第17章 届かないところ
昨日のことを反芻する。
勇気を振り絞って伸ばした手は、空を掴んだだけだった。
できているつもりの寄り添いも、扉の前に立っているだけで、取っ手に触れてすらいない――そんな感触が、朝になっても喉の奥にひっかかったままだ。
(支えているつもりで、何も支えられていないのかもしれない)
鏡の前でネクタイを整える手が、いつもより半テンポ遅い。
シャツの生地がこすれる音、窓の外で回る自転車のチェーンの音、そのどれもが妙にくっきり聞こえるのに、頭の中だけは靄が濃かった。
⸻
事務所。
朝いちの蛍光灯は、相変わらず容赦なく白い。
書類の束を二つ抱えて、俺は会議室とスタジオを行き来する。提出先の封筒、レッスン室の鍵、撮影の許可申請――雑務は山のようにある。山は「片付けた」という実感をくれない。削っても削っても同じ形でそこにあるからだ。
「……風見さん」
背中から声。
振り返ると、東村雨が立っていた。黒のパーカーに、髪はゆるくまとめて。視線はいつも通り低く、けれど俺の肩のあたり、普段より半歩だけ上を見ている。
「これ、今日のレコーディングの同意書。サイン、もらってきた」
「助かる。ありがとう。――ああ、こっちは台本の改訂。昨日の“静寂コード”の合図、入れたやつ」
俺が渡すと、雨は紙の端だけ指先で挟んだ。
目で読み、喉の奥で小さく「うん」と鳴る。
「……昨日」
短い前置きだけが転がった。
続きが来るのを待って黙る。静寂が、逆に意味を増幅させる。
「歌、入れやすかった」
「ならよかった」
「でも、顔。風見さんの」
「顔?」
「無理して笑ってる顔、してた」
心臓が一回、素直に跳ねた。
雨は追い打ちをかけない。彼女はいつもそうだ。断言して、踏み込まない。境界線の引き方を、生まれつき心得ているみたいに。
「……平気。仕事は、進める」
「うん。頼む」
彼女はそれだけ言うと、レコーディングブースの方へ歩いていった。歩幅は一定、背筋は伸びたまま。
違和感は確かに触れてきた。けれど、彼女は平然の形で受け取って、筋を通して去っていく。
(本当に、俺は支えになれているのか?)
問いだけが、廊下の白い壁に反響する。
⸻
昼過ぎ。
チェックリストに線を引き、次の作業に移る。
配信アンケートの集計、コラボ先とのリハ時間の差し替え、スポンサー向けの注意事項……。
スマホに手を伸ばす。
推藤バニラ――今夜、自宅からゲームコラボの枠を取る予定だ。アンケートの反映と告知ツイートの時刻を合わせる必要がある。
コール音の二回目で出た。
『はいはーい。エリート配信者、準備中。要件は三十秒でどうぞ』
「アンケート結果。トップは“語彙崩壊ホラー”。二番“初見殺しアクション”。告知、二十時の固定にする。ハッシュタグに“静寂十五秒”の裏用語は入れない」
『了解。三十秒にまとめたの、ちょっとえらい』
耳に馴染んだ軽口。いつも通り……のはずだった。
なのに、声の奥の温度を測ろうとしている自分がいる。彼女の「機嫌」ではない。「距離」を測っている。
『で、風見くん』
「ん」
『昨日、疲れた顔してた。――わかるよ。配信者は、光の反射で人の表情を読む職業だから』
冗談めかして言い、すぐに続ける。
『深掘りはしない。深掘りって、時として“掘削”だから。必要になったら、私が自分で掘る』
「助かる」
『でも、アンケートの自由記述には“結ちゃん、最近表情が柔らかい”って多かった。アレ、君のせいでしょ』
「……仕事の成果、ってことにしてくれ」
『じゃ、成果報酬で後で一曲リクエストね。配信で歌わないけど』
軽口のまま通話は切れた。
何も違わないようで、何かが違って見えてしまうのは、俺の側の焦点が揺れているからだ。
彼女は軽く触れ、深煎りを避けた。やりすぎない賢さ。プロの距離感。
⸻
スケジュール表に今日の欄を書き込む。
紅結――オフ。
紙に打たれた三文字が、心のどこかを直接叩いた。
「合わなくてよかった」と思う自分と、「このまま会いづらくなるのは嫌だ」と怯む自分が、等しい力で引っ張り合う。
バランスは取れているのに、どちらにも歩き出せない。足元に、薄い氷が張ったみたいだ。
⸻
午後三時。
