羌族の村

 陽が傾きかけている。倒れた馬はまだ息をしている。蠅の羽音と血と糞便の臭いは一層強くなっている。


「おれは帰るよ」

死んだ娘の前でじっと座っている子供に声を掛けた。

「それが主人か」

死んだ娘は着飾っていて、顔は傷ついていない。子供よりもすこし年が上だろう。腹を切られたのか、血だまりの中に臓腑がはみ出ている。

子供は立ち上がったが何を考えているのか表情からは読み取れなかった。

「行くところはあるのか」

子供は答えなかった。

「お前の親はどこだ」

「いません」と子供は答えた。

「郷里はどこだ」と姜維は聞いたが答えは無かった。子供は無表情に立っている。

「ついてこい。飯と寝るところくらいは用意できる」


「主人が」子供は死んだ娘を振り返る。

「ここにいても仕方ないだろう」姜維はいった。「いったん近くの村に帰ってまた来ればいい」

子供はなおも逡巡したが頭を下げ、馬を繋いだ木から牽いてくると馬に乗ってくれといった。


「乗れなくてもおれが牽くから大丈夫です」

「おれは馬なら乗れる。その馬はお前の馬だろう」

「この馬は主人のですし助けてもらったので」

「いいからお前が乗れ」

「はい」と返事をして子供はまた主人であった娘の死体を振り返った。

子供は馬に跨る時、鞍からぶら下がった鉄の輪に足をかけた。姜維はそんな馬具を見るのは初めてだった。

「その輪っかはなんだ」

暫く歩いた先で姜維は子供に訊ねた。子供は何故か顔を赤くした。

「おれはまだ背が足りなくて、一人だと馬に乗りにくいんでこれを使っているんです」

「初めて見た」

「女の人とか子供のためのもんなんです。魏の人が作ったって聞きましたけど。

 

 姜維は初めて人を殺したのでこの日のことは忘れないだろうと思っていた。半分は当たっていた。姜維は六十二歳で死ぬが二十五歳のこの日のことを忘れることは無かった。姜維は沼のほとりで殺した男のことは刺繍の布が擦り切れるように少しずつ忘れていった。しかしこの日拾った子供と初めて見た鐙のことを忘れることは無かった。二つは姜維の人生を変えることになった。その後何十年もこの時のことは思い出した。


 日没前に集落に辿り着くと、姜維は羌族の長に面会を求めたが不在との返事だった。副官の上官雝から、連れてきた子供について矢継ぎ早に問われた後、一人で出歩くべきでないとこれまで幾度も申出ていたことを指摘された。若い羌族出身の兵に子供を任せると、副官から午後から集落が騒がしいこと、男が殆ど出払っていることを告げられた。

「あの子供と関係がありますかな」と、副官は言った。

「だろうな。だが今日はいい。飯を食わせて寝かせてやれ」姜維は副官に言って自らの小屋へ戻った。茵に体を潜り込ませると体が震えた。体に血と糞便の臭いが染みついていた。天井に目をやる。姜維らが来るので羌族が建てた小屋だ。天井の木がまだ新しい。あの子供は寝られるだろうかと考えた。


 羌族の長が一人で姜維に面会を求めてきたのは翌日の昼になってからであった。背の高い老人で姜維に対しては以前からひどく腰が低いが、姜維の知る限り、笑顔を見せることは無かった。副官に一人で会うと言って小屋に招き入れると型どおり、平伏してから話を始めようとした。

「楽にして頂いて結構です」

姜維がそう水を向けると羌族の長はすぐに向き直った。

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沙漠の回廊-姜維 えりぞ @erizomu

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