第三話「線を交わす条件」

 黒い霧が消えて、広間に残ったのは湿り気と、割れ目だらけの岩肌と、互いの呼吸の音だけだった。アリアは弦を緩め、俺の肩越しに正面を睨む。入口側、斜路の影から《蒼狼の牙》が現れ、先頭のガロスが剣先をやや下げた状態で止まった。敵意はむき出しではない。けれど、剣の腹に走る緊張は、俺の《観測》を発動するまでもなく見て取れた。


 「ユリウス」

 ガロスの声は乾いていた。「結界の乱れは、お前が——」


 「違う」アリアが一歩踏み出して遮った。「いま、ここのヘイズを収束させたのはユリウスよ。私が見た」


 リーネが視線だけで広間をなめ、顎を引く。「痕跡、あるわ。霧核が砕けてる。でも、どうやって?」


 「説明はギルドでやる」俺は短く返した。「ここで口論するのは危険だ。さっきの衝撃で上層の支持が緩んでる。……ほら」


 足元の銀線が揺れた。壁面の亀裂に沿って、細い線がパリパリと音を立てる感覚がする。見えているのは俺だけだが、次に来るものは誰の目にも明らかだ。天井の岩板が、乾いた唸りを上げた。


 「退路を確保する」

 俺は砂時計を返し、《観測》を深く沈める。銀の線が迷宮全体へと伸び、角度や負荷を示す細かな符号が点滅した。押し出すべき石。支えになる柱。走れば踏み抜く腐土。俺は指を弾くようにして、最低限の“再演”をかける。崩落の起点を半歩ずらし、落石は空洞側へ引かせる。


 「右壁沿い、二十歩先まで走れ!」

 号令と同時に、俺たちは動いた。《蒼狼の牙》も黙って従う。ガロスが殿、アリアが先導し、俺は中央で砂時計を握って線を撫でる。背後で岩板が崩れ、石礫が雨のように降った。だが風は俺の望んだ方角に流れる。埃の波が二手に割れて、通路に生まれた短い晴れ間が、俺たちの足を支えた。


 斜路を駆け上がり、入口に近い広い踊り場まで戻ったところで、ようやく足を止める。大口を開けて呼吸しながら、俺は砂時計の砂を確かめた。落ちる速度が、昨夜よりも遅い。消耗に反比例するように、砂粒ひとつひとつが、重みを増している。


 「……やっぱり、ただの《観測》じゃない」

 リーネが、やや険の取れた顔で呟いた。「あなたの手の中で、世界の方が“合わせて”る」


 「称賛はギルドでまとめて聞く」アリアが肩越しに言った。「まずは報告。騎士団の調査依頼だったはずでしょ」


 「報告ついでに」ジラがニヤリと笑う。「ユリウス、お前の手際、うちで活かさねえか? ほら、さっきガロスが——」


 「聞いた」

 俺は遮る。「だが返事は同じだ。《線引き》として動く。……今は、共闘だ。出口までのあいだ、互いに背中を預けよう」


 ガロスは短く頷いた。ほんのわずか、剣の柄を握る指が緩む。あの頑なさが、わずかでも軟化したことに気づき、俺は視線を前に戻した。崩落の“線”はもう落ち着いた。道は生きている。


 * * *


 王都ギルド棟の大扉を押し開けると、昼の光とざわめきが押し返してきた。掲示板の前は人だかりだ。昨夜の結界不調に関する続報が貼り出され、騎士団の使者が説明をしている。奥のカウンターからバルトがこちらを見つけ、手招きした。


 「戻ったか。顔を見りゃ、結果はわかる」

 彼は目だけで俺の砂時計とアリアの弓傷、そして《蒼狼の牙》の擦り傷に順番に触れ、「中で話す」と奥の応接に通した。


 簡単な報告の前に、門が叩かれた。現れたのは鎧姿の女。濃紺の隊外套に銀の紋章。王都騎士団・第三隊の隊長、セレスティア・ヴァイン。騎士学校の最年少主席として名を知られ、実務でも辣腕だと評判の人物だ。


