第27章 太陽にいちばん近いステージ
「喜べ。イベントの出演依頼が来たぞ」
朝会の最初の一言で、空気が弾けた。
「マジで!?」
優子が椅子から乗り出す。声のボリュームは、もはや会議室に似つかわしくなかった。
「そろそろ名前も行き届き始めたか」
芽亜が腕を組んで、少し鼻を鳴らす。表情はクールでも、口元の緩みは隠せていない。
「夏前には一つぐらいやっておきたかったんだよね」
恋が机を指で軽く叩く。リズムに乗せたその一言には、待ち望んだ舞台を噛みしめるような熱があった。
「……また、前みたいにやばいところなんじゃ」
ぽつりと漏れた結の声が、一瞬だけ空気を冷やす。皆の視線が自然と社長へと集まった。
社長はその緊張を愉しむかのように、ゆっくりと手を打つ。
薄く笑みを浮かべ、言葉を区切った。
「――大丈夫だ。今回はちゃんと“ステージ”に立てる」
その断言に、張り詰めた空気がほぐれ、同時に新しい期待が走る。
「それならいいけど……場所は?」
「薪ヶ丘自然公園だ」
その名を聞いた瞬間、ざわめきが広がる。隣町を象徴するほどの巨大な緑のランドマーク。その響きだけで、胸の奥がざわりと震えた。
地図がモニターに映る。隣町の、駅名にまでなっている巨大な緑の塊。ピンが刺さったのは、敷地の最奥――キャンプ場エリア付近。
コピーがちょっと気恥ずかしくて、笑いが起きる。
「すご……そんな広いところでできるなんて!」
優子が目を輝かせる。椅子から少し浮き上がるほどの勢いだった。
「でもさ……あの公園って、イベントスペースどんな感じだっけ?」
芽亜は慎重に問いかける。視線は窓の外に泳ぎ、頭の中で地図を組み立てているようだった。
「BBQは家族で行ったことあるけど、奥のエリアは知らないや」
恋が指を顎に当てて思い出す。夏の日差しと煙の匂いまでよみがえるような声だった。
「野球場もあるみたいね。……地域の大会で使うぐらいの規模らしいわ」
結が小さく補足する。言葉は淡々としているのに、その奥に潜む期待の色を隠しきれていなかった。
「マジで広いじゃん」
誰かが呟くと、場の空気が少し揺れる。
「……ついに、“外のお客さん”に見てもらえるのか」
社長が軽く咳払いをして、封筒の資料を机に置いた。
「イベントは来週の日曜。“夏を先取りしようの会”」
一拍置いて、言葉を区切る。
「――サブタイトルは、“太陽に一番近いステージ”。そこに立ってもらう」
「“太陽に一番近い”って、物理的に標高ってこと?」
「たぶん、そのノリ」
軽口を混ぜながらも、胸のどこかで音が高鳴った。屋内配信でも箱ライブでもない、“外”。風、子ども、親。偶然のノイズの中で歌う。――試される。
「注意点。今回は地域の親子を集めたデイキャンプ。君たちは“最後のキャンプファイヤーで締める特別ライブ”がミッション。それまでの時間は……」
社長が指折り数える。
「山の散策、定番カレー作り、肝試し、そしてキャンプファイヤー。親子のサポートを“スタッフとして”頼む」
「やっぱり、こうなるのね……」
「八割方スタッフじゃん」
「二割で輝かせるのが“プロ”ってことだろ」
言ってから、自分にも聞かせるように頷く。舞台は、最後の二割を爆発させるための“それまで全部”で出来ている。
――一週間は、準備であっという間に溶けた。
◇
当日。
「そんなわけで、車はここまでしか入れない。各自、機材と荷物を分担して現地まで歩く」
登山口のようなゲートでスタッフさんが笑う。舗装は徐々に土に変わり、木漏れ日がじりじり肌を刺す。六月の太陽はもう夏の顔で、蝉の早出組がどこかで鳴いた。
「この公園ってこんな山だったのか……」
「うへー、登山じゃん」
「もう少し身軽な格好でくればよかった」
額に汗、背にギターケース、手にはクーラーボックス。運搬用のそりを引く俺の横で、恋がタオルを首に巻いて黙々と歩く。優子はキャリーのグリップに推しステッカーを貼って機嫌を取っている。芽亜は呼吸を乱さず歩幅一定。結は――前を見たまま、汗を拭く仕草も整っていた。
