10話:泥だらけの靴と、少しだけ軽くなった心。


 帰り道は、不思議と早かった。


 緊張も疲れもあったはずなのに、下山の道はどこか軽くて。

 少なくとも、行きよりずっと静かだった。


 そして――登山口の看板が見えた瞬間、思わずため息が漏れた。


「……戻ってこれた」

「おかえりー、わたしたち」

 菜摘が笑う。


 その笑顔はいつものように明るくて、どこか子供っぽくて、でも――今は少しだけ、大人びて見えた。


 私はその横顔を見て、ふと思った。


 ぐちゃぐちゃで、びしょ濡れで、最悪のコンディションで。

 何度も足を滑らせて、怒って、喧嘩もして。


 それでも――なぜか、ほんの少しだけ、楽しかった。


 理由はわからない。

 でも、ひとりだったら決して味わえなかったこの感覚を、私は「誰かと一緒に頑張る」ということなのだと、おぼろげに理解した。



 歩き慣れたはずのアスファルトの感触が、やけに柔らかく感じる。

 登山口から駅へと向かう道の途中、空を見上げると、灰色の雲のすき間から、うっすらと光が漏れていた。


「晴れてきたね」

 菜摘が空を見ながらつぶやく。


「……あと三時間早ければね」

 皮肉まじりに返したはずだったけど、菜摘はそれを冗談として受け取って、また笑った。

 その声を聞きながら、私はふと、「また登ってもいいかも」と思ってしまった自分に気づいた。


 言葉にはしなかった。

 菜摘には、たぶんバレてたけど。



 駅前のロータリーに着いた頃には、雨はほとんど止んでいた。


 びしょ濡れの靴が重たくて、体はぐったりしているのに、どこか、心だけが少しだけ軽くなっていた。


「じゃあね、秋穂。また、月曜日に」

 菜摘が片手をあげて、笑顔で言う。


「……うん。またね」

 私は小さく返して、背を向けた。

 なんでもない一言のはずなのに、なぜか足取りが少し、軽かった。

「また」がある。

 菜摘と会える「また」が、ちゃんとある。


 その事実だけで、泥だらけの靴も、冷え切った体も、全部どうでもよくなるくらい、心が満たされていくのを感じた。


 次の月曜、私たちは――

 まだ正式じゃない、だけど確かに始まった、山岳部の顧問に会いに行くことになる。

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