給湯室のポットに湯が沸く音を聞いていると、背中から勢いのある声が飛んできた。
「はーやーてー!」
振り向く前に、明るい匂いがする。
恋乃天。ポニーテールが弾む勢いのまま、俺の正面に回り込んできた。
「わかるよ、わかる~。今日の君、太陽光50%オフって顔してる」
「そんなセールやってたか」
「期間限定。心のブラックフライデー」
くだらない。けれど、救われる。
彼女の軽さは、浮ついていない。重いものを持ち上げるためのテコみたいな軽さだ。
「……大丈夫。私、そういうの嗅ぎ分けるの得意」
「何を」
「人の“元気じゃない音”。あと、“元気じゃないのに元気な顔する音”」
思わず笑ってしまった。
天は、俺の反応を見て満足そうに頷く。
「結のことでしょ?」
その一言で、心臓が一段深く沈む。
「……どうして」
「今朝、駅で会った。いつも通り笑ってたけど、笑い出すまでの“間”がいつもより長かった」
天の指が空中に一本線を引く。
「その“間”の長さ、颯の間とお揃いだったから」
言語化の鋭さに、少しだけ息を奪われる。
天はすぐに、口角を上げた。
「大丈夫。気にしてないよ。――ううん、“気にしてるけど、悪い方には気にしてない”って意味。結もね、普通に話したいって思ってる」
「そう、か」
「うん。君が近づいたから、ちょっと下がっただけ。ラウンドの中でステップ踏んでる感じ。逃げてないよ」
慰め、というより、観察に基づく言明だった。
彼女は意外なほど、場を見ている。明るさの奥で、よく人を見ている。
「ありがとな」
「お礼は“本番でズッコケないでね”でいいよ」
笑い合って、少しだけ胸の重さが薄くなる。
その薄くなった隙間に、言葉が滑り込んだ。自分でも止められなかった。
「天は――俺に、名前を教えてくれるのか?」
空気が、きゅっと鳴った。
天の瞳が、ほんのわずかに揺れ、すぐに波紋が消える。
笑顔は壊さない。呼吸も乱さない。
ただ、ごく自然に、視線を逸らした。
「ねぇ、今日って、レッスン室の予約、二つ目の枠にずらせる?」
「……ああ。やっておく」
「助かる! じゃ、またあとで!」
早口で言って、彼女は手を振り、軽い足取りで去っていった。
残された通路に、返事をしそびれた疑問が小さく漂う。
(やっぱり、まだ“奥”には入れていない)
扉の前に立つ感覚。昨日と同じ、いや昨日よりくっきりした輪郭で迫ってくる。
名前は鍵だ。
彼女たちの“内側”に触れるための、唯一の――そして最後の鍵。
⸻
夕方、スタジオのライトが点く。
今日の作業を一通り終え、チェックリストの最後に小さく印を付ける。
雨は歌入れを終えて、短く「おつかれ」とだけ言って帰った。
バニラは予定通りの時刻に告知を上げ、反応は上々。
天は、二つ目の枠に移したレッスン室で、汗だくになって基礎を繰り返していた。
結はオフ。
「オフ」という文字の脇に、俺は鉛筆で小さく点を打った。意味のない印。けれど、何かを残しておきたかった。
窓の外、街のネオンが順番に点き始める。
反射する色が机の縁に滲んで、紙の白さをわずかに染める。
俺は椅子に背を預け、目を閉じた。
(まだ届かない。だけど、届かないことを、ちゃんと知れた)
それは敗北感に近い。けれど、無駄ではない。
距離の実測は、前に進むために必要だ。
軽々しく飛び越えず、踏み台を置くために。
ポケットの中でスマホが震えた。
〈静寂、十五秒、よかった〉
雨から。
〈アンケ回答、助かった。三十秒箱、楽しい〉
バニラから。
〈枠ずらし神。明日、ジュース奢る〉
天から。
画面を閉じる。
結からは何も来ていない。
それでいいのだと思う。今日はオフだから。今日は、彼女が「結」でなくてもいい日だから。
椅子を引き、立ち上がる。
明日のリストの一番上に、鉛筆で書き込む。
――「扉の前で、待ち方を覚える」。
すぐに開けない。こじ開けない。
それでも離れないで立っていられる力を、ここで身につける。
事務所を出ると、夜風が熱を運び去っていった。
空は澄んで、星がまばらに浮かんでいる。
届かないものを見上げながら、届く場所まで歩いて帰る。
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