す気だし、用意もしている」
俺は耳を澄ませ、砂時計を返した。銀線が王都の四方へ伸び、南門と北門の空気の響きを拾う。似ている。いや、似せてある。呼吸の深さ、踏み込みの角度、立ち止まる時の沈黙の置き方。王の稽古歩が、そこにも“用意”されている。
フロエが柄板を打った。「——写しだ」
工匠が歯噛みする。「技術としては見事だ。だが底がない」
底。
そこだ。祖父の余白にあった「照り返す」は、底が浅いほど、よく光ってよく返るという意味かもしれない。本物の布地には厚みがあり、光を吸い、遅れて返す。偽りは表面だけで、即座に跳ねる。
「……アリア、音で試せるか」
アリアは笛を持ち上げる。「短い二音で? 返りが速すぎる方が偽物」
「ミラは結びで“遅れ”を作ってくれ。小さく、緩く、強く。返りが遅れる場を用意する。封糸の女は沈黙で吸いを作る。フロエ、柄板で裏打ちに厚みを——工匠は踏み板で踏み返しを」
セレスティアが頷く。「私は南門を取る。王は北門へ。偽物がどちらに来ても、片方は本物だ」
「危険だ」
「危険を分割する」
彼女はそれだけ言って踵を返した。王はすでに控え室で準備を始めている。彼女の足取りは迷いがない。
封糸の女が俺の横で、木札を指でなぞった。「照り返しの稽古……沈黙にもできる」
照り返しの稽古。
偽物は早い。
本物は遅れて返る。
音でも、光でも、言葉でも。
その差を、人の目と耳に“稽古”で覚えさせる。
◇
午の鐘の前、王は北門に立った。朝と同じように、ひざまずくための拍を体に通す。彼は俺に視線を寄越し、短く言った。
「私はいつも通りにする。——人に散る」
「それが唯一の対策です」
俺は応え、青い糸を門の四隅に結んだ。ほどけやすく。緩く。強く。
グラールが紙束を抱えて駆け込んできた。「布告の文は最低限。『私はひざまずく』——これ以上も以下もない」
「それでいい」
偽物ほど、言葉を増やす。飾り、響かせ、照り返す。本物は削ぎ、置く。遅れて、届く。
遠く、南門の方角でも空気が揺れた。人のざわめきが集まり、期待と不安が混ざる音がする。セレスティアはもう着いているはずだ。アリアは南へ行き、フロエは北。ミラは二手に分かれた結びの束を抱えて、少年たちに配っている。工匠は両門に踏み板の型を残した。
鐘が一打。
王は一歩、進む。
北門の前で、人々の視線が波のように寄せる。
「——私はひざまずく」
王は宣言し、膝を折った。先に。
空気が遅れて返る。安堵が遅れて着地し、拍が広がる。厚い返りだ。
本物だ。
俺は砂時計を返し、南の響きを観る。速い。
南門の王は、言葉を重ねている。「私はひざまずいた。私はこれからもひざまずく。私は——」
照り返しが早すぎる。人々の呼吸と、言葉の間が一致しすぎる。写しだ。偽布だ。
「セレスティア——」
俺は囁き、砂の線にわずかな撫でを加えた。南の空気が微かにためを持つ。遅れが生まれる。稽古の余白だ。
◇
南門。
アリアは笛を口に当て、二音を鳴らす。早い返りを誘う軽い音。偽王はわずかに顎を上げ、その二音にぴたりと追従した。
「……やっぱり、速すぎ」
彼女は低く呟き、次の瞬間、笛を逆に使った。音を吸う。鳴らさず、吸気だけで間を作る。
人々の胸が無意識に真似し、息を飲む音が波のように広がった。偽王はわずかに言葉をつかえ、文の尾がふわりと浮いた。
セレスティアはその半拍に前へ出る。剣は抜かない。声も上げない。沈黙で重さを置く。
「——王」
ただ一語。
偽王は笑った。いや、笑いを照るだけだ。目は笑っていない。
そこへ、ミラの青い結び。小さく、緩く、強く。門の敷居、偽王の足元、人々の肩。遅れが生きる余地を作る。
フロエの柄板は北だが、南にも写しがいる。稽古で覚えた裏打ちが、人の肩と肩の間に厚みを作る。押し返すのではない。受けが生まれる。
偽王の言葉は、跳ね、照り、そして宙で迷った。
その迷いを、紙が裂いた。灰色の紙が風に乗り、偽王の背後からひらりと舞う。
> 「本物は倒れる。偽物はひざまずく」
人々のざわめきが少し増す。文が拍を乱す。
アリアは即座に笛を二度鳴らした。短・長。
短は怖れを受け取り、長は笑いで返す。
広場の空気が、遅れて笑った。偽王の文が照り返すリズムから外れる。
セレスティアがさらに半歩。
「王は人にひざまずく。人が王を倒すことはない」
彼女の言葉は厚かった。返りは遅く、深く、静かだ。
偽王は、ひとつ息を吸い、そして吐き、微笑んだ。
「見事な稽古だ」