 「ギルド長代理、同席を許可された」

 セレスティアは無駄のない礼をしたあと、真っ直ぐこちらを見た。「報告を聞いた。《傾斜坑迷宮》におけるヘイズの局所消失。核の痕跡なし。……あなたがやったのね、観測士」


 「ユリウス・ラインハルト。新設パーティ《線引き》のリーダーです」


 名乗ると、彼女は一瞬だけ目を細めた。「ライン“ハルト”。……覚えておく」


 「隊長、彼のスキルは通常の観測を超えています」

 アリアがすかさず続ける。「線を読み、わずかに“調整”することで、崩落も、霧の流れも、戦闘の呼吸も——」


 「実証は?」

 セレスティアの声は冷たいが、興味を隠してはいなかった。


 「実地で再現するのは危険が伴います」俺は砂時計を机に置き、砂面へ指先を落とす。「机上で、簡易に」


 バルトがうなずき、隅の棚から木製のパズルを持ってきた。小さな迷路の上を鉄球が転がる、子どもの遊具だ。傾けて遊ぶそれを、平らな机に置く。


 「球を、中央の穴に落としたくない。けれど自然に転がすと、穴に吸い寄せられる」

 俺は説明しながら、砂時計を返して《観測》を薄くかけた。銀線が迷路の細道を走り、球の“選びがちな”経路を描く。俺はその一本を指でつまみ、穴の縁でわずかに角度を変えた。


 球は、穴の縁をかすめて、そのまま何事もなかったように別の道へ流れた。

 セレスティアの眉が、ほんの数ミリ、上がる。


 「魔術的干渉は?」

 リーネが身を乗り出す。「詠唱も媒体もない。なのに結果だけが変わる。無詠唱とも違う……」


「観測の“再演”です」

 俺は砂の音を聞く。「記録した線を、そのままなぞり直す。ただし一部だけ、ほんのわずかにズラす。世界は、ズレの許容範囲内なら、それを“元からそうだった”と受け入れる」


 「許容を超えたら?」


 「弾かれる。反動が来る。だから、俺はいつも最低限しか触らない」


 セレスティアは腕を組んだ。「理屈は理解した。……そしてあなたは、昨夜、その最低限を最大効率で運用して門を守った。さらに今日、迷宮でヘイズを局所的に消した。騎士団としては、協力を要請したい」


 ガロスが口を開いた。「俺たちも——」


 「《蒼狼の牙》は別件だ」

 セレスティアの視線が鋭く切り返す。「あなたがたには北外周の巡視を依頼する。ラインハルト——《線引き》には、王城地下での調査協力を」


 室内の空気がわずかに変わった。王城地下の調査は、普通の冒険者には回ってこない。政治の匂いがする依頼は、同時に褒美と火種を約束する。


 「条件を出していいか」

 俺は手を挙げた。「協力はする。ただし、作戦立案に関して発言権をもらうこと。現場の判断に口出しをしないこと。……それと」


 「それと?」


 「俺のスキルに関する記録は、公にしない。外部に“再演”の詳細が出回れば、悪用される」


 セレスティアは数秒、黙った。

 やがて、短く頷く。「受け入れる。報告は私とギルド長代理にのみ口頭で。記録は暗号化し、閲覧者を限定する」


 バルトが肩をすくめる。「王城案件だ。そういう約定は嫌いじゃねえ」


 「話が早いのね、隊長さん」

 アリアが笑った。「じゃあ、引き受けるわ」


 「決まりだ」

 セレスティアは踵を返し、扉の前で一度だけ立ち止まった。「ラインハルト。あなたの家は、王都西区の古い書庫の裏だろう」


 胸の奥で、古い埃の匂いがよみがえる。「……よくご存じで」


 「騎士団は情報を集める。あなたの姓——“線を守る一族”に由来する古語だ。過去に似た能力者の記録がある。だが断片的だ。……王城地下に、その記録の続きがあるかもしれない」


