第9話
翌朝、俺がいつも通りギルドに出勤すると、そこには見慣れない光景が広がっていた。
カウンターの隅にある応接スペースの椅子に、あの騎士アランが、まるで石像のように座っていたのだ。
その顔は青白く、目の下には深い隈が刻まれている。
一睡もしていないのだろう。
俺がカウンターの中に入ると、リナが心配そうな顔で小声で話しかけてきた。
「キョウヘイさん、おはようございます……。アラン様、私が出勤した時から、ずっとあそこに座ってらっしゃるんです……」
「そうなのか。放っておけばいい」
「で、でも、なんだか様子が……」
俺は、ちらりとアランの方に視線を送った。
彼は、俺の存在に気づくと、びくりと肩を震わせた。
そして、何か恐ろしいものでも見るかのように、俺から目を逸らした。
昨日までの尊大な態度は、見る影もない。
(どうやら、昨日の出来事で、彼のプライドと常識は完全に破壊されてしまったらしいな)
面倒な相手であることには変わりないが、少しだけ哀れに思えなくもない。
まあ、俺には関係のないことだ。
俺は自分の仕事に取り掛かるべく、山積みになった書類に手を伸ばした。
午前中は、特に何事もなく過ぎていった。
アランは時折、遠巻きに俺の仕事ぶりを観察しているようだったが、決して話しかけてはこない。
彼の中で、俺という存在をどう処理すればいいのか、必死に考えているのだろう。
そんな平穏な午後のことだった。
一組の冒険者パーティが、神妙な顔つきで俺のカウンターにやってきた。
リーダー格の男は、ひどく憔悴している。
「あの……受付の、キョウヘイさん、ですよね? ご相談したいことが……」
またか。
俺は内心でため息をつきながらも、顔には出さずに応じた。
「はい、私ですが。どのようなご用件でしょうか」
「実は、『霧深き館』の調査依頼の件でして……」
男が差し出したのは、数日前にギルドから発行された依頼書だった。
内容は、街外れにある古い屋敷の調査。
最近、その屋敷から夜な夜な不気味な声が聞こえたり、人魂のようなものが見えたりするという、よくある怪奇現象の調査依頼だ。
「この依頼、我々が請け負ったのですが……その、どうにも奇妙なことが多くて」
話によると、彼らは何度か屋敷に侵入を試みたが、その度に原因不明の頭痛や吐き気に襲われ、中に入ることすらできなかったらしい。
扉に鍵はかかっていないのに、まるで透明な壁があるかのように、先に進めないのだという。
「これは、ただの怪奇現象じゃない。何か、強力な呪いか、あるいは……」
リーダーの男が、声を潜めて言った。
「……悪霊の類が、棲みついているに違いありません」
なるほど、幽霊屋敷案件か。
俺は、提出された依頼書に、改めて目を通した。
(ふむ。依頼内容は、あくまで『原因不明の怪奇現象の調査』。悪霊や幽霊の存在については、一切言及されていないな)
これは、事務処理上、看過できない問題だ。
「依頼内容と、実際の状況に、大きな隔たりがあるようですね。これでは、正確な業務遂行は困難でしょう」
俺がそう指摘すると、男は困惑した顔をした。
「え、ええ……ですから、どうすればいいのか、相談に……」
「まずは、この依頼書の内容を、現状に合わせて修正する必要があります。原因が『悪霊の仕業の可能性が高い』のであれば、その旨を明記し、討伐、あるいは除霊を目的とした、新しい依頼として再申請してください」
俺は、あくまで手続き論を述べた。
原因が分からないのに調査を続けるのは、無計画で非効率的だ。
まずは、問題点を明確化し、それに対応した適切な業務計画を立てるのが筋だろう。
「さ、再申請……? しかし、そんなことをしている間に、被害が拡大したら……」
男が狼狽えていると、今まで黙って話を聞いていたアランが、おもむろに立ち上がった。
その顔には、憔悴の色は残っているものの、騎士としての使命感が宿っている。
「悪霊だと? ふん、下らん。そのような非科学的なものが、存在するはずもなかろう」
彼はそう言うと、俺の方をちらりと見た。
その目には、昨日までの恐怖とは違う、何かを試すような色が浮かんでいる。
「だが、民が助けを求めている以上、見過ごすわけにはいかん。よし、この俺が、その『霧深き館』とやらに巣食うものの正体を、暴き出してやろう!」
アランは、騎士団の名誉にかけて、とでも言いたげに胸を張った。
しかし、俺はそんな彼の意気込みを、冷たく一蹴した。