「上で会場の人が準備して待ってるみたいだから、急ごう」
木の階段をいくつも越え、木道を揺らし、視界が開けた瞬間、空が近かった。テントと東屋、真新しい炊事棟。奥の広場に丸太が組まれて、黒焦げの炭が去年の夏を思い出させる。
スタッフベストの責任者が手を振る。
「今日はよろしく! 君たちが“締め”だ。ここにいるのは地域の親子。自然のなかで遊んで、最後に火を囲んで歌ってもらう。――君たちの出番は夜」
「それで拘束が“夜まで”だったのか」
「それまでは?」
「もちろん、スタッフとして頼りにしてる」
ため息と笑いが混ざる。でも、すぐに頷けた。――やるべきことは、もう見えている。
◇
午前――山の散策。
先導役でコースに立つ。小さなブーツが落ち葉を踏むたび、ふかふかと音がする。蝶がひらり、子どもたちの声が追いかける。
「見て見て! あおむし!」
「触る前に、係の人に聞こうね」
結がしゃがみ込んで目線を合わせる。笑いながら、静かに手を差し出した。手の上で丸くなる青。子の目が丸くなる。親がシャッターを切る。
「葉っぱに戻してあげよっか。お家、ここだから」
指先は震えない。センターの手は、客席でも、山でも、同じ高さに降りる。
恋は後ろから落伍者を拾いながら、新芽の匂いを真っ先に言葉にする。
「この匂い、覚えておくと、明日ちょっと元気になれるよ」
優子は“道の端ミニゲーム”を発明していた。ドングリ三個でポイント、松ぼっくりは二倍、危ないところに行ったらポイント没収――子どもの足が正しい動線で熱を帯びる。
「ゲームは“楽しく制御”が基本だからね!」
芽亜は静かに、でも確かに隊列を締めていた。転びかけの子を前腕で受け、斜面の降り方を言葉より先に身体で示す。短い説明だけが、風の中でよく通った。
「膝、曲げて。目線、ちょっと先」
俺はというと、鳥と虫の名前を調べ直してきた昨夜の詰め込みが、案外役に立った。
「あれはシジュウカラ。鳴き声、聞いて――ツツピーって」
「ツツピー!」
「うまい!」
笑いが道に転がる。
◇
昼――定番カレー作り。
「玉ねぎは涙と友情のトレーニングです!」
「意味不明なことを言うな」
涙目の優子が鍋をかき混ぜる横で、恋が薪をくべる。火が強すぎて鍋底が焦げかけ、スタッフのお兄さんが慌てて水を差し、俺は風よけパネルを組み立てる。芽亜は包丁を静かに動かして、野菜のサイズを均す。結は手洗い列の整理と配膳のフォーメーションを組み、親子の渋滞を“笑顔で”解消する。
「こぼさないように、ここで“ハイタッチ”してから持ってってね」
迷いがない。指示は短く、明るい。……ちゃんと“現場”が見えている。
最初の鍋はすこしとろみが足りず、二鍋目はスパイスが強すぎた。三鍋目で、ようやく全員が「うまい」と頷ける黄金比に辿り着く。小さな匙が口へ運ばれるたび、芝生に小さな歓声が落ちた。
◇
午後――肝試しの仕込み。
昼の太陽の下で、夜の恐怖を作るのは妙に愉快で、そして責任重大だった。安全ルートを三人で歩き、転びやすい段差に印をつける。反射材を木に巻き、距離感を測る。
「ここに鈴を吊ります」
「風で鳴るやつね」
「音の“間”は私が作るよ」
芽亜が短く言って、暗闇用の足音テストを始める。彼女の“静けさ”は、昼でも夜でも武器だ。
「お化け役やりたい!」
「バニラ、怖がらせすぎ禁止」
「じゃあ“驚かせて笑わせる”二段構えにする」
恋は「怖すぎたらごめんね」の看板を自作し、子どもたちの心の退路を用意する。結は受付で番号札と光るブレスレットを配り、親にコース説明を丁寧に伝える。
「泣いたら、すぐ出られる抜け道もありますからね」
親の肩が、そこで少しだけ楽になるのが見えた。
◇
夕方――風が変わる。
西の空が、濃い橙に滲みはじめる。木々の天蓋の隙間から、光の帯が地面へ落ちる。汗は乾き、肌に塩の砂漠。息を吸うたび、夜の匂いがほんの少し混じっていく。
「マジ暑い。こんなところで夏先取りするとは、想定外だよ」
