沙漠の回廊-姜維
えりぞ
羌族の子ども
微かな音がして姜維は眼を覚ました。何か夢を見ていたようで、自分がまだほんの十歳かそこらで故郷の天水を駆け回っているような気がし、今どこにいるのか少しの間わからなかったがすぐに思い出した。
頭を半分だけ葦の茂みから出すと沼地のほとりで牡鹿が一頭、前肢を踏ん張る様に広げ首を下げて水を飲んでいた。
少し湿り気のある土の上に膝をついて、音が鳴らないよう矢筒から矢を引き抜いた。顔を一度草むらのかげに隠し、ゆっくりと矢をつがえる。弓を引き絞っていく。伸ばしきった左腕と、引いている右腕を背中の筋が支える。弓が軋む音と、弓が自分の腕の一部になったような感覚が姜維は好きだった。牡鹿は耳だけを左右に動かし、まだゆったりと水を飲んでいる。
離れた場所で響くような音がした。その音が馬蹄だと気付いたときに牡鹿は飛び跳ねた。矢を放ったが大きく外れた。牡鹿はもはや為す術もなく、空しく弓を構える姜維の目を見てから、もう一度身を翻して沼を越え、緩い斜面を駆け上って去った。姜維はうつむいて唾を吐き、くそ、と言った。
馬蹄は複数で丘の向こうから聞こえ、近づいてきていた。長安から二百里、それほど離れていないこの辺りでもまだ野盗は出る。
長安に駐屯する軍であれば身分を明かすだけで良く、少し迷ったが姜維は草むらに身を隠した。すぐに勢いよく馬が斜面を駆け下りてきた。背には子供を乗せている。子供は全力で馬を駆けさせていた。すぐ後ろから男が乗った馬が追っていた。男は刀を抜き、かざしている。二騎は斜面の一番下、姜維のいる小さな沼へ向かって来ていた。姿勢を低くしたまま矢をつがえる。百歩程まで近づいたとき、姜維は草むらから身を出した。子供の方は何かを叫びながらやはり姜維の方へ向かい、男の方は子供ではなく、姜維の方へ馬を向けた。
十分に引きつけてから矢を放つと、男が馬から転げ落ちた。再度矢をつがえ、落ちた男にもう一度矢を放った後、近づいて痙攣している男の首に剣を刺した。
男を乗せていた馬はそのまま駆けて行き、馬に乗った子供は少し距離を置いて姜維の方を見ていた。馬蹄はもう聞こえなかった。男の顔は土と血で汚れており、瞳に自らの姿が映っていることに気付いた。男の瞳が少しずつ濁って行くのを姜維は見ていた。
男の身なりは野盗というより身なりの良い商人のようで、持っていた剣は落ちていたが、魏の騎兵が持つものだった。野盗とばかり思っていたが、魏の兵ということもありえた。
襲ってきた男に仲間がいるのかが気がかりだった。
「おい、奴だけか」
馬上の子供に向かって尋ねたが返事はなかった。
男と子供が駆け下りてきた殆ど草の生えていない丘を登った。子供は姜維と距離を取ったまま巧みに馬を歩ませ、ついてきていた。
尾根にある人の背ほどある岩の陰に隠れるようにして、丘の向こうへ広がる土地を見渡した。動くものは何も見えず、乾いた大地にところどころ灌木が固まっている。見える範囲に野盗の群れがいないことを確認し大きく息をついた。体中が強張り、小刻みに震えていたことに気付いた。
ついてきた子供はただ姜維を見ていた。震えているようだが、取り乱して、泣いたりはしていない。子供の髪は前頭部から頭頂まで刈り上げられ、後頭部から肩までかかる髪を伸ばしていた。羌族の弁髪だろう。
さっきの奴に仲間はいるのか?
羌族の言葉で訊いた。見たところ怪我は無い。子供の歳は十に届いているだろう。姜維の顔を見たまま黙っている。瞳は茶色く少し色が薄いようにも見え、衣服は羌族のもののようだ。しかし氐族かもしれないし、そもそも羌族の言葉も一様ではない。姜維は故郷の天水一帯に住む羌族の言葉しか話すことができない。
「怪我はないか?」今度は漢の言葉で尋ねた。
子供は黙っているが、姜維が何を聞いたのかは分かっているようだった。
あそこから来ました。
子供が丘の上から見える、灌木の密集する場所を指差し、羌の言葉で言った。灌木のそばに馬が横に倒れ、動きもしていなかった。
あそこに主人がいるんです。子供が姜維に言った。
お前の主人か。其処で襲われたのか。
うん。あそこへいかないと。
襲ってきたのはさっきの奴だけか?
ううん、何人もいた。
そうか。お前たちは何人だった?
主人と、大人が二人。
と、お前で四人か。襲ってきたのはもっと大勢か。
うん。たくさん。
動くものは見えない。さっきはたまたま殺されずにすんだが野盗に囲まれれば姜維も子供も鱠のように切り刻まれるだろう。
子供は騎乗したままゆっくりと丘を下り始めた。姜維はしばらく子供を後ろから見ていたが、やがて立ち上がり、後ろからついて行った。
倒れた馬に近づくとき姜維は刀を抜き、辺りを見廻しながら足を止めた。何も聞こえない。蠅の羽音だけだ。馬の向こうの枯れた黄色い草の上に男が五人転がっている。
四人は商人風、もう一人は羌族の衣。近くに落ちている剣は姜維が殺した男と同じ魏の騎兵の佩剣だった。商人風の男たちの身なりは良かったが、全員鍛えられた体躯で、とても商人とは思えなかった。一人の商人風の男の懐中には五銖銭が束で見つかった。
羌族の衣の男は子供とよく似た弁髪で、子供同様羌族の衣は薄汚れたものだ。子供の言っていることが正しいとすると、裕福な連中がそれほど金を持っていない羌族を襲ったということになる。
姜維は得体の知れないモノの背に触れているかのような気がした。
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