声が変わった。影が剥がれた。顔の輪郭が薄く揺れ、王の写しは灰の縫い手の手に戻りつつあった。
その瞬間、投げ糸。
門楼の上から、黒い糸がいく筋も降り、群れ結びの要所を狙って走った。結びを裂くための刺し。裂布と偽布の複合。
アリアは笛を落とし、両手で空気を抱えた。音を出さない二音。吸・吐。
ミラの手は先に動いている。青い結びの端を半分だけ切り、逃げを作る。
セレスティアは剣を横にし、糸を受けて払う。切らない。切れば跳ね返りが出る。受けで鈍らせ、遅れを作る。
人々は——座った。
倒れる前に。ひざまずく前に。座る。
偽王の糸は空を掴み、照り返すように揺れてから、ほどけた。
◇
北門。
俺は王の遅れを支え続けていた。王はひざまずいたまま、一切の修辞を持たず、沈黙で布告を置いた。
「私はひざまずく」
それきりだ。
人々は遅れて膝を折り、また遅れて立ち上がった。そこには、速度の合致による快楽がない。代わりに、厚みがあった。重さと温度があった。
灰の紙がここにも舞い、同じ文を掲げた。
> 「本物は倒れる。偽物はひざまずく」
俺は紙の端に青い結びを作った。ほどけやすく。そして紙をそのまま掲示に貼り付けた。
周囲がざわめく。「いいのか?」
「いい。偽りを掲示しよう。照り返すかどうか、街に見せればいい」
グラールが苦笑した。「掲示官を辞めろと言われそうだ」
「……やめません」
彼は即答し、紙の横に短い注釈を添えた。
> 『王は今日、ひざまずいた。倒れていない。
> ひざまずくとは、先に座を低くすること。
> 倒れるとは、選べないこと。』
字は練れていた。厚い字だ。照り返しは遅い。
そのとき、北門の外から声がした。
「王は倒れた!」
走り込んできた男が叫ぶ。南門の噂が、早すぎる速度で届いたのだ。
俺は砂時計を返し、遅れを作る。
「——誰が見た?」
問いは静かに、遅れて広がる。
「え、あ、誰かが、紙に」
「紙は照り返す。人は遅れる。誰の息で聞いた?」
男ははっとして、胸に手を当てた。
「……自分の息で、聞いていない」
彼はそう言って、腰を折り、膝をついた。王は軽く頷き、片手を胸にあてた。人と人の間に、遅い返りが生まれた。
◇
日が落ちるより前に、偽布の第一陣は退いていった。
南ではセレスティアとアリア、ミラ、封糸の女が“王の写し”を照り返しで剥がし、北では王自身が“ひざまずき”で遅れを示し、厚みで本物を置いた。
だが、灰の縫い手はこれで終わるはずがない。写しは照り返す。照り返しは次を呼ぶ。
セレスティアが王城に戻ると同時に、王都西の孤児院から伝令が来た。
「西の女王が、二人現れました!」
伝令の頬は紅潮し、足が震えていた。
「一人は子どもと一緒にパンを運び、一人は布告を掲げています! どちらが本物か……!」
「——行く」
俺は言い、砂時計を返した。二つの速さが、すでに見えた。一つは遅い。一つは速い。だが、速い方が丁寧に真似ている。丁寧さは厚みの代用品になる。人を欺くのに十分な密度を装う。
「照り返しだけでは足りない。歪みを探る」
歪布の稽古を、ここで合わせる。本物には歪みがある——生活の歪み。完璧に整っていない、自分の“型”。
◇
孤児院の庭は、夕焼けで赤く染まっていた。
西の女王が二人。
片方は白い前掛けをして、大鍋の前に立ち、子どもにスープをよそっている。彼女の背筋はいつものように伸びていて、声は低く、よく通る。
もう片方は階段の上から、布告を読み上げている。「ひとりひざまずけば、街が立つ」。文句は正確。声もよく通る。身振り手振りは、小気味よい。照り返しは速い。
アリアが小声で言う。「上の方が**“うまい”」
「うまさは疑いだ」
俺はそう返し、砂時計を返した。
歪み。
生活の歪み**。
大鍋の側に立つ彼女の足元は、僅かに外側へ開いている。重い鍋を支える癖。階段の上の彼女の足は、きれいに揃っている。揃いすぎている。
「上が偽だ」
俺は小さく告げ、ミラに視線で合図する。青い糸。
ミラは階段の四隅に結びを置き、ほどけの道を作った。封糸の女は庭全体に沈黙を広げた。
アリアは笛を両手で持ち、音を出さない。吸・吐。
フロエが柄板で、裏打ちの厚みを作る。工匠は地面に踏み返しの板を二枚置き、子どもの足の位置をわざと斜めに印した。歪歩だ。
人々の呼吸が揃いすぎないように、わざとずらす。遅れは共有され、厚みになる。
階段の上の彼女——偽の女王は、一度、唇を噛んだ。早い照り返しの場で力を得ていた彼女は、遅さと歪みの場では足場を失う。
「ひざまずきは立ち上がりの稽古……」
