リンドウ
宵町いつか
第1話
わたしはバス停に置いてある汚れた椅子に座っていました。一日に数本だけここにバスは来ます。今日はあと数時間来ません。そんな場所です。
木で出来た、すこし優しいにおいのするバス停。その中に置いてある青い色の長椅子にわたしとハハさんは座っています。ハハさんとわたしの間には水のはいったペットボトルが一本。ハハさんはこの町から少し離れた町に住んでいるそうです。休日だけ、この町に来ます。長い髪が綺麗で、顔がかわいい、いつも制服姿の高校生さん。そう、おとなです。少なくとも小学生のわたしよりもおとなです。わたしはハハさんを見ます。ハハさんはやはり今日も制服です。そして化粧をしているらしいです。言われてみると確かにお母さんがお化粧をしたときみたいな雰囲気があります。けれど、あまりお母さんみたいに化粧らしさは感じられません。化粧の種類がちがうのでしょうか。それともなにか別のことがあるのでしょうか。もしかしたらおとなになればなるほどに化粧というものが浮いてしまうのかもしれません。まだハハさんの顔は化粧が似合うのかも。それだったらきっと、わたしもハハさんみたいにかわいくなれるのかもしれません。
一瞬、ハハさんを見ます。ハハさんはじっと太陽を見ていました。その表情はとても綺麗です。まるでモデルさんみたいに思えます。将来はモデルさんになるのかもしれません。学校でもモテモテでしょう。
「ハハさんは、学校でモテモテでしょう?」
わたしはずばり、そう言いました。シャーロック・ホームズのような名推理でしょう。
ハハさんはわたしを見て、ため息をつきました。ハハさんはよくため息をつきます。それはお母さんがお父さんに向けるときみたいな暗いものじゃなく、残念そうなことを伝えるものじゃなくて、「えーっと」とか「あー」とか考えているときに自然と出る言葉に似ていると思います。その息がわたしは好きでした。ハハさんの優しさが詰まっているような気がして大好きでした。
「急になんだよ」
いつもみたいにそっけなく、ハハさんは言いました。ハハさんの声はわたしと違ってちょっと低い声です。これをハスキーな声と言うらしいです。それくらいわたしでも知っています。ハハさんは目をきゅっとかわいらしく細めて、面倒くさそうにけれどたのしそうに口の端っこを上げてわたしを見ていました。
「ハハさんはかわいいから、きっと学校でもモテてるんじゃないかって思ったの」
「こどもだな、お前」
ハハさんはわたしから視線を外して空を見つめました。わたしも一緒に空を見つめます。空には高い雲があります。夏らしい雲です。たしか入道雲、と言ったはずです。
「顔がかわいいってだけでモテるわけじゃないんだ。色々なことが重なって、その人を好きになる。顔なんて所詮顔。それ以上もそれ以下もない。ま、あたしみたいに顔がかわいいと色々いいこともあるけどな」
「いいことって例えばどんなこと?」
「それが分かるようになるのは……もうちょっとお前が成長したらだな。今のお前は知らなくていい」
ハハさんは投げやりになったように言います。言い方がわたしを突き放しているみたいに思えて、わたしはむっとして言いました。
「まだ小学生だけど、わたしはほかの子より頭はいいけど?」
わたしはほかの馬鹿な子たちとは違います。勉強もできますし、ほかの子より本を読みます。春のやさしさも、夏の透明さも、秋の暖かさも、冬のつんとした泣きそうな空気も、ほかの子より知っています。
「頭がいいだけじゃダメなんだよ」
ハハさんはそう言った後にため息をつきました。わたしもハハさんの真似をして、ため息をつきました。ハハさんは一瞬、いやそうな顔をしました。けれどそれは照れ隠しということを知っています。ハハさんとはそれくらい通じ合っていました。はじめて会ってから、長い時間が経っていますから、それくらい当然です。
あれは、たしか、風の強い日でした。自分の髪の毛が風に揺られてとても邪魔だったことを覚えています。
わたしは散歩をしていました。学校終わり、先生からもっとほかの子と話してみたらと言われて、それがずっと頭の中から離れませんでした。わたしは一人でも十分楽しい、ということを伝えましたが、先生はすこし悲しそうに笑いました。それがとても、とてもいやな気持ちになりました。わたしは一人でも楽しいのです。本当に、楽しいのです。本を読んで、ココアとかおいしいものを飲んで、たまに、チョコレートとかクッキーとかを食べて、十分幸せです。ですけれど、それは先生にはわかってもらえませんでした。もしかしたら、おとなになってしまったら、本を読むことも、ココアとかおいしいものを飲むことも、チョコレートとかクッキーを食べることも幸せにならないのかもしれません。それが怖かったのです。それが怖かったから、わたしは歩いていました。歩くことは好きです。体をかすめていく空気がとてもやさしく感じられるから、落ち着きます。ときたま、知らない道を歩いて、好きな家を見つけます。好きな色を見つけます。好きな表札を見つけます。私はその時間が好きでした。