 そう言い残し、彼女は去った。


 扉が閉まるやいなや、リーネが椅子の背に腕を掛けてこちらを覗いた。「ねえ、“似た能力者”って?」


 「知らない」

 俺は素直に答えた。「俺の家は、ただの本屋だった。祖父はよく『線を乱すな』と言っていたが、その意味を真面目に考えたことはなかった」


 「ふうん」

 リーネは何かを思い出すように目を細め、それからポケットから小さな紙片を取り出し、机に置いた。白い紙に、細い銀糸が一本、縫い付けられている。「これ、私の護符。『封糸符』っていうの。魔力の乱流から身を守るために、パーティの後衛に貼っておくことがある」


 アリアが眉を上げる。「後衛“だった”ユリウスに?」


 「そう。ずっと、ね」

 リーネは悪びれもせず言う。「あなたが“見過ぎないように”。観測者は、見過ぎると自分を見失うから」


 俺は護符を指先で持ち上げた。銀糸は、微かに、俺の砂時計と同じ鼓動で震えている。

 ……これが、俺の“反応”を抑えていたのか? それとも、暴走の縁から遠ざけてくれていたのか?


 「どっちでもいい」

 アリアが手の平で紙片をぴしゃりと叩き、俺の方へ滑らせた。「今のあなたは、自分の線を自分で選べる。必要なら、貼ればいい。いらないなら、捨てる」


 俺は護符を見つめ、ゆっくりと懐にしまった。完全に白か黒かで割れる話ではない。俺が“記す側”で満足しようとしていた頃、この護符に寄りかかっていた自分がいたのも事実だ。


 「それで——」

 ガロスが椅子を引き、立ち上がる。「俺たちは北外周だ。……ユリウス」


 視線が交わる。今度の目は、責めるのでも誘うのでもない。戦友としての、短い合図だけがあった。


 「気をつけろ」


 「そっちもな」


 《蒼狼の牙》が出て行き、応接に静けさが戻る。バルトが椅子の背に寄りかかり、鼻の頭を掻いた。「面白えことになってきた。王城地下なんざ、俺も長いこと足を踏み入れてねえ」


 「行く前に、準備を」

アリアが指を折る。「暗所用の灯り。流砂対策の縄。……それと、あなたのために予備の砂時計」


 「いや、これは多分——」

 俺は自分の砂時計を見下ろす。「俺にしか反応しない」


 「じゃ、代わりにこれを」

 アリアは腰の小袋から、羊の角でできた笛を出した。「音は“線”を揺らす。必要なとき、合図に使えるわ」


 受け取り、音孔を指で覆って、口に当てる。「ありがとう」


 準備のリストを整理し、最低限の睡眠をとる。夕刻前、俺たちは王城へ向かった。西陽に照らされた城壁は金色に縁取られ、門番の鎧が鏡のようにきらめく。セレスティアの案内で通用門から入り、螺旋階段を降りる。石段が深くなるほど、空気中の“線”が密になるのを感じた。地下は、世界の縫い目に近い。


 「ここが第一封鎖層」

 セレスティアが鉄格子の前で立ち止まり、鍵を回す。「この下は王家の記録庫。紙と石板と、……時にはそれ以外。『記録』という名の呪いが集まる場所」


 「呪い?」


 「過去は、ときに現在を縛る。あなたの《再演》も、その縛りに触れる術かもしれない」


 鉄格子が重い音を立てて開く。俺は深く息を吸い、《観測》を浅く開いた。銀線が、棚と棚の隙間、巻物の繊維、石板の溝を走る。ある一角だけ、線が濃く、硬い。世界がそこに“針”を打ち込んだように。


