Wish upon a

雲丹倉 ウニ

Wish upon a



 脱色だっしょくしたての金髪が目映まばゆ縁取ふちどる、新鮮しんせん視界しかい

 階段を下りるたびに強まっていく重低音じゅうていおんが、れない耳のピアスをくすぐってくる。

 初めて聞く曲だった。

 なのに、よく聞き馴染なじんだ音がして、息をむ。

 深い海に溶けるような心地良いひびき。

 その奏者そうしゃが誰なのか、俺は一瞬でわかった。


「これ、マコト先輩がサポート入ってる時の曲だ……。幸先さいさき良いぞ」


 自身を鼓舞こぶするように口の中でそうとなえ、重い防音扉ぼうおんとびらを開ける。

 このライブハウスで演奏されてきた歴代の曲が流れる受付を素通りし、スタッフしょうを首にかけて、俺はStaffスタッフ onlyオンリーの奥へと進んでいく。

 そして突き当たったガラスしに、彼を見つけた。

 一人、退屈たいくつそうに目を細めている。

 自然に、自然に、だぞ。

 そう自分に言い聞かせながら、俺は買ったばかりの煙草たばこを握り、初めてSmokingスモーキング roomルームへと足をみ入れた。


「おはよごまざす。はややん、はや、早番はやばん、お疲れ様です」


 んだ。噛みまくった。終わった。

 自身の想定外そうていがい大失態だいしったいに、俺は硬直こうちょくしてしまった。

 目の前の彼も、目を丸くして、口元に手を当てたまま固まっている。

 その表情は、唖然あぜん、だろうか。

 駄目だ。えられない。

 出直そう。忘れられた頃に、また再チャレンジしよう。

 いま強行したら、きっと俺のあだ名は、はややんになってしまうだろうし。

 そう確信し、俺は今入ってきたばかりのとびらに手を掛ける。


「どうぞ、続けて」


 あふれてくる雑念ざつねんを洗い流すようなんだ声が、俺を引き止めた。

 マコト先輩から初めて話しかけてもらったその言葉が、頭の中で反響はんきょうする。

 どうぞ、どうぞ、どうぞ。

 続けて、続けて、続けて。

 ……続けて?

 なんとなく違和感いわかんのある言い回しだった。

 その言葉のニュアンスを、つかみきれない。

 だけど俺の身体はうながされるままに先輩の隣の灰皿へと向かい、喫煙きつえんの用意をし始めた。

 くしゃくしゃとフィルムをはぎ、ボックスのフタを開けて、……銀紙ぎんがみ? を開いて


「へえ、その紙、抜かないんだ?」


 黒く輝く瞳が、俺の手の中をのぞき込む。

 しくじってしまったのだろうか?

 早く弁明べんめいしなくては、と頭をめぐらしたものの、強張こわばった俺ののどじつなさけない声で、

 えっ? えっ? と鳴くばかりだった。

 そんな俺を見て、先輩の暗い瞳が、ゆっくりと細くゆがんでいく。


つうなんだね」


 められた! よくわからないけど、意外にもさまになっていたらしい。

 安堵あんどした俺は、いよいよ煙草を一本引き抜いて、そして……、ライターという存在を忘れていた事に、たった今気が付いた。

 買ってないのだからあるはずがないライターを探して、俺はオロオロとポケットを裏返していく。


「あ、もしかして、ライター無くした感じ? なら、テーブルのかごにあるよ。いつも」

「あ、す。そ、そうでした。かごでしたね。いつも」


 大丈夫だ、落ち着け!

 自分自身に、今一度いまいちど言い聞かせる。

 俺は、すでに通だと認定にんていされているんだから!

 あとは、自然にやればいいだけだ。

 一呼吸ひとこきゅう置いて、俺は、映画のマフィアが葉巻はまきたしなむシーンをお手本に、つまんだ煙草の先端せんたんをライターで燃やしていった。


「おー、君、吸う前にあぶるんだ。湿気しっけとか飛ばす感じ?」

「えっ? え、えー……?」

「そうなんだー。確かに良いかもね。だってその煙草ってさ、ただでさえ……」


 先輩の眼が綺麗きれいえがく。

 その瞳に、ちらちらとライターのが揺れていた。


つよーく吸いながらじゃないと、火が着きにくいもんね?」


 そうなのか!

