第6話
エイミーの一件から、数日が過ぎた。
俺の日常は、相変わらず平穏そのものだ。
毎日、山のように持ち込まれる依頼書を処理し、不備のあるものは片っ端から『却下』し、完璧な書類だけを『受理』する。
そして、定時になれば誰よりも早くギルドを後にする。
「キョウヘイさん、最近ギルドの雰囲気がすごく良いですよね」
隣のカウンターで作業をしていたリナが、ふとそんなことを言った。
「そうか? 俺は特に何も感じないが」
「そんなことないですよ! 前は、依頼の失敗で荒れる冒険者さんも多かったですけど、最近は成功報告ばかりで、皆さんすごく楽しそうです!」
確かに、言われてみればそうかもしれない。
ギルド内の酒場も、以前より活気に満ちている気がする。
これも全て、俺が導入した厳格な書類審査のおかげだろう。
不備のある、つまり成功率の低い依頼を未然に弾いているのだから、当然の結果だ。
「業務が円滑に進んでいるのなら、何よりだ。我々職員の負担も減る」
「はい! それもこれも、キョウヘイさんのおかげです!」
リナの尊敬の眼差しが、少しだけくすぐったい。
俺は照れ隠しに、目の前の書類に視線を落とした。
そんな平和な午後を打ち破るように、ギルドの扉が騒がしく開いた。
入ってきたのは、血相を変えた一人の冒険者だった。
「大変だ! 『嘆きの森』にオークの群れが現れたぞ!」
その叫び声に、ギルド内が一瞬で静まり返る。
『嘆きの森』は、このドールンから半日ほどの距離にある森だ。
ゴブリンやコボルトといった、比較的弱いモンスターしか生息していないはずだった。
「オークだと!? 馬鹿な、あんな場所にオークが出るなんて聞いたことがないぞ!」
「数はどのくらいだ!」
ベテランの冒険者たちが、報告に来た男に詰め寄る。
「ざっと見ただけで、二十は超えていた! しかも、リーダー格のオークキングもいやがる!」
「オークキングだと……!? まずい、あれはBランク相当のモンスターだぞ!」
ギルド内は、一気に緊張感に包まれた。
オークの群れ、それもオークキングに率いられているとなれば、Cランクパーティでも苦戦は免れない。
この辺境のギルドで、すぐに対応できる高ランク冒険者は限られている。
エルザさんが二階から駆け下りてきて、険しい表情で指示を飛ばした。
「すぐに緊急討伐依頼を出す! 手が空いているCランク以上のパーティは、至急ギルドに集合してくれ!」
リナや他の職員たちが、慌ただしく動き始める。
緊急依頼の発行準備だ。
しかし、俺は一人だけ、冷静にその状況を分析していた。
(オークの群れによる、森林の不法占拠案件か。しかも、オークキングという首謀者がいる。これは、極めて悪質なケースだな)
俺の思考は、どこまでも事務的だった。
これはギルドの管轄地域内で発生した、重大なルール違反だ。
断固として、迅速に対処しなければならない。
「キョウヘイ! あんたも手伝え!」
エルザさんの檄が飛ぶ。
しかし、俺は首を横に振った。
「いえ、ギルドマスター。この件、私が処理します」
「あんたが? 何を言ってるんだい、これは事務仕事じゃ……」
「いいえ、これも立派な事務仕事です」
俺はエルザさんの言葉を遮り、一枚の紙を取り出した。
それは、ギルド周辺の地図だ。
「オークの群れによる『嘆きの森』の占拠は、ギルドの管理権を著しく侵害する行為です。これは、いわば『不法占拠に対する退去勧告』であり、それに従わない場合は『強制執行』もやむを得ません」
「きょ、強制執行……?」
俺の口から出る物騒な単語に、エルザさんが眉をひそめる。
「はい。まずは、口頭での指導、つまり討伐隊の派遣。それでも解決しない場合は、より強力な措置が必要になります。ですが、今回は緊急性が高い。特例として、手続きを簡略化しましょう」
俺はそう言うと、地図の上に置いた一枚の白紙に、ペンを走らせた。
【『嘆きの森』におけるオークの群れによる不法占拠に対する、即時撤退要求及び、それに伴う一切の権利主張の棄却申請】
長ったらしいが、要は「すぐに出ていけ、文句は言わせん」ということだ。
公的な書類というのは、えてしてこういう持って回った言い方をするものなのだ。
俺は書き上げたその書類を、エルザさんや周りの冒険者たちに見せつけた。
「この要求に、彼らが従う保証は……」
誰かが不安そうな声を漏らす。
「保証など必要ありません。これは要求であり、命令です。行政指導の一環ですよ」