 「……あれだ」


 俺が指差した先、黒い樫材の箱が棚の一番下に収まっていた。封蝋に古いスタンプ。セレスティアが片膝をついて封を確かめ、俺の方を見上げる。「開ける」


 蓋を持ち上げると、乾いた紙の匂いが立ち上る。中には数冊の薄い冊子と、砂色の小瓶。そして、割れた砂時計の枠。


 「——ラインの書」

 セレスティアが低く読む。表紙に、古語で“線を継ぐ者の記”と記されている。俺の姓の根っこに、古い言葉が絡みついている感覚が、背骨を冷やした。


 最初の一頁を開く。筆致は細く、正確だ。

 〈観測は記録にあらず。観測は記録を生成する。記録は世界の“演算に供される”〉

 〈演算の縫い目に触れる者を“線守(ラインキーパー)”と呼ぶ〉

 〈線守は、砂の落ちる速度を変える。砂は時間ではなく、許容量である〉


 ……許容量。俺が感じてきた、砂の重みと遅速。それは時間の残量ではなく、“世界が受け入れられる改変の枠”——?


 アリアが身を乗り出す。「なら、あなたの砂が重くなってきてるのは——」


 「許容量が増えている」

 自分の声が、地下の空気に吸い込まれる。「昨夜より、今日。今日より、今。俺は“触れて”、世界は“受け入れた”。だから枠が広がった」


 セレスティアが次の頁をめくる。

 〈枠を一気に広げるな。戻らない。枠が裂けると、線は”逆演”する〉

 〈逆演は、観測者の内側から始まる〉


 ページの端に、砂色の染みが落ちている。小瓶の栓を抜くと、砂ではなく、粉になった“何か”が入っていた。紙片に振ると、粉は銀色にきらめき、文字の上で細い線に集まる。古い指示が、粉でなぞられたように浮かび上がった。


 〈王都の結界が“薄く”なる周期に、必ず“霧”が生じる。霧は記録の“欠片”に喰らいつき、形を持つ。霧を断つには、記録の“縫い目”を再演せよ。縫い目は王城地下の——〉


 そこで文は、破れていた。頁の下半分が失われている。


 「続きは?」

 アリアが焦れた声を出す。セレスティアが箱を探り、割れた砂時計枠に刻まれた刻印を指でなぞった。


 「持ち去られている」

 隊長の声が低くなった。「誰かがこの記録の核心を奪い、砂時計を壊した。……最近ではない。木の乾き方からして、少なくとも十年以上前」


 「十年以上前に、ここへ入れたのは?」


 「王家の記録官、当時のギルド長、そして——」

 セレスティアの視線が、俺に刺さってから、わずかに逸れた。「西区の古書店に住んでいた“線守の末裔”」


 祖父の顔が、脳裏に現れる。大きな手。静かな目。店の奥で、砂時計を磨いていた背。

 彼は、ここに来ていたのか。ここから“何か”を持ち出したのか。誰のために?


 「セレスティア隊長」

 廊下の方から、甲冑の音と共に小隊長の声が届いた。「地上一帯の巡視、完了。ですが北塔の影で不審者の影が。追跡は失敗しました。痕跡に、銀糸の切れ端が」


 リーネが息を呑んだ。「封糸符……?」


 「ここにも、糸の使い手がいる」

 セレスティアの目が冷たい光で細くなる。「古記録を奪った者と繋がっている可能性が高い」


 俺は砂時計を握り、鼓動の回数を数える。銀線が、塔の影から、地下の棚へ、俺の指先へとゆっくり繋がっていく感覚がした。線は俺に“選べ”と言う。追うのか。読むのか。守るのか。切るのか。


 「選ぶのはあなた」

 アリアが囁いた。「でも、どれを選んでも私が隣にいる」


 俺は頷き、セレスティアを見る。「隊長。作戦を提案します」


 「聞こう」


 「王城地下の“縫い目”の位置を、俺の《観測》で特定する。同時に、糸の使い手がいるなら、同じ“線の言語”でメッセージを送る。誘い出す。……相手は、記録を喰らう霧と手を組んでいるかもしれない。なら、こちらは“記録の再演”で罠を作る」


