2章_裏山。泥と、喧嘩と、…少しの、何か。

5話:雨の登山、決行前夜。


 金曜日の夜。


「明日、ほんとに登るのか……」


 カーテンを少しだけめくって、外を見上げる。

 空はまだ星が見えるけど、どこか重たい色をしていた。

 天気予報は、明日の朝から雨。しっかり、確実に。


 どう考えても、わざわざ行くような状況じゃない。


 でも、行くと決めてしまった。


 いや、正確には「決めざるを得なかった」というべきか。

 あの職員室の雰囲気で「無理です」と言える人間なら、私はそもそもここにいない。


「レインコート……レインコート……」

 部屋のタンスを漁る。

 たしか小学校の林間学校で使ったやつがあったはず。


 押し入れの奥を探して、やっとの思いで出てきたのは、黄色のカッパ。

 しかも、サイズが明らかに小さい。


 ……無理。


 母親にバレずに買いに行く時間もない。

 仕方なく、家にあったユニクロのウィンドブレーカーに、防水スプレーをかけまくる。

 耐水性能、ゼロに近いのはわかっている。

 でも、今できる最善ってこういうことなんだろう。


 リビングから戻ると、スマホに通知が来ていた。


【なつみ】

《明日9時に駅前集合でおけ?》

《雨でもテンションあげてこー!》

《レインコート貸そうか?笑》


「……何で笑ってるんだ」

 ぼそっと呟きながら、返信を打つ。


【秋穂】

《了解。レインコートは大丈夫》

《たぶん》


 既読がすぐについたかと思うと、電話が鳴った。


『え、返事それだけ?w』


 開口一番、菜摘の声が明るい。

 というか、テンションがおかしい。

 この子、本当に明日山登る気あるのか。


「……他に何かある?」

『いや、ないけど! 秋穂が無口すぎて逆に笑えてきた』


「うるさいな」

 声をひそめて言ったつもりだったが、受話口の向こうでまた笑い声が聞こえた。


『でもさ、なんかちょっと楽しみになってきたかも』

「何が」

『山登るとか、初めてだし。雨とか、逆に非日常じゃん? 冒険感あるっていうか』


 ……この人、本気で言ってるんだな。


「私は別に、楽しみじゃないけど」

『そっか。……でもさ、もしかしてだけど。秋穂が「別に」って言うときって、ほんとはちょっとだけ楽しみだったりしない?』


「は?」

『明日、よろしくね~』


 一方的に通話が切れた。


 スマホを見つめて、なんとも言えない気持ちになる。

 否定したいのに、どこか図星だったのが癪だった。



 机に向かって、ラップを取り出す。

 コンビニで買ったカロリーメイト、それから小分けにした干し梅、個包装のチーズ。

 見よう見まねで「行動食」というやつを作ってみる。


 それから、新品の赤いリングノートを開いて、今日の持ち物リストを書き出し、最後に「裏山、登頂」と目標を小さく書き加えた。

 まだ真っ白なページが多いそのノートを、そっとリュックのポケットにしまう。

 私の、登山ノート。


 正直、意味があるかはわからない。

 ただ、こうして黙々と準備をしていると、少しだけ気がまぎれる。


 気がまぎれるくせに、その「気」が何なのかは、よくわからない。

 不安?緊張?それとも、期待?



 準備を終えて布団に入る。

 時計は、もう日付が変わりかけていた。


 雨音は、まだ聞こえない。

 でも、明日は降るってわかってる。


 思っていたより、胸がざわざわして眠れない。


「……バカみたい」

 独り言がこぼれる。


 でもそのバカなことを、

 明日、私はやろうとしている。



 この静かな夜が、

 明日、どんな景色に変わるのか。

 わからないまま、私はまぶたを閉じた。



 ――雨の登山、決行前夜。

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