「公園って名前、変えた方がいいんじゃない」
「手前は釣り堀、奥は野球場、そしてキャンプ場。――全部“山”なんだよ」
冗談を交わしながら、俺はふと“ステージ”を見た。真ん中に積まれた丸太。夕陽に照らされたそれは、灯る前から“灯り”の形をしている。
結が、火の前に立つ。燃えていない炎に、じっと目を落とす。横顔は静かで、遠い。呼びたい名前が、喉の奥で重く転がる。――駄目だ、まだ。今日は“歌”でつなぐ日だ。
◇
夜――キャンプファイヤー。
点火の合図。火が“咲く”。乾いた薪が破裂して、星が飛ぶ。子どもの歓声が輪になって跳ねる。親のスマホが光の壁を作る。
「Open Halo、よろしくお願いします!」
司会の声。手拍子がじわじわ広がる。恋が一歩前に出て、MCで火の輪を大きくする。
「今日の楽しかったこと、何だった?」
「カレー!」
「こわいの!」
「おばけ!」
「全部、覚えてる? ――じゃあ、その思い出に、少しだけ歌を混ぜるね」
優子の“置きフリード”ネタは、屋外でも刺さった。合間のコードに合わせて子どもが手を叩き、親が笑う。芽亜は“座らない歌唱”で輪を周回し、周囲の空気を薄く震わせ、夜の温度を一段だけ上げる。火の粉が星に見えた。
結のパート。センター照明はない。あるのは炎だけだ。けれど――光量は充分だった。彼女は火を背に受け、輪の中心へ声を放つ。高くない。強くもない。なのに、届く。火と人の間、ちょうどそこへ置かれる声だった。
子どもが目を丸くし、親が肩で呼吸を合わせる。輪が、そっとひとつになる。――“センター”は位置じゃない。集まる視線のための、芯だ。
最後は四人で輪に入り、子どもたちと一緒に歌う。歌詞は簡単。覚えやすく、手が勝手に動くように仕掛けたフレーズ。今日一日の断片――山の匂い、玉ねぎの涙、勇気の鈴、火の温度――が、単純な旋律に乗ってほどけていく。
「ありがとう!」
終わりの挨拶で輪が崩れ、拍手と笑いが木々に跳ね返る。小さな手が差し出され、「たのしかった!」が次々と押し寄せる。汗と煙の匂いを混ぜた祝福の渦。――外のステージには、空調も、定常光もない。けれど、風と火と“いま”があった。
◇
撤収の時間。焦げた匂いが靴の底に移る。ケーブルを束ね、機材をケースに収め、忘れ物チェック。深呼吸ひとつ。空は近いまま、暗くなっていた。
「颯さん!」
小さな女の子が走ってきて、結の衣装の裾を引いた。
「お姉ちゃん、ほんとのなまえ、なんていうの?」
どきり、と心臓が跳ねる。俺の手の中で、ケーブルがきゅっと鳴った。結は一瞬だけ目を丸くし、笑ってしゃがむ。
「内緒だよ。――でも、今日みたいに頑張れた日には、いつか教えるね」
「やくそく?」
「やくそく」
指切り。小指と小指が、火の余熱で温かい。女の子が走り去る背中を見送りながら、結は立ち上がり、こちらを一瞥した。何も言わず、でも、確かに微笑んだ。
――彼女だけ、まだ“未解放”。扉は閉じたまま。でも、蝶番はもう、音を立て始めている。
◇
下山。懐中電灯の列が、黒い木の幹に白い帯を描く。息の白さはまだないけれど、夜は肩に降りてくる。キャリーの車輪が砂利を弾く音が、規則的に続いた。
「……思ってたのと違ったけど、良かったね」
「ね。外の音って、全部“楽器”だ」
恋が空を見上げ、優子が満足げにキャリーを叩く。芽亜は静かに頷き、結は少しだけ歩幅を上げた。肩が触れて、視線が合う。言葉はいらなかった。
太陽に一番近いステージ。――実際の距離なんて、どうでもいい。輪の真ん中に火があり、火の周りに人がいて、その外側に風が抜けていく。そこに立てるなら、たぶん、どこだって“舞台”になる。
暗闇の下で、俺は次の山を思った。パラダイスオーシャン。光輪の海。解散を押し戻し、さらに先へ。――そして、最後の扉を、彼女の手で開くその日まで。
足元の砂利が、しゃり、と鳴った。夜の匂いは、どこか甘かった。
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