 バルトが苦笑する。「祭壇と舞台を兼ねるってことか。見物だな」


 セレスティアは短く考え、頷いた。「許可する。誘い出す場はどこがいい」


 「王都で“線”が最も集まる場所」

 俺は目を閉じ、世界の糸の密度を指で数える。「……西区の市場(バザール)。古い交易路と新しい大通りの交差点。記録と視線が重なる」


 「目立ちすぎる」

 アリアが眉をひそめる。「市井を巻き込む危険が——」


 「巻き込まない。『祭り』にする」

 俺は息を吸った。「音楽と布と灯り。線を揺らす“無害な”要素で満たし、その中に一本だけ、“本物の縫い目”を仕込む。相手は触れずにいられない。触れた瞬間、俺は再演で“こちら側”へ引き寄せる」


 セレスティアが口角をわずかに上げた。「大胆だな、観測士。……三刻後、準備を整え、実施する。騎士団は周囲の警戒と退避導線を引く」


 「了解」


 部屋を出る前、俺は改めて割れた砂時計枠に触れた。指に、冷たい鉄の味が移る。祖父の影は、もうここにはない。だが、線は残っている。なら、辿れる。


 * * *


 西区市場は、日が傾くにつれて人の密度が増していく。露店の布が風に泳ぎ、香辛料の匂いが混じり、遠くで笛と太鼓が鳴る。騎士団は目立たぬように周囲を囲み、ギルドの連中が出店に混じって見張りを置いた。アリアは弓を持たず、笛を持った。俺も、砂時計の鎖を上着の内側に隠す。


 「合図は?」

 アリアが肩で聞く。


 「一度目の笛で“揺らす”。二度目で“縫う”。三度目で“引く”。」

 俺は砂時計を返し、薄く《観測》をかけた。人いきれの向こう、銀線が群がる。市場は世界の“記録”でできた織物だ。足音、呼び声、値札、嘘と本音、笑いと咳。一本一本は弱いが、束ねられると強い。そこに、一本だけ異質な線が混じろうとすれば——きっと、わかる。


 笛が鳴った。アリアの音は穏やかで、場を壊さない。布売りの兄ちゃんがリズムを取り、子どもが跳ねる。俺は人の流れに合わせて、屋台の布の結び目をひとつ、灯りの芯をひとつ、わずかに“ズラす”。線は緩む。場が揺れる。海の表面が小波で整えられるみたいに、共振が生まれる。


 ——来い。


 風が、逆に吹いた。

 人の視線がふっと逸れる瞬間。熱の流れが筋を変える瞬間。俺の右の肩を、冷たい“視線”が撫でた。


 「二度目」

 アリアが低く囁き、短く笛を鳴らす。俺は銀線を掴み、二本を交差させて“縫う”。祭りの真ん中に、目に見えない細い針金で、輪を作る。そこに——


 黒い布の裾が、触れた。

 見えないはずの“縫い目”に、誰かの指先が触った。糸が微かに鳴る。

 俺は三度目の笛を待たず、砂時計を逆さに握った。「——引く」


 銀線が一斉に流れ、輪が収縮する。布の影が引きずり出され、露店の影から、一人の影が躓くように前へ現れた。黒い外套。目深の帽子。外套の内側に、銀糸の束。


 「封糸の使い手」

 リーネの声が背後でした。いつの間にか来ている。ガロスも陰に混じっている。最小の戦力、最大の視線。


 男——いや、女か。顔の輪郭は細い。だが声は低く抑えていた。「観測士。線を引く者」


 「あなたは、記録を奪った者?」

 俺は距離を詰めず、線だけを前へ伸ばす。


 「奪っていない。『戻した』。本来の場所へ」

 帽子のつばの下で、笑いが歪んだ。「“記録”は王のものではない。世界のものだ。世界に還せ」


 「世界に還せば、霧が喰う」

 俺は低く言う。「ヘイズは“欠片”に喰らいついて形を持つ。あなたはそれを知っているはずだ」


 「だから“封じる糸”がいる」

 女は外套から銀糸束を抜き、空気中の何もないところに、手早く針を刺した。“何もないところ”に、白い線が現れ、結ばれる。見えない袋がひとつ、そこに吊るされた。


 「記録は袋に戻す。王の地下庫ではなく、“線のための袋”に。あなたの祖父が始めたことよ」


 祖父。胸の内側で、古本の紙鳴りがする。

 セレスティアが周囲を引き締め、短い号令を飛ばす。「包囲を狭めろ。——観測士、時間はない」


 俺は砂時計を見た。砂は、ずっと重く、遅く、しかし確実に落ち続けている。

 祖父が始めた。“線の袋”。王城の“縫い目”。霧を喰らわせ、世界を守るつもりだったのか。

 だが今、袋は破れ、霧は街に降りている。


 「祖父はどこだ」

 俺は訊いた。

 女は静かに頭を振る。「線の外。いずれ会う。今は——選べ。王に縫い付くか、世界に縫い付くか」


 選べ。

 三度、選択を迫られた一日の終わりに、俺はようやく気づく。選択肢は二つじゃない。線は一本じゃない。


 「俺は」

 砂時計を返し、銀線を掌で束ねる。「王に縫い付かない。世界にも縫い付かない」


 女の目が、つばの下で細くなる。


 「“人に縫い付く”。市場の誰か。騎士。冒険者。書記。子ども。——記録は生きて、そこに残る。袋ではなく、身体に」


 「無茶だ」

 セレスティアが低く言う。「危険が——」


 「危険は分ければ軽い」

 俺はアリアと目を合わせる。彼女は迷わず頷き、笛を構えた。


 「三度目だ」

 笛が鳴る。

 俺は“輪”を拡張し、分割し、人々の肩と肩の間、呼吸と呼吸の間に、細い“縫い目”を走らせた。古い記録の欠片は、袋にではなく、人の“線”へと糸を渡される。言葉ではなく、癖として。歌として。歩き方として。

 ヘイズが、たじろぐ。喰らうべき“欠片”が、袋から散らばり、どれも“本体”になっていくからだ。


 女が銀糸を引いた。俺は砂を握り、糸の端を“再演”でわずかに結び替える。

 糸は切れない。代わりに、女の外套の端が、祭りの布に縫い付いた。彼女は身を捩る。布は破れ、走る。騎士団が囲む。ガロスが横から出て、退路を塞ぐ。


 「ここで終わりだ」

 セレスティアが剣を抜いた。「記録庫への不法侵入、結界を乱す術の使用、城下での危険な儀式。拘束する」


 女は、ふっと笑った。「終わり? いいえ、観測士。今、ようやく“始まり”よ」

 帽子のつばの下、目がまっすぐ俺を射抜いた。「ラインハルト。線を引く者。——袋が破れた理由を、祖父に訊きなさい」


 言い終えるより早く、女は足元の影を蹴った。影が、波だった。ヘイズの薄皮が街石の目地から浮かび、彼女の足首を一瞬だけ包む。俺が線を掴むより、わずかに早く。影はほどけ、女は人混みの向こうへ消えた。


 追おうとして、セレスティアが手で制した。「追撃はいい。民を巻き込む」


 俺は息を吐き、砂時計を胸に押し当てる。砂は落ちている。許容量は、まだ残っている。だが今、引くべき線は追撃ではない。


 アリアが肩で俺を小突く。「選んだね」


 「選んだ」

 俺は市場を見渡す。笛の音がいつの間にか増え、別の屋台からも太鼓が鳴っている。さっき“縫い付けた”せいだろう。誰かの指が糸をつまみ、別の誰かの心が受け取った。


 セレスティアが短く告げる。「王城に戻る。記録庫の再調査と、古書店への聴取。……ラインハルト。あなたの祖父の居所は?」


 胸の奥で、古い鍵の触れる音がした。

 西区、裏路地。薄い扉。いつも閉じている、裏の裏口。

 祖父は、もういないのかもしれない。だが“線”は残る。問いをかければ、返ってくる。


 「案内する」


 市場の喧噪の向こう、夕暮れの色が濃くなる。

 選んだ線の先で、待っているものは何か。

 世界唯一の《観測士》は、胸の砂時計に手を当て、歩き出した。


 ——第三話、了。次話「祖父の書架、折れた針」へ続く。

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