 俺はすぐさま物知ものしり顔でうなずきながら煙草をくわえ、強く強く火を吸った。


「そうなんですよねンゴブゥッ!」


 初めての紫煙しえんに思いっきりせた瞬間しゅんかん、マコト先輩がたからかに笑い出した。


「ギャハハハ! あぁ、もう無理! なにしてんの君?」


 よく響く声で笑う先輩に、息もえになりながら、俺は必死で言い訳をする。


「ンゥッ! ゴフッ……いや、今日、喉の調子悪いみたいで……、風邪かなぁ?」


 見事なほど文字通りに、苦しい言い訳だ、とわれながら思った。


「ふーん、そっかそっかー。じゃあさっ」


 マコト先輩がいきなりを寄せてくる。

 それに思わずひるんでしまった俺は、煙草も、煙草の箱までも取り上げられてしまった。


「いい機会だし、一緒に禁煙きんえんしようぜ!」

「ええっ⁉ 俺まだ一本しか吸ったことないのに⁉」


 しまった。


「ギャハァッ、ボロ出るのはえーな!」


 笑い涙にれた艶々つやつやの瞳。

 そこにうつった俺の顔は、すでに羞恥しゅうちの熱で溶けくずれていた。

 もう、取りつくろうことは不可能だろう。

 今日のためにずっと、ずっと準備してきたのに。台無だいなしだ。

 こんなにも一日をやり直したいと強く願ったのは、人生初めてだった。


「ねえ、この一本もらってもいい? 俺、ちょうど切らしちゃっててさ」

「え、いや、新しいのをっ、だってそれ」


 言い終わる前に、優しい呼吸こきゅうの音がした。

 もったいないじゃん。

 そう言って俺の煙草を吸い、やわらかに煙を吹いて、笑っている。

 そんな先輩の視線が、俺の全身をゆっくりとでていく。

 その瞳に、見入ってしまう。

 深い黒色なのに、キラキラした、夜空みたいな瞳の輝き……は、さすがに詩的過してきすぎか。

 先輩の瞳の輝きは、ステージの暗転中あんてんちゅうに俺達スタッフが見る、蓄光ちっこうテープの明かりに似ている。

 思ってすぐ、あまりにも安っぽいたとえに、申し訳なくなった。

 俺が言葉を知らないだけで、本当はもっと良い例えがあるのだろうけれど、でも、俺は蓄光テープの明かりが大好きだ。

 暗闇くらやみの中のあわくて柔らかい光。

 だけど、確かにみちびいてくれる、安心の明かり。

 そんな光がともる目を、先輩はそっと細めた。

 そして、もう一口煙草を吸うと、空気にほどけていくような声とともに、煙をいた。


「金髪マッシュに、左耳に黒い星の三連さんれんピアス。黒いトップスに、煙草の銘柄めいがらも、か」


 ああ、やっぱり、気付かれていた。

 その単語一つ一つに、心拍数しんぱくすうが上昇していく。

 そして、マコト先輩が首をかしげたと同時に、俺に審判しんぱんつちりかかった。


「どうして君は、四年前の俺のコスプレなんてしてんの?」


 柔らかな笑みに、優しい声だった。

 怪訝けげんさなんて微塵みじんも感じられない、おだやかさだ。

 それなのにどうしてか、事前じぜんに用意してきた数々の言い訳が、口から出てこなかった。

 仕方なく、俺は、誠実せいじつに本心を白状はくじょうした。


「正直に申し上げますと、あこがれです。大変申し訳ありませんでした」


 きゅう素直すなおかよ!

