私の登山ノート

Vii

プロローグ


 息が、白い。

 標高2000メートルを超えた夜明け前の空気は、刃物のように肺を刺す。

 隣でシュラフにくるまる彼女の寝息は、聞こえない。

 たぶん、もう何時間も前から起きていたのだろう。私も、一睡もできなかった。


「……時間」

 私が呟くと、彼女は無言でシュラフから這い出し、ヘッドライトのスイッチを入れた。

 狭い山小屋の中を、冷たい光が滑る。

 その光の中に、昨日までそこにあったはずの何かは、もうどこにもなかった。


 荷物をまとめる音だけが、無機質に響く。

 ザックのベルトを締める音。水筒に水を入れる音。ジッパーを閉める音。

 昨日までは、その一つ一つに明日への期待が混じっていたはずなのに。


「……行くよ」

 先に小屋を出た彼女の背中は、夜の闇に溶け込みそうなくらい、小さく見えた。

 私も、ザックを背負う。

 肩に食い込む重さは、昨日と同じはずなのに、まるで鉛の塊を背負っているかのようだった。


 外に出ると、空は白み始めていた。

 でも、星は見えなかった。



 私たちの夏は、この凍てつくような山頂で、終わった。

 いや、終わらせたのだ。

 この手で。

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