気の迷い
*蓮がスランプになる話です💦
「なんだか疲れたな……」
イベントから帰ってきた蓮がぽつりと呟いた。郁哉は、何気なくそちらを見る。長いまつ毛が一度上下し、吐息がこぼれた。
ソファに身を預けた蓮の姿は、まるで写真集の中の一枚のように見えるけれど、表情にはあまり生気がない。
ルームシェアを始めてから、蓮は時々、ほんの稀に素顔を見せる時がある。
きっと他のミュージシャンたちの前では、蓮らしくいようとして無理をしている時もあるのだろう。
「ミュージシャンなんてもうやめようかな」
「え」
蓮がミュージシャンをやめる、というのは想像がつかない。蓮は初めて会った時から、ミュージシャンでしかなかったから。
「どこかの小さな町で働きながら、週末だけ演奏をするとか、そういう感じにしていこうかな」
そうなったら、ルームシェアもできなくなるな、とぼんやり思う。ライブ配信のためにルームシェアをしているだけだから、郁哉と一緒にいる必要はない。
「別にミュージシャンが本当にだめだった時にそうすればいいんじゃない?」
恐る恐るそんなことを告げる。
なんとか思い直してほしい。
「……まあそうなんだけど、本当にだめな可能性も結構あるじゃん?」
蓮は気のない返事をして再びソファにもたれた。
「働いて貯金が貯まったら、いつか郁哉と一緒にカフェでもやって、そこで時々演奏するとかでもいいかな」
「え」
蓮のプランにはどうやら郁哉も入っていたらしい。
「郁哉の地元とかでもいいよね」
「それはやめた方がいいと思う」
あの島でカフェなんか開いたら、「黒龍様が怒るから今日は閉店にしておきなさい」とか、
「実里お嬢様が来る時は無料にするように」とか、色々面倒なことを言われるに決まっている。
「じゃあそこじゃなくてもいいけど、どう?引っ越さない?」
蓮は薄い笑みを浮かべた。
「あ、郁哉の好きなぬいぐるみを並べてもいいよね」
蓮と一緒にどこかに引っ越すのを想像して、それも悪くないなと思った。
でも多分、それは本当に蓮が望んでいることではないと思う。
蓮はいつもそつなくクールな感じに見えるけれど、作曲を始めたら話しかけても返事をしないなど、音楽への没頭はすごい。
きっと、蓮はもっとミュージシャンとして上を目指したいはず。
郁哉と、穏やかに暮らしたいなんてきっと気の迷いだ。
「俺は嫌だな」
気づくとそんなことを言っていた。
「……郁哉は、俺がミュージシャンじゃなくなったら一緒にいたくないの?」
「そんなことはないけど、蓮にはミュージシャンとして頑張ってほしいっていうか……」
蓮はきっとそんな答えは求めていないと思う。
でも、これが本心だから仕方ない。
「そっか。郁哉は俺のファンなんだね」
「ま……まあそうだな」
少し違う気がするけれど。
「じゃあ次のライブのチケット買う?」
「……いいけど」
なんだか誤魔化された気がする。
蓮はライブのチケットは時々くれるが、気分によってくれないこともある。
今はスランプ中だからくれないのだろう。
「ありがと。何枚いる?」
「何枚……」
友達なんていないからもちろん1枚だが、何枚、なんて聞かれてしまうと1枚だとは言いづらい。
「じゃあ、3枚」
「誰と来るの?」
蓮が首を傾げる。
「えっと、それは」
柏木恭介と颯斗は誘ったら来てくれるだろうか。
「まだ決まってないけど」
「決まってないならとりあえず1枚でいいじゃん」
「……そっか」
じゃあ最初から1枚といえばよかったな、と郁哉は思った。
「律は連れてこないでね」
「それは、もちろん」
律--啓一郎は蓮の片想いの相手だ。
なので絶対に連れて行きたくない。
「律ってさ、すごいよね。現れた瞬間空気が変わる感じ」
それは、単に蓮が啓一郎のことが好きだからなんじゃないだろうか。
「俺にはそういうのはないからさ。やっぱり才能ってあるんだろうね」
「でも蓮のほうがかっこいいし」
咄嗟にそんなことを言ってしまい、やっぱり言わなければよかったな、と思って俯く。
「別に郁哉に言われてもしょうがないよ」
「まあそうだろうな」
なんとも間の抜けた返事になってしまった。
「あのさ」
蓮がソファに寝転がり、こちらを見た。
「俺がミュージシャン諦めても一緒にいてね?」
その気だるげな表情にドギマギしてしまう。
「それは、まあ、いいけど」
そんな無愛想な返事しかできない。
やっぱりだめだな。
「約束ね」
再び小指が差し出される。恐る恐る同じように小指を差し出すと、そこを通して少し熱いような感触が肌全体に広がっていった。
「うん」
掠れた声で呟く。
一緒にいてほしいなんて、疲れているから言っているだけなのは分かっていたのに、なんだか嬉しく感じる自分に心がざわざわした。
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