言いながら、彼女は一歩踏み外した。足が揃いすぎて、歪みに乗れない。
下の彼女——本物の女王が、鍋の柄を置き、膝をついて手を差し伸べた。
「——座ってからでいい」
その声は低く、厚かった。返りは遅く、子どもたちの目が遅れて潤んだ。
偽の彼女は、その手を取らなかった。代わりに紙を投げた。灰色。
> 「本物は倒れる。偽物はひざまずく。
> 女王は倒れる」
紙の文が照り返す。
アリアが笛を持ち上げ、逆を鳴らす。
短・長。
短は恐れ。長は笑い。
庭に笑いが遅れて広がった。子どもが笑い、女王が笑い、俺も笑った。
偽の女王は、笑わなかった。照り返しは速いが、遅い笑いには乗れない。
封糸の女が前に出て、木札を一枚、彼女の足元に置いた。
「——ほどけ」
偽りの縫いが、沈黙の中で解けた。輪郭が薄れ、灰は風に混じった。
◇
夜。
王城の上階で、「運用の机」は再び開かれた。だが、もはや机という言葉は似合わない。場そのものが運用であり、机はただの印だ。
王は椅子に座らず、立っている。セレスティアは剣を外し、壁に立てかけ、アリアは笛を膝に乗せ、ミラは糸巻きを抱え、フロエは柄板を脇に置き、工匠は踏み板を磨き、封糸の女は木札を数え、グラールは紙束を整えている。
俺は砂時計を返し、口火を切った。
「偽布の第一陣は退けた。照り返しを遅らせ、厚みを示す稽古が効いた。だが、次が来る」
「必ず来る」セレスティアが頷く。「写しは数で来る。場所で来る。時で来る」
「そして中から来る」封糸の女が低く言う。「信頼を狙う」
グラールが紙束の上に一枚、薄い紙を置いた。
「掲示の偽造が見つかった。書式は似ているが、返りが速すぎる。字が光を吸わない」
彼の言葉に、部屋の空気が少し重くなる。
「——対策を布地に落とす」
王の声が厚かった。
「本物の拍を、人に返す。偽物は照り返す。遅く、深く、静かに置かれたものを、人に覚えてもらう。偽造掲示の横に、必ず注釈を置く。『返りを受けよ』と」
「布告に時間を入れましょう」グラールが即座に言う。「『遅れて届く』ことを文として記す。読む時間が含まれている文だ」
「音も」アリアが続ける。「無音の吸気を、一拍。これを**“間札(まふだ)”として街に配る。読んだら一拍**、みんなで息を吸う札」
ミラが小さな声で言った。「結び札も。貼ると返りが遅くなる紙」
工匠が笑った。「なら、踏み板にも遅れを彫っておこう」
フロエは柄板に新たな裏打ちを刻みはじめた。遅い返りに快を与える拍子だ。
封糸の女は木札の束を半分、俺に差し出した。
「沈黙が足りなくなる。あなたにもこれを。音を吸う札」
受け取りながら、俺は彼女の指先の細い傷に気づいた。縫いの痕。偽布と戦った今日の痕。
「……ありがとう」
彼女は何も言わず、ほんの僅かに頷いた。
◇
夜の中ほど、風がまた紙を運んできた。
> 「遅れて届くものは、届かないかもしれない。
> 今すぐ届くものだけが、真実だ。
> ——迅布(じんぷ)」
新しい名だ。迅布。
遅さを否定し、速さだけを真実にする布告。
「——来た」
俺は砂時計を返し、重さを確かめた。厚みを作る稽古が始まったばかりだ。そこに速さが被さる。
王が静かに口を開いた。
「私は明朝もひざまずく。遅れて返る。早いものに遅い返りを重ねる。——散る」
セレスティアが剣を取り上げ、鞘に納め直した。「導線を引く。遅い返りが邪魔されないように」
アリアは笛を磨きながら笑う。「無音の名手になるつもり」
ミラは結びを二重にした。「ほどけやすく、ほどけやすく」
フロエと工匠は、遅い拍の快をさらに磨く相談を始め、封糸の女は窓の外の風に耳を澄ませた。
グラールは紙の角を揃え、ためらいながら、いちばん上の紙に小さく書き足した。
> 『早く届く噂は、遅く疑え』
彼の字は、今夜いちばん厚かった。
俺は祖父の裏帳面を閉じ、針を懐に落とし、青い糸を小さく、緩く、強く手首に結んだ。
偽布は照り返す。迅布は急かす。
だが、人の拍は遅れて、深く、静かに来る。
落ちる砂の音が、王都の夜を撫でていく。
やり足りないで終える。次の線が、次を呼ぶ。
針は両刃。
だからこそ、切れて、縫える。
切り結ぶのではなく、縫い合わせるために。
明日もまた、王はひざまずき、街は座り、立ち、笑う。
遅れて届く真実を、人の手で運用するために。
(第二十一話「迅布の朝、遅い返り」につづく)
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