「お待ちください、アラン様。先日のロックイーターの件でも申し上げましたが、あなたの独断での行動は、服務規程違反にあたります」
「ま、またそれか……!」
「ええ、何度でも言いますよ。あなたは現在、ギルドの職員なのですから。もし、この件に協力したいのであれば、まずは正式な手続きを踏んでください。ほら、先日お渡しした、『ギルド外部人材の協力要請に関する申請書』は、もうお書きになりましたか?」
俺が、例の書類のことを持ち出すと、アランはぐっと言葉に詰まった。
彼は、あの書類の複雑さに、まだ手もつけられていないのだろう。
「き、貴様という奴は……!」
アランが歯ぎしりをしていると、依頼者の冒険者が、懇願するように言った。
「と、とにかく、あの家には誰も入れないんです! まるで、誰かが住んでいて、『入るな』と拒んでいるみたいに……! あれは、不法占拠ですよ!」
その言葉に、俺はぴくりと反応した。
不法占拠。その単語は、俺の公務員魂を強く刺激した。
「……なるほど。そういうことでしたか」
俺の目の色が変わったのを、その場にいた誰もが感じ取っただろう。
「建造物に対する、所有者の許可なき居住、及び占有行為。それは、いかなる理由があろうとも、断じて許されるものではありません」
俺の思考は、完全に切り替わった。
相手が幽霊だろうが悪霊だろうが、関係ない。
法は、法なのだ。
「その『霧深き館』の所有者は、現在行方不明。管理は、街の自治体に委託されているはずです。つまり、現在、あの建造物に居住する権利を持つ者は、存在しない。にもかかわらず、何者かがそこに居座り、正当な権利を持つ調査員の立ち入りを妨害している。これは、極めて悪質な不法占拠案件です」
俺は、まるで検事が起訴状を読み上げるかのように、淡々と、しかし力強く断言した。
ギルド内は、水を打ったように静まり返っている。
皆、俺の言っていることの半分も理解できていないだろうが、ただならぬ何かが始まろうとしていることだけは、感じ取っているようだった。
俺は、一枚の白紙を取り出すと、そこにペンを走らせた。
【『霧深き館』に対する、不法占拠者への即時退去命令書】
「本来であれば、警告、勧告、そして最終的に強制執行、という段階を踏むべきですが、今回は緊急性が高い。特例措置として、最終通告とします」
俺は書き上げた書類を、カウンターに叩きつけた。
そして、おもむろにインク壺を取り出し、親指を浸す。
「所有権なき者の、建造物への居住申請など、議論の余地もありません。本件、ギ-"ルド職員キョウヘイの名において、正式に『却下』します」
俺の拇印が、命令書に深々と刻まれた。
その瞬間、ギルドから遠く離れた街外れの屋敷で、一つの変化が起きていた。
屋敷全体を覆っていた、よどんだ空気が、まるで嵐のように渦を巻き始めた。
屋敷の窓という窓が、ガタガタと激しく震え、中からは、女性の悲しげなすすり泣きのような声が、風に乗って響き渡った。
そして、次の瞬間。
屋敷の屋根から、半透明の人影が、まるで煙のようにふわりと抜け出した。
その人影は、名残惜しそうに一度だけ屋敷を振り返ると、やがて空気に溶けるように、静かに消えていったという。
もちろん、ギルドにいる俺たちは、そんなことを知る由もない。
依頼者の冒険者が、半信半疑の顔で俺に尋ねた。
「あ、あの……これで、本当に……?」
「ええ。問題の根源は、排除されたはずです。念のため、もう一度、現場の確認をお願いします。もし、まだ問題が解決していないようであれば、次の段階、つまり『強制執行』の手続きに移行しますので」
俺の自信に満ちた(あくまで事務的な)物言いに、冒険者たちは顔を見合わせた。
そして、リーダーの男が、意を決したように頷いた。
「……わ、わかりました。もう一度、行ってみます!」
彼らは、どこか狐につままれたような顔で、ギルドを後にして行った。
その背中を見送りながら、アランは、もはや立ち尽くすことしかできなかった。
彼の騎士としての常識も、自信も、誇りも、この数日間で、跡形もなく粉砕されてしまったのだから。
彼の中で、「キョウヘイ」という存在は、もはや人間ではなく、この世界の理そのものを書き換える、神か悪魔のような、人知を超えた何かになりつつあった。
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