 そう言って先輩は、ぎゃはぎゃは、と笑った。

 笑いのツボにハマった小学生男子のように無邪気に、ぎゃはぎゃは、と。


「ひー、ごめん。ずっとアセアセしてたくせに、急に証券しょうけんマンみたいな実直じっちょくな顔してくるから、なんかウケた。あー、ただね、残念なことにー」


 君のコスプレは間違いが二点あるんだなー。

 そう言ってマコト先輩は、自分の煙草の空き箱を取り出し、テーブルの上に置いた。


「俺の煙草は箱がい緑のオーガニックミント。君のは黄緑きみどりのメンソールウルトラライトなんだよね」


 二つの煙草が並ぶ。

 淡い色合いの俺の煙草が、なんだか先輩の2Pカラーみたいで、ちょっとうれしくなった。


「もう一点の違いはね、俺、パーカーは着ないんだよね。惜しかったねー!」


 先輩の手がフードをかぶせてきて、わしゃわしゃと頭をでてきた。

 俺は、うめく。

 羞恥と嬉しさと、逃げ出したさを噛み殺しながら、呻くことしかできなかった。


「とりあえずさ、今日終わったら飲みいこ。えーと、ソウタ!」


 喫煙所のガラスに貼られたシフト表を見て、マコト先輩は初めて俺の名前を呼んでくれた。

 そのガラスに、反射はんしゃした先輩と俺が映っている。

 先輩と、金髪マッシュにしただけの俺が。

 過去の先輩の、偽物にせものにすらなれていない。

 2Pカラーなんて、おこがましい。

 憧れとの間には、やっぱり、遠い遠い距離きょりがあったんだと一目でわかる。

 それが本当に、心底しんそこ嬉しかった。



―★ ★ ★――★



 積年せきねんの憧れと、まだ飲み慣れていない酒があいまって、俺の歯車は急速に空回っていた。

 もうすでに、かなりの醜態しゅうたいさらしているはずなのに、どうしても止まれない。


「先輩の演奏は最高です! 空気が変わるんです。一気に、先輩独自どくじの世界に引き込まれて、その、俺、まじめに世界一だと思ってます!」

「せ、世界一? れるぜ」

「あと、秀逸しゅういつな音作りが世界観を構築こうちくしてて、あと、強弱きょうじゃくの弱の響きがそれを広げてて、あと」


 あと、あと、あとは。ああ、俺は、あと何を伝えられていないだろう。

 どう言えば、胸の中の思いを伝えられるのだろう。

 えた酒を喉に流すたびに、熱い思いはどんどんとあふれてくる。

 ……のだけど、頭までのぼせてしまって、言葉がガチャガチャになってしまうんだ。


「先輩のいたバンドが解散したとき本気で泣いたし、それから四年間、先輩はサポートでしか演奏されてませんけど、サポートなのにその曲の世界観が、マコト先輩のになっちゃうから、本当に凄くて……、ワールドオブマコト現象って、俺は呼んでるんですけど」

「ワ、ワールドオブマコト⁉」


 酎ハイをかたむけていた先輩がむせて笑った。

 でも、先輩の凄さは、笑い事ではないのだ。


「ワールドオブマコト! 先輩の強烈きょうれつな……じゃなくて最強な世界! 先輩最強です!」

「ギャハハハ! 最強イエー!」

「……! イエー!」


 先輩にハイタッチしてもらえた。

 その喜びのままに俺は、煙草に火を着ける。


「ンゴブゥッ!」

「ギャハハハ、もぉ、ソウタ煙草やめろって! あってないんだよ、身体に!」


 煙を吸ったからか、アルコールの回った頭が、余計に回ってくる。

 クラクラ、チカチカと。


「ゴホッ! すみません……、もしかしたら吸い慣れたかと思ったんですけど……」

「二本目で⁉ そんなわけないじゃん! ギャハハ」


 涙でにじんだ揺れる視界。その中心で、いつの間にか、先輩は煙草をくゆらせていた。

 いかにも自然に、当たり前のように、毒を吸っていた。

 うるんだ世界で、煙までまとった先輩は優美ゆうびで、はかなくて退廃的たいはいてきだった。

 酒の酔いも相まって、なんだか本当に、別世界の人のよう。


「凄い。チェーンの居酒屋いざかやとは思えない世界が見える……。先輩、本当、最強」

「なんだそれ。まあいいや。安い居酒屋は最強! 最強イエー!」


 差し出されたマコト先輩の白い手のひらと、再度さいどハイタッチを交わす。

 これが、どんなに嬉しいことか、酔った頭でも伝えられるだろうか。


「俺、ずっと前から、マコト先輩のライブかよってたんです! それに、先輩の演奏をいつも参考さんこうに練習してます。もちろん音作りも、あの深い海のらぎみたいな響き、俺、大好きで……、そういえば、先輩、どうして最近は演奏してくれないんですか?」