俺はさも当然のように言うと、インク壺に親指を浸した。
そして、書類の決裁欄に、力強くそれを押し付ける。
「本件、ギルド職員キョウヘイの名において、『却下』します」
俺の宣言が、静まり返ったギルドに響き渡る。
オークの群れが行っている不法占拠という「申請」そのものを、俺はギルドの権限において、正式に『却下』したのだ。
その瞬間、ギルドの扉が再び勢いよく開いた。
最初にオークの出現を報告しに来た冒険者が、息を切らして立っている。
彼の顔は、先ほどとは打って変わって、驚愕と混乱に彩られていた。
「ど、どうした! 何かあったのか!」
エルザさんが声を張り上げる。
冒険者の男は、ぜえぜえと肩で息をしながら、信じられないといった様子で叫んだ。
「お、オークたちが……! オークたちが、いきなり……!」
「いきなりどうしたんだ!」
「……消えました……!」
「……は?」
ギルドにいる全員が、耳を疑った。
「今、森の様子を見てきた仲間から連絡があったんだ! 森を埋め尽くしていたオークの群れが、オークキングごと、まるで最初からいなかったみたいに、忽然と姿を消したって……!」
その報告に、誰もが言葉を失った。
Bランクモンスターを含む数十体の群れが、一瞬にして消滅する。
そんな現象、聞いたこともない。
冒険者たちの視線が、一斉に俺に集まった。
彼らの目には、畏怖と、そして何か得体の知れないものを見るような色が浮かんでいる。
「……なるほど。勧告に従い、速やかに退去したようですね。賢明な判断です」
俺は一人、腕を組んで満足げに頷いた。
やはり、正式な手続きを踏んだ行政指導は、絶大な効果を発揮するらしい。
これでまた一つ、ギルドの平和が守られた。
そして何より、緊急討伐依頼の発行という残業案件を、未然に防ぐことができた。
我ながら、完璧な仕事ぶりだった。
「キョウヘイ……あんた、一体……」
エルザさんが、呆然とした表情で俺を見つめている。
俺はそんな彼女に、にこりと微笑みかけた。
「さあ、ギルドマスター。これで問題は解決しました。私はそろそろ、定時なので失礼しても?」
俺の関心は、すでに終業後の晩酌へと向かっていた。
この日を境に、「ドールンの受付職員キョウヘイに睨まれたモンスターは、存在ごと消滅する」という、新たな伝説が生まれたことを、俺はまだ知らない。
平穏な日々が戻ってきた。
オーク騒ぎも落ち着き、ギルドはいつもの日常を取り戻している。
俺はといえば、相変わらず書類の山と格闘し、定時退勤を目指す毎日だ。
「キョウヘイさん、これ、王都からの定期連絡便です」
リナが、分厚い封筒を俺のデスクに置いた。
王都のギルド本部から、各支部へ定期的に送られてくる業務通達だ。
大した内容は書かれていないことがほとんどで、確認作業はいつも退屈だった。
俺は封を開け、中の書類に目を通していく。
ふむ、新しいモンスターの目撃情報、素材相場の変動、特に重要なものはないな。
そう思いながら、最後のページをめくった時、俺の目が一つの項目に留まった。
【人事通達:マキナ王国騎士団より、ギルドへの一時出向について】
書類には、近々、王国の騎士団から一人の騎士が、ギルドの業務を視察するために、このドールン支部へ派遣される、と書かれていた。
(騎士団からの出向……? 面倒なことにならなければいいが)
役所でも、たまに警察や消防から研修と称して人が送られてくることがあったが、大抵は現場の仕事を増やしてくれるだけだった。
俺は、自分の定時退勤が脅かされる可能性に、少しだけ眉をひそめた。
まあ、いい。
どんな相手が来ようと、俺は俺の仕事をマニュアル通りにこなすだけだ。
俺はそう結論づけ、その書類を「確認済み」のファイルに綴じた。
その数日後、その騎士はやってきた。
ギルドの扉が開き、カツン、カツン、と規則正しい足音が響く。
現れたのは、白銀の鎧に身を包んだ、長身の男だった。
腰には見事な装飾が施された剣を佩き、その立ち居振る舞いには、育ちの良さが滲み出ている。
ギルドにいた冒険者たちが、その荘厳な雰囲気に気圧され、道を空けた。
騎士はまっすぐに、俺のいる受付カウンターへと歩みを進めてくる。
そして、俺の目の前でぴたりと足を止めると、値踏みするような鋭い目で、俺を上から下まで眺めた。
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