栄養ドリンク

ぶう

栄養ドリンク

 

「栄養ドリンク1本なくなってたんだけど」

ボソボソ声で言ってきた。

栄養ドリンク一本でガタガタ文句を言う。

父が飲んでいいと言った6本入りの栄養ドリンク。

妹が誕生日プレゼントでもらったものだと、あとで知った。この時点で

夜分、母親、妹の間で誰が栄養ドリンク飲んだのか話してた。

妹の反応に子供かよと呆れた。

それと同時に「えっ?」とも思った。

遡って先日、父が冷蔵庫にあるレモンの栄養ドリンクについてふれたことがきっかけだ。いや、私が冷蔵庫を開いたときにその話になったのかきっかけは覚えていない。

冷蔵庫にあるレモンの栄養ドリンク飲んでいいぞ

と父が言った。

前もって妹のものだとは事前に父も私も知ってはいた。

父曰く、妹には事前に私が飲んだと言っておくからそのかわりに買ってきた150ミリリットルのペットボトルに入った炭酸飲料を代わりに妹に言っておくからと提案された。私もそれならと、飲んでもいいかなと若干迷いつつも飲みたかったので飲んだ。飲んだとしても大した問題にならないものと。

まさか、これで怒るわけでもないと。

という私の考えと行動は甘かったとそのあと反省することになる。

冷蔵庫にあった155ミリリットル6本入りのレモンの栄養ドリンク。

私はてっきり、妹のものとはいえ、家族内で飲んでよいものだと思っていた。私の認識も甘かったしそれで飲んでいいという父も父であり、それで、父を信用して飲んだ私も私だったのだが。それ以前に、そうだったとしても飲むのか?と思和ない人もいなくないだろうが。

結局、栄養ドリンクを飲んだ。味はうまかった。3分もかからず飲んだ。155ミリリットルだ。ペットボトルの炭酸飲料とは量も違う。

改めて話を戻す。

妹はその日の夜、父と私の間でそんなやりとりがあったことも知る由もなく、事前に自分のものだと名前まで書いておいたのに飲まれたことに腹が立ったのだろう。

マジメな顔で母や私に栄養ドリンク1本なくなってるんだけどといってきた。

母は知らないという。

その後、妹はグチグチ言う。

私にも聞いてきた。

「栄養ドリンク飲んだの?アレ、(妹の名前)のなんだけど」

仏頂面で言ってきた。

2次元の力はすごい。

妹問わず、アニメの場合だと女性や男性はデフォルメされており、なぜか共通してモブに至っても美男美女、美少女、美男子が多い。

だが、現実はその真逆である。

言っちゃ悪いが、美人でもない自分と似たようなツラをした人間から嫌な表情でブツブツ文句いわれるとただ不快なだけだ。

これを元に自分に優しくするセルフコンパッションをするのもいいなと思った。

失敗した自分を責めるのでなく、鏡に映る自分に対して優しい言葉をかけるとか。

話を戻す。

20歳を超えて栄養ドリンク一本でグダグダと10分以上話す。あまりにもくだらなすぎた。事前に父から聞いてないのかというツッコミとそうだったとしても、栄養ドリンク1本飲まれただけで、過ぎたことに文句をいって時間を無駄に浪費する妹に呆れた。妹の懐の狭さにいちいち説明する気や言い返す言葉を出す気にならなかった。ただ、議論している内容とこんなことに時間を浪費されるというくだらなさに

しょうもない

とつい、正直に言って、話から抜けた。

20歳も過ぎたいい大人が栄養ドリンク一本飲まれたぐらいで子供のようにだだをこねる。精神年齢が小学生かと疑うぐらいだ。

器が小さいなという、妹の狭量さに呆れた。 

翌日の夜、父と母がこのことでちょっとした言い争いみたいなことをしていた。

正直、栄養ドリンク1本でここまで深刻に話すのも馬鹿馬鹿しいことだが。

私が悪かったから謝る。それで終わりでもいいかなと思った。

こんなことに脳のリソースを消費されたくはない。

父は自分が妹に「これは、私が飲んでいいか?かわりにペットボトルの炭酸飲料あげる」と事前にいってなかった自分が悪いと言ってた。

母も母でわたしに対して、妹にその連絡がいってなくて、分かっていても、察して謝るのがただしい、でしょうとかいってたがなにも悪いことしてない私がなぜ謝らないといけないのか。正直、疑問だった。

察するという言葉、私が嫌いな言葉だ。

空気を読もうという言葉と同様だ。

法律でもないんでもない意味の分からない妄言。

自分でもたまに口にしてしまうこともありそうで怖い。

そんな察するなんて、エスパーじゃあるまいし、平然と誰もができると思い込む。

善人面をした人やものほんのいい人がいうと、たちが悪い。

そもそも、私が今考えてるみたいな小さなことを想像できない人間にどういおうと

仕方がないことだろう。

私にもそれが言えるような気がして、いやになる。

こんなしょうもない話を真剣な不機嫌そうな顔で話す母も母でこっけいで狭量だなと思った。

子は親に似るというがよく言ったものだ。

母に聞くと、その栄養ドリンクの詰め合わせは妹の友人が妹に渡した誕生日プレゼントだったとのこと。

なるほど、それでああも、怒るわけだ。と半分納得した。

女子の友情。友達思いという妹なりのやさしさか。

それを勝手に飲まれたことが腹立たしい。

だが、そうだとしてもあそこまで怒るものなのか?

おそらく、母が「あんたが『しょうもない』っていったからあの後ますますああいう態度とるようになった」とか言ってたが、俺の態度にも原因があるらしい。今もそれを引きずって余計に態度を硬化させ、キレてるのだろう。

しょうもないといった後の妹の態度は知らないから想像するしかないが、

母が言うにはそれでますます怒りがプラスされたのだろう。

まさしく、火に油である。火に水ともいえる。違うか?