 賛美さんびの合間に、純粋じゅんすい疑問ぎもんはさまってしまった。

 先輩が、ジョッキから口を放す。


「え、んー、なんでかなー。……あ、最強になっちゃったから?」


 なるほど。さすがだ。

 先輩はきっと、新たな領域りょういきいたってしまったんだ。


「すげー……ッ!  マコト先輩、最強!」

「最強イエー!」


 繰り返されるハイタッチで、マコト先輩の手のひらは赤みをびてきていた。


「んゥー、地味に痛ぇー。ソウタって、意外と力強いよね」


 そう言って手をさすりながら、先輩は潤んだ目を細めた。

 黒い瞳の上で、蓄光テープのような、ほのかな輝きが揺れている。

 俺の大好きな、ずっと見てきた光。


「俺……、先輩がステージからせてくれた世界を、ずっとってるんすよね」

「えー? さっきから持ち上げすぎだろー。いつ落とされるのか、こえーわ」

「いや、本当にですよ。俺がかれたのは、本当に先輩だからこその、世界で……」


 ステージ上の先輩は、なんというか、ひとりなんだ。

 仲間とバンドを組んでいた頃も、ずっと独りだった。

 うつむいて、いつも足元に視線を落としていて、でも、確かに何かを見つめている。

 し目がちな黒い瞳で、何か明るいものを、ずっと見つめているんだ。

 そして、その光を吸収した瞳が、暗闇の中でともる。

 その灯火ともしびはアンプを通じ、空気をふるわす波となって、俺達の心をみ込んでくれる。

 この世から隔絶かくぜつされた世界へとさらって、引き込んで、教えてくれるんだ。

 同じものを見ている人がいる。

 少数しょうすうでも、同じすくいを求めている人がいる。

 暗闇のどこかに、俺達でも生きていける世界がきっとあると、示してくれるんだ。


「俺は、先輩みたいに、自分の世界を持ちたいんです。その世界に惹き込んで、求めあえる人たちとだけ、生きていけるような世界に、俺は……、えっと」


 なんて言えば、伝えられるだろう。

 先輩は、俺の世界です。

 あなたの世界でだけ、俺はただ静かにただよっていられるんです。

 先輩のライブを聞いた夜だけは、俺、死んだみたいに自由に生きれるんです。

 酒にひたった頭は、洋楽の下手な翻訳ほんやく歌詞みたいな文章ばかりを羅列られつする。

 だけど、言っても伝わらないだろうけれど、なんか、的をているような気もした。

 さすがに、言えないけど……。


「俺も、先輩みたいな、世界を持ちたいんです」

「うわー、なんだ、お前、やめろー! ……まぶしいやつだなー!」


 マコト先輩が、両手のひらで顔をおおう。


「ちょっとやめてくださいよ。茶化ちゃかされると、なんかずかしくなるじゃないですか」

「いや、普通に恥ずかしがれよ! わぁー、もぉー……。わぁーだよ、お前。顔あっつ」


 そう言って、手のひらで顔をあおぎながら、先輩はいたずらっぽく笑った。


「お前、俺の世界から追放ついほう!」


 えぇぇぇっ! ひどい!


