第20章 居酒屋の影
「……最近、雨ちゃん、忙しそうだね」
結がぽつりとこぼした言葉に、事務所の空気が一瞬止まる。
誰もが同じことを思っていた。けれど、先に声にする勇気はなかった。
「平山さんのところで……あれからずっと手伝いしてるみたいだよ」
俺が答えると、天がペットボトルを握りしめたまま、小さく頷いた。
「そっか。……でも、本当に顔見なくなったよね」
その声は明るく取り繕おうとしていたが、言葉の端が寂しげに震えていた。
バニラはゲームコントローラを指先でくるくる回し、わざと視線を画面に逸らしながら吐き捨てるように言った。
「ねえ、私たちだって頑張ってるのに……歌が特別だからって、そっちばっか評価されるの、なんかズルいって思わない?」
露骨な本音に、空気がわずかに張り詰める。
結の表情が曇り、唇をきゅっと結んだ。
「……わかるよ、その気持ち。私だって思ったことはある。でも」
結は視線を落とし、それでも声に力を込めた。
「それが彼女の強みなんだ。雨の歌があるから、私たちがステージで輝ける。だから……」
言葉の端は震えていた。強く言い切ろうとするほどに、その響きの奥に無理が混じる。
センターとしての責任感が滲んでいたが、それは同時に“置いていかれる不安”を押し隠す声でもあった。
沈黙が落ちる。
天は目を伏せ、バニラはコントローラを握る指に力を込めたまま黙り込む。
結の強がりを、俺だけが苦しく見つめていた。
⸻
ちょうどその時――。
ドアが軋む音とともに、静かに開いた。
噂をすれば影。雨が帰ってきたのだ。
彼女は肩から小さな鞄を下げていた。
制服の袖口を軽く押さえながら、一歩、部屋に踏み入る。
その動作はきちんとしているのに、どこか急ぎ足の帰宅準備を思わせる。
軽く会釈をした。
その視線は真っすぐで、迷いはなかった。
けれど、目の奥には淡い疲労の影が滲んでいる。
まるでここ数日の出来事が積み重なって、表情の端に皺を刻んでしまったかのように。
「……お疲れ。私はこれで、上がりますね」
その一言に、室内の空気がぴんと張る。
声は穏やかだ。けれど、区切りを示すかのような固さがあった。
恋が少し口を開きかけた。
「……雨、あの――」
けれど、視線を返される前に言葉が喉で止まる。
優子も椅子から立ち上がろうとしたが、結局腰を浮かせたまま、ただ手を握りしめるだけだった。
芽亜はペンを回す手を止め、ほんの一瞬、呼び止めるように息を吸った。だが音にはならず、そのまま唇を結ぶ。
ほんの少しの会話を交わす余裕さえなく。
雨は鞄を持ち直し、背を向ける。
廊下の空気を吸い込むその背中が、思いのほか小さく見えた。
そして――ドアが閉まる音が、妙に重く響いた。
取り残された三人は、互いの顔を見ても言葉が出てこなかった。
かけようとした声が、すべて宙でほどけて消えていった。
沈黙を破ったのは俺だった。
「……いいのか? せっかく集まってるのに。社長としては、もっとグループで活動してほしいと思うもんなんじゃないのか?」
姉――社長は腕を組み、肩をすくめて答える。
「それも一理あるわね。でも、外の付き合いも大事なの。特に彼女は平山ちゃんに気に入られてるから助かるのよ。そこ繋がりで仕事をもらえることもあるし」
現実的すぎるその声に、結が思わず口を開く。
「……私たちじゃ、だめなんですか?」
問いかけは震えていた。けれど、その震えは誰も否定できなかった。
社長は少しだけ視線を伏せて、静かに言葉を落とす。
「やっぱり彼女は“歌”で頭角を現した子だから。そういう才能に惹かれる人は多いの。残念だけど、それが現実よ」
結の目が揺れる。返す言葉を見つけられず、唇を噛みしめてうつむいた。
天は持っていたペットボトルを握り直し、バニラはコントローラを止めた指先をじっと見つめる。
