Round.13

 愛する人が近くにいるのに、触れられない。それは、甘美な拷問だった。

 舞踏会から三日が過ぎた。


 カミラは自室の窓辺に立って、庭園を見下ろしていた。薔薇が風に揺れている。青い空に白い雲が流れていく。美しい午後だった。でも、胸の奥に小さな寂しさがある。


 窓ガラスに額を押し当てると、冷たい感触が伝わってくる。外の世界は明るいのに、心の中だけが曇っているような気がした。


 アシュランに、会えない。

 言葉を交わせない日々が、こんなにも長く感じるなんて。


 あの夜以来、彼は忙しいのだと手紙が届いた。政務に追われている、会議が続いている、もう少し待っていてほしい——。


 丁寧な言葉が並んでいたけれど、カミラには分かる。何かが、違う。インクの染み方が、いつもより乱れている。ペンを持つ手が、震えていたのかもしれない。


 手紙は机の引き出しに、大切にしまってある。何度も読み返した。でも、読み返すたびに、彼の声が遠くなっていく気がした。


「カミラ様」

 背後から声がかかった。


 振り返ると、侍女のマーガレットが立っていた。紺色の髪を綺麗にまとめて、凛とした表情をしている。


 カミラより三つ年上の彼女は、いつも的確で、優しい。部屋に入ってくる足音も、物腰も、全てが落ち着いている。


「はい、マーガレット」

「お茶の時間ですよ。それとも、このままずっと窓を見続けますか?」

 マーガレットの言葉には、少しだけ茶目っ気がある。叱るのではなく、そっと促すような口調だ。


「そんなに長い間見ていたかしら」

「ええ」

 淡々と答えるマーガレットに、カミラは慌てて椅子に座った。


 マーガレットが紅茶を淹れてくれる。ポットからカップへ、琥珀色の液体が注がれていく。湯気が立ち上って、優しい香りが広がった。部屋の空気が、少しだけ温かくなる。


「アシュラン様のことで、悩んでいらっしゃるのでしょう?」

「……どうして分かるの?」

「だって、ずっとため息ばかりですもの」


 マーガレットは微笑んだ。その微笑みには、叱責も哀れみもない。ただ、理解がある。

「あの舞踏会の夜から、様子がおかしいですわ。何かあったのでしょう?」

「その……」 


 カミラは頬を染めた。

 あの夜のことを思い出すと、心臓が跳ねる。何度も重ねた口づけ。熱い吐息。背中を撫でる指先——。身体の奥に、まだあの時の感触が残っているような気がする。 


「まあ、その顔!」

 マーガレットが笑った。声を立てずに、でも楽しそうに。

「何があったか、だいたい想像がつきますわ」

「マーガレット!」

「でも、それなのにアシュラン様は会ってくださらない。それが寂しいのですね」

「……うん」


 カミラは正直に頷いた。

 紅茶カップを両手で包む。陶器の温もりが、手のひらに伝わってくる。


「手紙は毎日届くの。でも、会えない。どうしてなのか、私には分からなくて」

 紅茶を一口飲む。温かいけれど、胸の寂しさは消えない。甘い香りが鼻腔をくすぐるけれど、味がよく分からなかった。

「きっと、アシュラン様なりの理由があるのですわ」

 マーガレットが優しく言った。


「男性は不器用ですもの。特に、本当に大切な人の前では」

 その言葉が、カミラの胸にそっと沈んでいく。

 窓の外では、風が木々を揺らしている。葉が擦れ合う音が、遠くから聞こえてきた。




 その夜、カミラは指南書を開いた。

 ランプの光が、ページを照らしている。窓の外は暗くて、星が瞬いていた。部屋の中は静かで、自分の息づかいだけが響いていた。


 古びた紙の感触が、指先に馴染んでいる。何度も開いたページは、少しだけ柔らかくなっていた。

『第十四の秘訣:彼が距離を置く時——それは、愛が深すぎる証』

『男性が急に会わなくなる時、それは二つの理由があります。一つは、愛が冷めた時。もう一つは——愛が深すぎて、自分を制御できなくなった時』

「愛が、深すぎて……」 


 カミラは指南書を見つめた。

 文字が、ランプの光の中で揺れている。まるで生きているみたいに。

 アシュランは、あの夜、何度も言った。「結婚式まで待ってほしい」と。「王家の戒律がある」と。 


 でも、その声は苦しそうだった。まるで、自分自身と戦っているような——。喉の奥から絞り出すような、そんな声だった。

(アシュラン様……)

 カミラは胸に手を当てた。

 会いたい。話したい。せめて、その顔を見たい。

 でも、彼は会ってくれない。

 なぜ?