「えぇぇぇっ! ひどい!」


 俺は衝撃しょうげきのあまり、心のままにさけんでいた。


「先輩の世界の中でだけ、俺は、俺の思う俺でれるんでぐ⁉」


 心のままになげく俺の口を、先輩が手のひらでふさいだ。

 うるさーい、声でかーい。そう笑って、ちゅうハイをぐいぐいと飲みながら。


「お前みたいなやついたら、俺の世界のほうが崩壊ほうかいするわ」


 口元に当てたジョッキの中で、先輩の声がこもって響いた。


「そんなわけないじゃないっすか! だって、先輩は、最強、でしょ!」


 ハイタッチに備えて、右手を振りあげる。

 だけど先輩は、ジョッキを置かなかった。


「あんまり俺のことばっか見てちゃダメだぞ。ソウタは、ソウタだぞ」

「? ……大丈夫っす!」


 大丈夫。俺は瞬間的にそう確信したのだ。


「いやわかってないだろ、お前ー!」


 まじめに! と先輩が顔をしかめる。俺は、大丈夫じゃなかったのかもしれない。


「人はさ、見てるほうへと進んじゃうもんなんだよ。だから」

「あ、なら、やっぱ大丈夫っす」


 ああ、よかった。俺の確信は間違っていなかった。


「俺、先輩のこと見てます。俺、先輩のいるほうに行きたいから!」


 そう言うと、やっと先輩はジョッキを手放してくれた。


「うわぁ! こいつ! うわー! まじで恥ずかしいやつゥー! このっ!」


 先輩が、大きく右手を振り上げる。

 俺も喜んで、振り上げたままだった手を、先輩の手と打ち鳴らした。


「最強イエー!」

「痛……。え、いった……。お前、つえーんだよ、さっきから、ソウタぁー!」


 涙をにじませながら手のひらをさする先輩に、すみません、嬉しすぎて、とあやまる。

 ったく、まぶしいやつだぁ。

 そうつぶやいた先輩の潤んだ瞳が、その光が、いつもより一際ひときわ明るく見えて、なんか、めちゃくちゃ嬉しかった。

 大丈夫だと、俺はもう一度確信する。

 俺が見ているのは、先輩だから。

 先輩は、暗闇の中で導いてくれる、淡い光だから。

 それは、安心の明かりに似ているのだから。

 俺の大好きな、蓄光テープの明かりに。



―★ ★ ★――★



 デザートの柚子ゆずシャーベットを食べて手洗いから戻ると、会計が済まされていた。

 すげー……。先輩かっこいいー……。

 俺は上機嫌じょうきげんのまま、すれ違う店員さん皆にお礼を言いながら、出口へと向かう。

 ごちそうさまでした。美味おいしかったです。ごちそうさまでした。楽しかったです。


「お行儀ぎょうぎ良すぎかよっ!」


 自動ドアの外で待ってくれていた先輩が、笑っていた。


「へへ、先輩、ごちそうさまでした。俺、まじで楽しかったです。本気で人生一じんせいいちです」


 酔いと、こそばゆい気恥きはずかしさで火照ほてった俺のほほを、風がでた。

 都会の夜の空気を鼻から思いっきり吸い込み、頭をましたつもりになって、考える。

 もう少しだけ先輩といたいな。

 カラオケとかいけないかな。先輩の歌、聴いてみたい。

 どんな声で、どんな想いを歌うのか、聴いてみたい。

 たぶん、柔らかな響きの、よくとおる声で歌うんだろうな。


「いやー、ソウタさ。今日、ありがとな」


 想像してた音色に近い声で、先輩が言った。

 だけど、お礼を言うのはこっちだ。

 言っても言い切れないくらいなのに。


「そんなっ、こっちの台詞せりふです! 本当ごちそうさまで、いや、それだけじゃなくて」

「いや、まじで結構、こっちのほうがありがとうなんだわ」


 先輩は気持ちよさそうに夜風よかぜを吸い込んで、ゆっくりと息を吹いた。


「ソウタのおかげでさ、俺、やっと動けそう」


 先輩が笑って俺を見る。

 その目は、やっぱり、いつもよりも強く光って見えた。

 胸が高鳴たかなっていく。マコト先輩が動くということは、活動再開にほかならないだろう。

 やったー! 俺が涙ぐんでそう叫ぶよりも先に、先輩が口を開いた。


「ソウタの目ってさ、なんか、ずっと見ちゃうよな」


 突然のお世辞せじ動揺どうようしながらも、俺は本気で照れて、目を両手でおおって茶化した。


「ちょっと先輩、いきなりなんですか。やめてくださいよー!」


 それでも先輩は、柔らかに目を細めながら、俺を見ていた。


「波打つ水面みなもみたいなんだよ、ソウタの眼って」


 キラキラしてて、まぶしいのに、ずっと見ちゃう感じがさ。

 先輩はそう続けると、暗い空に向けて、紫煙を吹くようにゆっくりと息を吐いた。


「ソウタの目を見てて気づけたんだ。俺、だいぶしずんじゃってたんだなーって」


 怖気おじけづいて、止まって、楽に沈んでたんだ。

 沈んだぶん、上がるのは大変なのに、ただただ沈んでた。


「遠いなー。もう戻れないなー。そう思って、初めて気付けたよ」


 先輩の黒い瞳は、いたって穏やかだった。

 だけどその瞳の上では、光が、戸惑とまどうように揺れていた。

 その光は、反射した俺だった。

 悪い予感が、喉を塞いで、言葉が出てこない。

 騒がしいはずの街が、音を失ったように静かに感じる。

 俺は、長い一瞬を、ただ見守ることしかできなかった。


「ああ、ごめんごめん。これはさ、いい話なんだよ、ソウタ」


 なんか、変な言い方しちゃったな。そう笑う先輩に、俺は心底安堵あんどした。


「もぉーっ! いきなりのワールドオブマコトやめてくださいよ! 急に世界観せかいかん変わって、俺、ちょう不安ふあんでしたよ!」

「あはは。ごめんって。なんか、ちゃんと聞いてほしかったんだよ。その……」


 あの、実はさ、俺……。口をまごまごとした後に、先輩は少し目を伏せた。


「喫煙所にソウタが踏み込んできた時、ちょっと泣いたんだよね」


 ちょっとだぞ、ちょっとだけ。

 上目遣うわめづかいで俺をにらみながら、先輩は言う。


「四年前の俺に憧れてくれてる子がいて。そんな子が勇気を出して動き出した姿を見て。停滞ていたいしたままくさってしまった自分に気付いて。嬉しさとむなしさで、ちょっと泣いた」


 先輩は停滞なんかしてないです。腐ってなんかないですよ。

 心の底から、そう言いたい。

 だけど、本心なのに、口に出せば軽薄けいはくな言葉としてしまいそうで、言えなかった。


「でもさ。ソウタと一緒にいたら、気持ちがどんどんと動いて、決断していけたんだ」


 穏やかな声で、前向きな言葉で、マコト先輩は言う。

 もう以前には絶対に戻れないんだって、しっかりと分かった。

 それに、俺を見てる子がいるのなら、沈み続けてもいられないなって、心も決まった。

 そして、ソウタを見習って俺も踏み出さないとって、思い切れたんだよ。


「行きたいと思える世界が、俺にもあるんだから」


 先輩は、くしゃりと笑った。俺もどこか安心して、つられて笑う。

 そして、聞き流しかけた先輩の再出発の目的地に、俺は細めた目を見開いた。


「世界……? 世界って、え、まさか……、海外行っちゃうんですか⁉」


 先輩は、いたずらっぽく笑う。


「あはは、良いかんしてんじゃーん。ふふ、……そうだぜ!」


 俺は、心のままに歓喜かんきした。

 やっぱすげぇー! いきなりの一歩の規模きぼが凄すぎですよー! それに、マコト先輩の世界観が、全世界規模になっちゃうってことは……!