誰も次の言葉を継げなかった。
胸の奥で、言葉にならないモヤモヤが広がっていく。
“選ばれる者”と“残される者”。
その境界線を、目の前に突きつけられたようで、俺の拳は無意識に固く握られていた。
残された俺に、翠が一枚の紙を渡した。
打ち上げ会場の情報が印刷されている。
「雨が出てる仕事の打ち上げよ。同行しなさい。」
「……俺がですか。」
「タレント管理も仕事の内よ、颯君。」
短くそう言い残して、彼女は奥の机に戻った。
俺は紙を握りしめたまま立ち尽くす。
――結局、こうして“監視役”として外に回されるのか。
⸻
夜。
駅前の大きな居酒屋。
入口の灯りの下で、仕事を終えた十人ほどが集まっていた。
笑い声と煙草の煙が混じり、空気はざわついている。
「雨ちゃんお疲れ様。打ち上げ来るよね?」
「もちろんです。行かせてください。」
彼女は鮮やかな笑顔で返す。
その姿は、普段の寡黙さを知る俺には別人のように見えた。
外ではこうして“完璧な仮面”を被って立つのだろう。
だが、俺は店には入らなかった。
ビルの外壁に背を預け、入り口を見張る。
社長から言われたのは「同行」だが、“同席”しろとは言われていない。
俺にできるのは、出入りする彼女の姿を確認し、もし何かあった時に動けるようにしておくことだけだ。
ガラス越しに見える店内は、活気と騒音で満ちていた。
グラスを掲げる笑顔、飛び交う声、忙しなく動く店員。
その輪の中で、雨がグラスを傾けているのが見えた。
(……大丈夫だろうか。)
胸の奥に不安が残る。
慣れない場で、彼女が無理をしているのは明らかだった。
⸻
やがて、店の入口から出てきた人影に気づく。
――雨だった。
数人に囲まれ、営業用の笑顔を浮かべている。けれど、その口元と違って、瞳の奥はどこか揺れていた。張りつけられた笑顔に、薄い影が差している。
「雨ちゃん、二次会来るよね?」
「え……どうしようかな。明日も早いので……」
「大丈夫大丈夫。みんな来るって言ってたし」
「……じゃ、ちょっとだけなら」
軽いやりとり。だが俺の耳には、刃のように突き刺さった。
――断れないんだ。彼女は。付き合いのために、自分を押し殺してしまう。
拳が勝手に握り締められる。爪が掌に食い込み、汗が滲んだ。
人波に紛れ、ぞろぞろと歩いていく一行を、俺は遠くから追う。
店員に声をかけ、奥の部屋へと消えていくのを見届けたとき、背筋に冷たい違和感が走った。
――人数が合わない。
入っていったのは五、六人。けれど、ガラス越しに見えた明かりは、四人席の個室ひとつだけ。
視線を凝らす。
そこに映っていたのは、知らない男が一人。
その正面に、戸惑いを隠せないまま腰を下ろす雨の姿。
笑顔は消えていた。頬が強張り、膝の上で指先がわずかに震えている。
その光景を遠くから見た瞬間、胸に氷を流し込まれたような冷たさが広がった。
(……嫌な予感しかしない)
鼓動が早まる。耳の奥で血の音がざわめく。
俺は建物の外壁を回り込み、非常口近くに立った。ガラス越しに視線を外さず、スマホを手に握りしめる。もしもの時には、すぐにでも飛び込める距離だ。
居酒屋のざわめきが、皮肉なほど明るく遠くで響いている。
その騒がしさに紛れ、ガラスの向こうで小さく揺れる彼女の横顔だけが、不安と孤独を帯びていた。
耳の奥で、社長の声が蘇る。
『タレントを見失うな。守れるのは現場にいるあんただけだよ、颯』
唇が渇く。喉の奥が焼けるように熱い。
深く息を吸い込み、視線を逸らさずに立ち続けた。
――雨を守れるかどうか。
それが、今まさに試されている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます