第二話「新しい線の始まり」
夜明け前の王都は、雨雲が去ったあとで冷たく澄んでいた。屋根から滴る水が石畳に細い筋を描き、灯りの残滓がそれを青白く照らす。空気はひんやりしているのに、胸の奥ではまだ熱が残っていた。俺の《観測》が、昨夜から確かに“変わった”のだ。
「ほんとに断るとは思わなかったわ」
隣を歩くアリアが肩をすくめる。赤髪を後ろで結び直し、濡れた弓弦を布で拭っていた。
「《蒼狼の牙》に戻る気はなかったのか?」
「なかった」即答した。口にしてみると、自分の中で迷いが消えたことがわかる。「俺はもう、誰かの後ろで数字を読み上げるだけの観測士じゃない。線を記すんじゃなく、線を引く。そう決めた」
「かっこつけるじゃない」アリアは笑って、弓を背に収めた。「まあ、面白そうだから付いてくわ。で、これからどうする?」
俺は砂時計を取り出し、掌で転がした。昨夜の戦闘のあとから、砂粒がほんのり光を帯びている。握るたびに心臓の鼓動に呼応するように、淡い脈動を返してくる。
「ギルドで正式に登録したからには、依頼を受けるしかない。臨時じゃなく、俺たち《線引き》として」
「名前は硬いけど、まあ覚えやすいわね」
ギルドの掲示板には、すでに新しい依頼が張り出されていた。魔物討伐、薬草採取、護衛、探索——どれもCランク相応だ。だが一枚だけ、赤い印が押された依頼があった。
「これ……」
アリアが覗き込み、口笛を鳴らした。「《傾斜坑迷宮》の調査依頼。難易度はB寄りよ。報酬は金貨二十枚。依頼人は王都騎士団」
「昨夜の結界不調と関係があるな」
「危険だけど……受ける?」
俺は砂時計を見た。砂は淡く光り続けている。昨夜の力を再び使えるかどうか、試すには絶好の機会だった。
「受けよう。俺の《観測》が本物かどうか、試すために」
アリアが笑みを浮かべ、依頼書を剥がした。「決まりね」
* * *
翌朝、俺たちは王都の北に広がる《傾斜坑迷宮》へ向かった。入口は岩肌に穿たれた人工の洞窟で、斜めに傾いた坑道が地下へと延びている。かつて鉱山として使われていたが、魔力の濃い鉱脈が発見されてからは魔物の巣と化した。今では“迷宮”として扱われ、調査と攻略が進められている。
「中は湿気が強いな」
靴が濡れた地面に沈み込む。壁の鉱石がぼんやりと光り、青緑の筋が縦横に走っている。自然の光源がある分、松明を焚かずに済むが、影が濃いぶん死角も多い。
「気をつけて。迷宮ってのは、生き物みたいに形を変えることがある」
アリアが矢を番え、周囲を警戒する。俺は砂時計を握り、《観測》を発動した。空気が変わる。視界の端に、淡い銀線が立ち上がる。坑道の傾斜、岩の裂け目、水滴の落下。すべてが線で示される。……その中に、異質なものがあった。
「アリア、三十歩先の右壁。罠だ」
「え?」
「岩の裂け目に仕掛けがある。踏むと矢が飛ぶ」
アリアが慎重に歩み寄り、矢じりで裂け目を突いた。瞬間、隠し板が外れ、鋭い矢が放たれた。彼女の矢とぶつかって火花を散らし、地面に落ちる。
「ほんとだ……。よく見抜けたわね」
「線が見えた。流れから外れてる線があると、すぐにわかる」
アリアは目を丸くして俺を見た。「あなた、やっぱりただの観測士じゃない」
「……そうだな」
俺は初めて、自分のスキルに誇りを持てる気がした。
* * *
迷宮の奥へ進むにつれ、魔物の数が増えていった。コウモリ型の《ブラッドバット》、岩に擬態した《ストーンリザード》。そのどれも、線を操作することでわずかに行動をずらし、アリアの矢や俺の杖撃ちで仕留めていった。
だが——最奥部で出会った存在は、想像を超えていた。
「……何だ、あれは」
広間の中心に、黒い霧が渦巻いていた。昨夜門前で見た《ヘイズ》に似ている。だが規模が桁違いだ。霧の中に、無数の目のような光が瞬き、低い唸り声が響いている。
「報告にあった“結界不調の原因”は、これね」
アリアが矢を構える。しかし俺は手を伸ばして止めた。
「待て。これを普通に撃てば、迷宮全体に広がる」
「じゃあどうするの?」
俺は砂時計を返した。砂が強く光り、世界が暗転する。銀線が奔流のように広がり、霧の渦を形作る。無数の線が絡み合い、まるで巨大な蜘蛛の巣のようだった。
「……これは、“再演”じゃ抑えきれない」
だが一つだけ、細い“ほころび”があった。渦の中心から外へ伸びる、僅かな緩みの線。そこを突けば、霧は一時的に収束するかもしれない。
「アリア、俺が線を抑える。お前はあの一点に矢を放て」
「一点って、どこ?」
俺は指で示す。アリアは頷き、弓を引き絞った。
「——今だ!」
俺が線を掴み、強引に押し曲げる。霧が軋む。アリアの矢が放たれ、銀の線を貫いた。瞬間、霧が震え、渦の中心が破裂するように光った。耳を裂く轟音。衝撃波が広間を駆け抜け、岩壁にひびが入る。
霧は一瞬にして消えた。残ったのは、黒い結晶の欠片だけ。
「やった……?」
アリアが矢を下ろす。俺は結晶を拾い上げ、砂時計に近づけた。すると砂が淡く輝き、結晶は溶けるように消えていった。
「……吸収された?」
「多分、俺の《観測》が、霧の正体を“記録”したんだ。だから結晶は存在できなくなった」
アリアは目を輝かせた。「つまりあなたのスキルは、ただ見るんじゃなく、世界の異常を修正する力……!」
「大げさだ」そう言いながらも、胸の奥に熱が広がっていくのを感じた。
追放されたはずの俺が、いま確かに誰かを救った。世界を救える可能性すらある。
その時、背後から重い足音が響いた。振り向くと、剣を構えたガロスと《蒼狼の牙》の面々が広間に現れた。
「ユリウス……やはりここにいたか」
ガロスの目が結晶の消えた広間を見回し、険しく光った。
「お前の力、俺たちに必要だ。今度こそ戻ってこい」
アリアが即座に俺の前に立った。「冗談じゃない。ユリウスは《線引き》の仲間よ」
広間に緊張が走った。再び、俺は選択を迫られていた。
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