翌日、いつもどおりムスっとした顔で不機嫌そうにしている。

今思えば、家にいるとき、私の前ではそうなのかもしれないが、会うたびにどの時も不機嫌そうな態度と表情をしている。

正直、ストレスになる。

そういった不機嫌さやいやな感情をもつ人間が一人でもいると、周囲に伝染し、近くにいる人の精神面やパフォーマンスにまで悪影響を出すからやめてほしいものだ。

離れるのが一番であるし、こういった態度をとる人間がいれば、どこかは忘れたが利益と成果を出している企業ではそんな人間は即クビにするところもあるらしい。

妹を追い出すわけにもいかない。

それに私もそういった人間のそばにいるということは、態度や表情も伝染している可能性もある。メタ認知を起動させて自分自身いたらない点はないか修正していかなくてはと思った。

今思うと、そもそも、栄養ドリンク6本を妹の誕生日プレゼントで渡す妹の友人もどうなのかと思った。

今の自分は、近くにいる4〜5人と同じレベルだという話をどっかで聞いた。

あってるかどうか忘れたが。

私もまだまだなのだと戒めを持って噛み締めた。

この話の結論は、親や妹、そしてこの文章を書いている私も含めて、幼稚であるということだ。未熟ともいえる。

お金にも人にも恵まれないわけだと自分でも納得がいった。

自分が変わるしかないな、という感想が頭に浮かんだ。

私が彼らと違うのは、問題点を自覚していることと、それを改善しようという

行動をしているところだ。

そこは、私が前に進んでいる証拠だろう。

まずいのは、自分の問題点に気づいてないことだ。

それよりも愚かなのは、気づいていながら改善しないことである。

そして、自分を客観的にみれてないことでもある。

私もまだまだだが。

ちなみに、後日談の話をしよう。


そのまた翌日の夜、私は渋々、母の部屋をノックした。


そして、そこにいる妹に謝った。


謝らないより謝ったほうが後々の自分のためになるだろうと思ってだ。



妹はベッドの上でスマホをいじっていた。


「昨日、勝手に栄養ドリンク飲んでごめん」

みたいなことを言った。


しどろもどろだったが。


妹はなんの反応もしなかった。


無視である。


イヤホンをしていたのか、スマホの画面によほど夢中になっていたのかはわからない。


おそらく、インスタかゆーちゅーぶのインフルエンサーのショート動画か長尺動画でもみているのだろう。



少々不快な気分になった。

しかし、謝ったことで肩の荷がおりた。


聞いてなかったとしても、こっちはそれである意味肩が軽くなったし余計なことで悩まなくて済む。


それにこうして、フリーライティング、短篇小説のネタになったのだからそれでいいやと思った。

終わり良ければ総て良しとはよく言う。


良いのだろうか?


こういう文章をかくことで自分は、立派な大人ですよとひけちらかしているように思えてならない自分もいる。


東京03の自慢話のコントではないが。


私は、今回の件で「死者を嗤う」という菊池寛さんの短篇小説の内容を思い出した。


死者が川から流れてくる。その死者が引き上げられる様を他人事のように嘲笑し見物する群衆へ主人公が憤りと皮肉をいう話だ。


主人公は死者をわらい見物する群衆に怒りを沸きながらも、

主人公もまた同じように死者を見物していたのだから、その群衆の一部なのではと皮肉る描写が印象的だ。


記憶に残った内容を2項目にまとめる。


その話の中で、主人公はハリウッドでみた映画の内容を思い出す。

とある映画で女が水に沈み、群衆がそれを引き上げようと縄でひっぱるが、縄を引っ張るのを緩めると、女がごぼごぼと音をたてて沈んでく姿を主人公もふくめて、映像をみる者たちがゲラゲラと笑ったことがあった。その出来事を引き合いに出しつつ、自分たちが置かれている状況は、それと全く一緒でないかといい、違いがあるのは、引き上げられるのは死者であるということくらいだという。


物語の最後に主人公は、死者を見物していた群衆を題材に短編小説を一本書こうと決めた。その内容は、橋の上で群衆が川に流れる死者を笑いながら見物していたのだが、その橋は群衆の重みに耐えかねて、橋が崩壊し、橋の上にいた群衆が川に落ちて死んでしまうという話だった。が、思えば、また、主人公も死者を見物していた群衆の一人であることを知る由もなかったという。


内容は多少記憶違いで相違点や省略部分もあるかもだがご了承してほしい。

この二つの描写は皮肉がきいてて好きだ。


興味のある人は一読を。


つまり、私は何が言いたかったのか?


ようは、「死者を嗤う」に登場する主人公や群衆と重なったのだ。


これは、現代のSNSやニュースメディアにも同じことがいえるのではないだろうか?


栄養ドリンクの話の私の親や妹、この文章をかく私自身も死者を嗤う群衆と同じなのだ。


私も、死者を嗤うの主人公と同様に、短編小説のネタを思いつきはした。

行動という面では、自分が嫌悪している者たちと似たようなものであり、一部ではないだろうかという意味では皮肉がきいてる。


もっとうまく書けるのではと思ったが言葉が出てこないのでここまでとしておこう。


違いとして、そのネタを短編小説として書いたかどうかがわかる点だろうか。


最後は重みに耐えかねて、その橋ごと崩れ死に至る。


これが時代を重ねて、あらゆる場面や環境で行われてきた自然淘汰の一部のようにも思えた。


今、この文章を書いている私にも重なってみえて、じつにこっけいに思えた。


あーあー人間は、こっけいで愚かでおもしろい。


おわり。

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栄養ドリンク ぶう @buu2018

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