「ワールドオブマコトオブマコトオブワールドになるんですね!」

「え、なんて?」

「ワールドオブマコトオブマコトオブワールドになるんですね!」

「よく噛まずに言えるな?」


 見合みあってから、二人で笑い合う。

 本当に嬉しくて、楽しい。

 だから、やっぱりさびしかった。

 あと、どれくらい、先輩は俺と一緒にいてくれるんだろう。


「先輩、いつ行っちゃうんですか?」

「んー、明日にはとうかな!」

「え⁉ 先輩、明日のシフト入ってませんでしたっけ?」

「そこは、ソウタがいるから大丈夫でしょ? 頼むぜ!」


 えー、急に奔放ほんぽう! 唐突とうとつなアーティストムーブやめてくださいよー!

 そうふざけながらも、俺の中で寂しさは色濃いろこくなっていく。

 本当に、この人間社会から逸脱いつだつできてしまうような力強さを、先輩に感じたから。

 ああ、この人は行ってしまうんだ、とわかってしまった。


「ああー、でも俺、やっぱ寂しいですよー。先輩とやっと話せたばかりだから……」


 水を差してしまうけど、でも言わずにはいられないくらい、思いは強まっていた。


「先輩、日本にはいつ頃に戻ってきてくれるんですか?」

「んー。……あ、お盆とか帰れるのかも?」

「えっ、海外って、お盆無くないですか? え、あるんですか?」


 んー、どうだろねー。先輩は、そう困ったように笑った。


「まあ、いつかは、ソウタのほうが来てくれると思うけど」


 ええ⁉ 俺、海外出る予定ないですよ⁉ 英語も話せないし、演奏もまだ全然……!