その日はいつも、あまり通らない道を歩いていました。その道は山に続いていて、道の途中にバス停があることだけ知っていました。なぜ知っていたかというと、一度だけそこのバスを使ったことがあったからです、お母さんと一緒に、県庁所在地へ行きました。私の住んでいるところは、たぶん田舎です。都会ではありません。けれど、不便はありません。山に囲まれていても、田んぼばかりでも、大型ショッピングモールがなくても不便でありません。けれど、そのときは、とても不便でした。お母さんが病気になってしまったのです。この町には診てもらえる大きな病院はありませんでした。……今は元気です。もう、病気は治りました。
そのときのことがありましたから、わたしにとってのバス停は都会に連れて行ってくれる、というよりもいやな場所に行く場所、という印象が強いです。だって、あのときはお母さんが死んでしまうのではないかととても心配でしたから。そんなわけがないのに、バスに乗ってしまうと死んでいくように思えてしまいます。それは、夢みたいなぼんやりした感覚で、本当は起こらないことが分かっていても、本当に起こってしまいそうな……。ですから、わたしはあまりバスというものが好きではありません。
道路を木が挟んでいます。木から絶えず、セミの声が聞こえます。夏らしいにおいがします。
猫の声が聞こえました。種類はわかりません。ただ、声がきれいでした。まるで歌手みたいな声でした。彼、または彼女でしょうか。きっと歌を歌ったらとても上手なのでしょう。
どぅ、と風が吹きました。目の端から涙が出ました。
その涙をそっと拭くと、バス停が目の前にやってきて、そこにハハさんが座っていました。ハハさんはそのとき、泣いていました。理由はまだ教えてもらっていません。大丈夫かどうか聞いて、ハンカチを渡すと、ハハさんは自分のスカートのポケットからハンカチを取り出して乱暴に拭きました。自分より年上の人の泣いている姿は驚きました。あまり見ません。病気のときに、お母さんが泣きながらわたしの頭を撫でたときも、驚きました。お母さんの泣いている姿なんて見たことがなかったからです。
「あなた、大丈夫?」
ハハさんは面倒くさそうにため息をついて「お前には関係ないだろ」と言いました。不思議と怒られている感じも、突き放されるような感じもありませんでした。ハハさんは体育座りになって顔をスカートの中に埋めました。きゅっと閉じられた足は真っ白でとてもきれいでした。きっとハハさんは自分を大切にしようとしているのだろうと思いました。
わたしは、ハハさんの頭を撫でました。ハハさんの髪は手入れが行き届いていてきれいでした。
「やめろよ」
「泣いているときは誰かに頭を撫でられると安心するわよ」
「そうかよ、ガキだな」
ハハさんはそう言ったきり、無言になってずっと顔を埋めていました。たまに肩が震えました。けれどそれはすぐ、セミの声で消えてしまってわたしにさえ届きませんでした。
十分くらいして、ハハさんが顔をあげました。わたしもハハさんの頭から手を離しました。
「えーっと……」
わたしはまずハハさんにいろいろ聞こうと思いました。ですが出会ったばかりでしたから、わたしはハハさんのことをどう呼べばいいのかすらわからなかったので、まずはそれからでした。
「こんにちは。あなたの名前は?」
ハハさんは一瞬悩んで「言わねえよ。ガキが」と優しく言いました。
「まずあいさつが大事って先生も言ってるわ。だからちゃんとまずはあいさつをしなきゃ」
「偉そうなガキだな、お前は」
そうつぶやくように言ってから「そうだなぁ」と考えるようにハハさんは言いました。
「あたしの名前は……ハハ、かな」
ハハさんは笑いました。それはさっきの言葉を馬鹿にするみたいな、今のわたしには出せない不思議な響きがありました。おとなじゃないと出せないのでしょう。
「ハハ……?」
わたしは疑問符で頭が埋まりました。とても珍しい名前だと思ったからです。
「そう。ハハ。あたしは、ハハ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます