第23章 ピクセルの向こうの素顔
朝、短く息を整えてからメッセージを打った。
〈昨日は練習、ありがとう。――戦ってくる〉
送信。砂時計の小さなアニメーションが消えるのを見届けるより早く、すぐに返信が返ってきた。
〈頑張ってね〉
その一言に続いて、スクショが一枚。
黒地に白い予約枠。タイトルは「はじめてのゲーム配信(仮)」。開始時刻の横に、小さなベルのアイコン。
芽亜は、逃げない。私も逃げない。
その確認が、薄い朝の空気に温度を乗せた。
⸻
昼過ぎ。事務所の小さな配信ブース。
蛍光灯の白さが、床に四角い長方形をいくつも落としている。
椅子が二つ。モニターが二枚。空気は、ほんの少しだけ熱を帯びていた。
「逃げずに来たようね。そこは褒めてあげるわ」
先に口火を切ったのは、バニラ。
髪のミントのアクセントが、光にきらっと跳ねた。
アイドルの顔のまま、目はプレイヤーの鋭さをしている。
「いや、普通に事務所だから。そういうの、いらないから」
「いいじゃん。雰囲気作りたかったんだから」
「まぁいい。とにかく、やろうぜ」
「まったくもう。台無しだよ」
駄々をこねる仕草のまま、手は素早くゲームを起動していた。指先だけがプロだった。
「先に二勝したほうが勝ち。機体変更は自由で」
「オーケー。俺は――これで行く」
選択カーソルを、ためらいなく、とがった影の機体へ。
画面の下部に流れる説明文には“高機動・特殊装備・難度:高”の文字。
「なに? アサシン・フリードだと?」
バニラの声色が、ほんのり戦闘モードに落ちる。
彼女はこういう時、語尾の飾りをぜんぶ落とす。
「俺はこいつに賭ける」
「そんな……扱いが難しく、基本攻撃が特殊仕様で、初心者には向かない機体のはずなのに。――本気なの?」
「一週間、こいつとだけ鍛錬した。手数より軸だ」
「てっきり、初心者向けのスタンダード・フリードかブリザード・フリードを使うのかと」
「そんな初歩的なのを使ってたら、お前に勝てない」
言い切ると、バニラはにやりと笑った。
「おもしろい。なら、私も遠慮なく行かせてもらう――この、シャイニング・フリードで!」
どこの主人公の台詞だよ、と思いながら、同時に納得もする。
光の直線。単純明快な火力。“見せる”に最短の演算。
「面白い。お前の手の内なんて、配信で研究済みだ」
“Ready—Go!”
⸻
第一ラウンド。
「先手必勝!」
開幕の一秒。バニラが直線で踏み込む。
「受けてみな! ――シャイニング・ブレード!」
斜め上への切り上げ。薙ぐ軌跡のエフェクトが、画面いっぱいに広がる。
私はアサシンの足を浮かせ、爆薬のマーカーを床に置いた。
ジャンプ→設置→着地キャンセル→位置入れ替え。
氷の刃は空を切り、爆薬のランプが一つ光る。
「こざかしい! 我の火力を見ろ!」
距離を詰め直しながら、彼女は無敵時間の長い必殺で正面突破を仕掛けてくる。
真正面から殴り合えば、こちらの体力が溶ける。
――逃げない。避ける。刺す。
アサシンを選んだ理由はそこにある。
肉弾戦が不得手なかわりに、設置と誘導で“想定外”を生む。
格ゲーに習熟した人ほど、“想定内の強さ”で走る。だから、足元を外す。
「んな! まともに戦いなさいよ!」
「これがアサシンの“まとも”だ。――ボムセンサー、発動」
ランプが三つ揃った瞬間、床の下から連鎖の火花。
「っ、あっ、くそっ!」
弾ける光。吹き飛ぶシャイニング。
コンボルートを短く切り上げ、補正切りで再度設置。時間を使い、勝ちの形だけを残す。
「……一本」
「ぐぬぬ」
それ、効果音を口で言うな。だが、可愛いから困る。
⸻