 急に大変な目標ができてあわてる俺に、先輩が微笑ほほえんだ。


「ゆっくりでいいよ、ソウタ。できるだけ時間を掛けて、ゆっくり来なよ」


 そう言って、先輩は、右手を軽くにぎって、中指のあたりをひたいにかざした。

 それは、ライブ中に、ステージの上で時折ときおり見せてくれる仕草しぐさだった。

 そして、少し目をせた時、またたくようにそれは光った。


「ソウタ。その俺のコスプレなんだけど、もう一点、足りない物があるんだよね」


 そう言って、先輩はその白く細い指から、黒い星の指輪をはずした。


「この指輪。これだけは俺、ステージでかしたことなかったんだ」


 知っていた。

 俺が指輪をつけなかったのは、意図いとしてのことだったから。

 指輪を額に当てて、その星に祈りを込めるような、先輩の神秘しんぴ的な仕草が好きだった。

 それは俺の中では、もはや神聖しんせいいきで、おこがましくて、そこだけは真似できなかったんだ。


「指輪は、わかっててつけれなかったんです。その指輪の星に祈るような先輩の姿を、俺、すごく大切に感じてて、なんというか、先輩だけのものであって欲しかったから」


 そっか。なんか、照れるぜ。先輩は、そう笑う。


「なら、よかったよ。ソウタ、これ、もらってあげて」


 ええ⁉ 俺、先輩だけのものであってほしいって言いましたよね⁉

 そう言おうとしたのに、声が出なかった。

 先輩の細い指が、急に俺の指に触れたから。


「……あれ? ソウタ、意外と指しっかりしてるね……。入らない……。あれ……」


 先輩が俺の中指にはめようとした指輪は、他の指をうろうろとした後に、薬指くすりゆびへとおさまってしまった。


「あー、薬指か……。まぁ、右手だし、いっか。ね?」


 俺の手に触れたまま小首こくびをかしげる先輩に、俺は赤面をえながらも、ただただうなずいてしまう。


恐縮きょうしゅくです……っ! だけど、先輩、これは」


 これはいただけません。俺は、先輩のあの姿が、好きなんです。

 これからも俺は、あの先輩の仕草を見ていたいんです。

 今度はちゃんと声に出して言えた。

 なのに先輩は、まるで聞こえていないかのように、ただ静かに微笑んでいた。

 そして、俺の薬指を、星の指輪を額にかざして、先輩は目を伏せる。


「ソウタはソウタのまま、生きろよ」


 俺は、何も答えられなかった。

 ソウタ、返事は? 先輩がそう言うものの、声が出せない。

 なんだか世界が、やけにはかなげで、綺麗だったから。

 それにまれておぼれてしまい、声を出したら、涙までこぼしてしまいそうだった。

 マコト先輩が、穏やかな声で続けていく。


「お前は、落としたもんばっかり見て、沈んでくなよって言ってんの」


 俺は、話せないぶん、頷いた。

 先輩も、小さく頷いて、答えてくれた。


「無くしたもんばかり見てると、お前も無くなっちゃうんだからな」


 俺、それだけは、嫌だからな。

 そう言って先輩は、伏し目がちな黒い瞳のまま、俺を見た。

 その瞳に、光はない。

 俺の好きな安心の明かりは、俺の手の影に呑まれていた。


「ソウタ、返事は?」


 先輩が、穏やかな笑みのまま、こたえを求める。

 一瞬たりとも、迷いはしなかった。

 俺はすでに、導きの灯火ともしびを、先輩からもらっていたから。


『人はさ、見てるほうへと進んじゃうもんなんだよ』


 真剣に俺を思ってくれた先輩の言葉が、胸の奥でほのかに光っている。

 暗闇の中で、淡く、だけど確かに、俺に答えを示してくれていた。


「大丈夫す。俺、先輩のこと見てますから! どこに行っても!」


 声が震えないよう、強く言い切った。


「……ソウタ。……本当にわかってないなー、お前ー!」


 あきれたように、先輩の指が俺の手から放れていく。

 でも、俺の答えは、間違っていないと確信している。

 先輩の瞳が今、つややかに光っているのだから。


「まあ、もうそれでもいいや。……じゃあ、見とけよ! ソウタ、俺は上にいくぞー!」


 先輩が夜空を指さして、気持ちよさそうに声を張った。


「はい! てか、俺の中ではすでに先輩が頂点です! 先輩は、最強ですから!」

「いいねー。じゃあ、ソウタ、二次会にじかいしちゃうかー?」

「え、やったぁ! はい!」


 ねがったりかなったりの二次会に、俺は両手をげて喜んだ。


「ソウタって家どこなの? そっち方面ほうめんにしてあげるよ。タクシーおごってやるから!」

「え、いいんですか⁉」

「うん、特別な!」


 自宅の最寄もより駅を伝えると、先輩はすぐにまっていたタクシーを見つけてくれた。

 俺は後部座席こうぶざせきへ乗り込んで、シートベルトをめつつ、どこか夢心地ゆめごこちで先輩に提案ていあんする。

 先輩、あの、カラオケとかどうですか? 俺、先輩の歌聞いてみたくて……。

 だけど、先輩は隣にはいなくて、助手席じょしゅせきの扉を開けて、運転手さんとやり取りをしていた。

 助手席に座って、道案内みちあんないとかしてくれるのかな。

 なんとなくそう思っていると、先輩はお金だけを渡して、扉を閉めてしまった。


「え、え、先輩?」


 慌てて、窓をろし、外に立っている先輩に問い掛ける。


「え? 先輩、行かないんですか? 二次会」


 先輩は、静かに微笑んで、俺を見ていた。


「ソウタ」


 そう俺を呼んで、少しだけかがむ。

 その瞳は、俺の瞳を見ていた。

 先輩のつややかな黒い瞳の上で、たくさんの光が揺れている。