「ありがたく思いなさい。私の“本気”、見せてあげる。――この、ディスティニー・フリードで!」
「ちょ、それ強機体じゃないか」
「あら、知ってたの? ルールには禁止ってないよね」
「くっ……それくらい、想定済みだ」
第二ラウンド。
中開幕で二歩下がり、こちらは徹底的に距離管理。
飛び道具での牽制、低姿勢での差し返し。足を止めたら、負ける。
「そんな細かい手裏剣なんか、リフレクト・ガードでビクともしないわ!」
弾きを合わせて、彼女は一気に距離を詰める。
ディスティニーはスピードも火力も上位。
“追いついたら終わり”の圧が、画面の手前から迫ってくる。
「追いついたぜ、は・や・て!」
「……まずい!?」
「至近距離で――ディスティニー・インパクト、くらいなさい!」
ガードを割る多段の光。
読み負けた。飛びもバクステも間に合わない角度。
体力ゲージが燃えるように溶け、画面の端に吹き飛ぶ。
「これで、イーブンね」
「――次が本番だな」
私の選択は、変わらない。アサシン一択。
対して、バニラはカーソルを少し迷わせて――ぽん、と“弱機体”に落とした。
「私は、これでいこうかな」
「それって……ピンキー・フリード。弱機体のひとつじゃないか?」
「愛で勝ちたいのよ。愛で」
「いいじゃないか。手加減はしない」
「当たり前。手加減したら、許さない」
第三ラウンド。
互いに一歩ずつ下がり、弾幕の厚みを確かめ合う。
私は手裏剣の角度を刻み、彼女はハート弾の軌跡で“壁”を塗っていく。
――攻めてこない。
彼女は普段、見せるために前へ出る。それが“推藤バニラ”の勝ち方だ。
今日は違う。様子を見る。焦らせる。
こっちは、攻めてこられる前提で練習してきた。節々に、迷いが滲む。
「困ってるみたいね。私だって、こういう戦い方できるんだから。甘く見ないでよね」
「ああ。わかったよ。――なら、容赦なくいける」
ボムを散らし、角度を変えて矢を置く。
罠にかけるのではなく、相手の“視線”を奪いにいく。
視線を奪えば、足が前に出る。出た瞬間に刺す。
「……慣れないことは、するもんじゃないわよ」
しまった――読まれてた。
“置き”に対しての最大。ピンキーの“ハートブレイク”。
対置きの踏み込み。設置の手に重なるタイミング。
画面が一瞬、色を落とし、爆発的なエフェクトだけが残る。
「くらいなさい! ――ハートブレイク!」
体力が削り取られ、画面が白くフラッシュする。
反撃の目は、ない。
ラウンドのアナウンスが、静かに閉じた。
「……勝負あり、ね」
「負けたよ。やっぱり、一朝一夕じゃどうにもならん」
「当然。私は“フリードシリーズ”に、愛があるから」
届かなかった。
でも、納得できる負けだった。
最善を積み、勝ち筋を一本だけ作って、その上で折られた。
学ぶ価値のある敗北だ。
⸻
コントローラを置いた瞬間、カチリと小さな音が響く。
バニラは深く息を吐き、肩の緊張をほどく。
画面の戦闘モードの光が、ようやく柔らかく揺らいだ。
「……ねえ、一つ、聞いてもいい?」
唐突に落ちた声は、静かなのに妙に刺さる。
俺は喉の奥で唾を飲み込みながら、短く返す。
「なんだ」
「なんで、ここまでやったの? 私に勝てるわけないって、わかってたでしょ」
視線を逸らせない。彼女の目は、冗談を受け入れないほど真剣だった。
時間が少し伸びる。鼓動の音だけが間を埋める。
「……そりゃあ、そうだけど」
「わざわざ特殊機体まで選んでさ。なんで、そこまで」
問い詰められて、俺は一度俯いた。
画面の残光が机に影を落とし、その影を見つめながら、ようやく言葉を探す。
「……お前の“本気”と戦えれば――お前の“想い”が、少しわかるかなと思ったんだ」
「私の……想い?」
「ああ。みんなそれぞれ、思いを抱えて活動してる。俺はその“表”しか知らない。だから戦ってる時の呼吸とか、迷いとか、喜びとか……そういう“裏の温度”に触れてみたかった。それだけだ」
バニラは黙った。長い沈黙。
秒針の音がひどく大きく聞こえる。
やがて彼女は目を伏せ、ほんの一瞬だけ目尻を緩めた。
「……そうなんだ」
「結果はこの有様さ。全然及ばなかった。……やっぱり強いよ、お前は」
言葉を絞り出すと、彼女は小さく首を振った。
「強い、だけじゃないの。……私、こうだから。夢中になって、周りが見えなくなる。だから、誰も私と遊んでくれなくなるの」
「バニラ……」
「だから、オンラインでやるようになった。有名になった。……でも、それは同時に、“一緒に遊ぶ”ってことを忘れていったってこと」
机に落ちた言葉が、乾いた木を叩くように響く。
俺の胸にじわじわと沁み込んでいく。
「……俺とやれて、楽しかったか?」
問いを投げると、彼女は一瞬驚いたように目を見開き、すぐに微笑んだ。
「……うん。めっちゃ楽しかった。……私、もっと“ゲームの楽しさ”に気づいたと思う」
「……なら、よかった」
その笑みを見て、心が少し軽くなる。
だが、次の瞬間――
「ありがとう。颯」
唐突に差し出された言葉が、胸に刺さる。
「いいってことだ。俺はただ、負けただけだしな」
「そんなことない。学校も仕事もあるのに……私と戦うために準備してくれた。それが、すごく嬉しかった」
彼女の声は震えていない。むしろ強い。
俺の方が、逃げ場をなくして視線を逸らした。
「……それなら――単位ひとつ犠牲にした価値はあったな」
「やっぱり、無理してたんだ」
「俺がやりたくて、やったことだ」
そのやり取りのあと、彼女は俯き、しばし黙った。
そして、顔を上げた瞬間――光の加減で、瞳が一段明るく見えた。
「……私、今まで“ちゃんと友達とゲームしたこと”、なかったの」
「そんなに上手いのに?」
「上手いから、だよ。……手を抜いても、この性格だからすぐバレるし。ハンデつけても、変な空気になる。……私は“全力”を出せる場所がなかった。いや――“全力で向き合ってくれる人”に、出会えなかった」
息を呑む。胸の奥で、何かが確かに震えた。
「だから、颯が本気で戦ってくれるってわかった時……本当に嬉しかった。“私の全力を受け止めてくれる”って、信じられたから」
そして――
「――白井、優子」
静寂が落ちた。
空気が半歩、確かに沈む。
「……え?」
「欲しかったんでしょ。私の本名」
「そうだけど……俺、勝負には負けたんだぞ」
「これは、私からの“感謝の印”。それだけ」
「……いいのか」
「いいの。――私は、颯に知ってほしかったから」
その瞬間、心臓がひときわ強く鳴った。
名前とは、仮面の裏に隠した体温だ。
それを差し出すということは、魂を預けるのと同じだ。
「……ありがとう」
俺は息を吸い、震える声で答える。
「そしたら、教えてあげた“お礼”に――一つ、お願い聞いてくれる?」
「……なんだ。敗者の俺が断れないこと、わかってるだろ」
優子はふふっと笑う。その笑顔は、バニラとしてのそれではなかった。
「……名前で呼んでほしいな」
喉が乾く。言葉が重い。
けれど、この瞬間を逃したくなかった。
「――ありがとう、優子。……これからも、よろしく」
名前を呼んだ瞬間、彼女の顔にぱっと光が走った。
その笑顔は、推藤バニラでもなく、配信者でもなく、ただ一人の少女――白井優子のものだった。
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