 都会の照明、車のライト。反射してる俺。

 気づくと俺は、俺の知らない情景じょうけいみ込まれていた。


 色々なものが合わさって揺れていて、さざ波のように光って見えた。

 キラキラしてて、まぶしくて、ずっと見ていたくなるようなきらめきだった。

 そんな明かりに照らされて、自分は暗くて深いところにいるのだと気付いてしまった。

 まぶしく揺らめく水面との距離が、明確めいかくに見えてしまったんだ。

 手を伸ばすことすらも、滑稽こっけいに感じてしまうほどの距離。

 届かない。あまりにも遠い。あそこには、二度と戻れない。

 そうわかってしまったら、あとは、もう


「沈むなよ、ソウタ」


 先輩の声に、我に返る。

 先輩が優しく目を細めて、もう星のない中指を、額に当てた。


「俺、それだけは嫌だからな」


 返事は? そう言う先輩の声にかぶせるようにして、俺は答える。


「大丈夫です。俺は、先輩のことを見てますから」


 そっかそっか。と先輩は笑う。

 そして、夜空を指さした。


「俺は、上にいるからな」


 おやすみ、ソウタ。

 その言葉を合図に、タクシーが動き出した。先輩と、離れていってしまう。

 俺の好きな先輩の世界が遠のいて、猥雑わいざつな都会のざわめきが耳の奥に満ちていく。

 人混ひとごみと車両のれがす、無情むじょううずが、俺達を呑み込んでいく。

 だから俺は、薬指の星を額に押し当てて、まぶたに浮かぶ安心の明かりに向かって叫んだ。


「マコト先輩ッ、最強イエー!」


 先輩みたいな神聖さの欠片かけらもない、不格好ぶかっこうな祈り。

 それもすぐに、喧騒けんそうへとまぎれてしまう。

 だけど、俺は、届いたと感じていた。

 夜の街にたからかと響く、小学生男子みたいな笑い声が聞こえた気がしたから。



―     ――★



 あの二日後に、俺は、マコト先輩の旅立ちと、その行き先を知った。

 そして同時に、怒涛どとう連勤地獄れんきんじごくまくを開けたのだった。

 そんな思い出も、もう四年も前のことになる。

 今や、俺の定位置ていいちと言っても過言かごんではないSmoking roomで、今日もゆるりと紫煙をかしながら、瞼を閉じる。

 あれからマコト先輩は、ずいぶんと遠いところへ行ってしまった。

 もう、このライブハウスで演奏するようなことは絶対にない。

 そう断言してもいいくらい、遠くて高いところへ。

 いけないと思いつつも、俺はまた感傷かんしょうひたってしまう。

 憧れの人との、一夜かぎりの思い出の中へ。

 年月がち、現実との境界が曖昧あいまいになりつつある、夢のような夜にまどろんでしまう。


「おは、おはざます」


 ふいに扉が開いて、急に意識が引き戻される。

 今日はステージがないから早番は俺だけのはずだった。他のスタッフが出勤するにも、まだかなり早い時間で、だから、完全に気を抜いてしまっていた。


「はややん、お疲れしゃまです」


 俺は、目をうたがった。

 金髪マッシュに、左耳に黒い星の三連ピアス、黒いトップス。

 マコト先輩。

 そうつぶやく声を、直前でとどめる。

 歩く彼の首もとにはフードが揺れており、着ていた物はパーカーだった。

 それは、八年前のマコト先輩ではなくて、マコト先輩に憧れていた四年前の自分の格好だった。

 彼は、目を見開いて固まる俺に戸惑ったのか、一緒に固まってしまっていた。


「ああ、どうぞ、続けて……」


 思わずうながした言葉に、俺の涙腺るいせんはふいにゆるんだ。

 あの日の記憶が、鮮明せんめいに色づいて、ふやけていた輪郭りんかくが明確になっていく。

 マコト先輩の声が、表情が、はっきりとよみがえってくる。


『実はさ、俺、喫煙所にソウタが踏み込んできた時、ちょっと泣いたんだよね』


 ちょっとだぞ、ちょっとだけ。

 記憶の中の先輩に、俺は答える。

 そうですね。これは、泣きますよね。

 震える口元をおさえ、にじんでいく世界の彼を見守る。

 彼は、マコト先輩とも、俺とも違う、青緑の箱の煙草を取り出した。

 そして、ライターを忘れたらしい彼に、俺は火をやった。


「……グエッホッ!」

「ギャハハハ!」


 大げさに笑いながら、俺はこぼれる涙をぬぐう。


「もお、何してんのさ、君ー!」


 俺は困ったような振りをして、天をあおぎ、薬指の星を額に当てた。


『人はさ、見てるほうへと進んじゃうもんなんだよ』


 そうか。この子は、俺を見ているのか。

 それなら俺も、導きの灯火を継承けいしょうする時が来たのかもしれない。

 マコト先輩のように、暗闇の中でほのかに光って、確かに導いてくれる明かりを。


『あんまり俺のことばっか見てちゃ、ダメだぞ。ソウタは、ソウタだろ』


 大丈夫です。だからこそ、俺は、ずっと先輩のことを見ています。

 俺は、俺の光を見て、暗闇の中で光りますから。

 同じものを見ている人がいる。

 少数でも、同じ救いを求めている人がいる。

 暗闇のどこかに、生きていける世界がきっとある。

 そんな光を、俺はたっぷりとたくわえてきた。

 だから俺は、遠くでまたたく星ではなく、近くで淡く光る蓄光テープにきっとなれます。


「よし、一緒に禁煙しよっか!」


 彼から煙草をうばって、扉を開ける。

 そこには、海に溶けていくような心地良い旋律せんりつが響いていた。

 ライブハウスには、あの日と同じ曲が流れていた。



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