 窓の外で、夜風が吹いている。カーテンが、わずかに揺れた。




 翌日の昼下がり。

 カミラは庭園を散歩していた。マーガレットが付き添ってくれている。

 陽射しが暖かくて、肌に心地よい。鳥のさえずりが聞こえる。でも、どこか上の空だった。

 薔薇の小道を歩きながら、カミラはあの夜のことを思い出していた。月明かりの下で交わした口づけ。アシュランの熱い手。背中を撫でる指先の、あの丁寧さ。 


 足元の小石を蹴ると、コロコロと転がっていく。その音が、やけに大きく聞こえた。

「カミラ様、あちらを」

 マーガレットが指差した。


 顔を上げると、遠くの回廊に——アシュランの姿があった。

 陽光を受けて白金色に光る髪。黒いジャケットを着て、書類を抱えている。誰かと話しながら、急ぎ足で歩いていく。 


 距離があるのに、彼の姿が、鮮明に見えた。

「アシュラン様!」

 カミラは思わず声を上げた。


 でも——。

 アシュランは、一瞬だけこちらを見た。

 その瞳が、カミラを捉える。サファイアブルーの瞳が、切ないほど優しく——そして、苦しそうに揺れた。


 時間が、止まったような気がした。

 でも、彼は立ち止まらなかった。

 小さく頭を下げて、そのまま行ってしまう。

 背中が、遠ざかっていく。黒い影が、だんだん小さくなる。 


「あ……」

 カミラの手が、虚しく宙を掴んだ。

 胸が、痛い。息が、詰まる。

 喉の奥に、何かが詰まったような感覚がある。言葉にならない叫びが、胸の中で渦巻いていた。


「カミラ様……」

 マーガレットが心配そうに肩に手を置いた。その手が、温かい。


「大丈夫ですわ」

 カミラは無理に笑った。でも、声が震えている。目が、熱い。


「大丈夫じゃないですわよ」

 マーガレットが優しく言った。

「お部屋に戻りましょう。今日は、ゆっくりお休みになって」 


「でも……」

「アシュラン様も、お辛いのですわ。あの表情を見れば分かります」

 マーガレットの声が、静かに響いた。

「あの方は、あなたを避けているのではなく——自分自身から、逃げていらっしゃるのです」

 その言葉が、カミラの心に深く沈んでいく。

 風が吹いて、髪が揺れた。薔薇の香りが、鼻先をかすめる。

  



 その夜、カミラは眠れなかった。

 ベッドに横になっても、目が冴えている。天井を見つめても、何も見えない。月明かりが、カーテンの隙間から差し込んでいた。


 寝返りを打つ。シーツが擦れる音が、やけに大きく聞こえる。

 アシュランの顔が、まぶたの裏に浮かぶ。

 あの苦しそうな瞳。

 会いたいのに、会えない。触れたいのに、触れられない。 


 どうして?

 カミラは起き上がった。

 窓の外を見る。星が、たくさん瞬いている。夜空は深くて、吸い込まれそうだった。


(アシュラン様……今、何を考えているのでしょうか)

 同じ空の下にいるのに、こんなにも遠い。




 同じ夜、アシュランは執務室にいた。

 机には書類が山積みになっている。でも、一つも手がつけられていない。インクの染みが、紙の上で広がっている。ペンを落としてしまったのだ。

 彼は窓の外を見つめていた。

 カミラの顔が、脳裏から離れない。

 あの舞踏会の夜。真紅のドレス。甘い香り。柔らかい唇——。


 身体が、あの感触を覚えている。指先が、彼女の背中の曲線を覚えている。

 彼女の笑顔を見るたびに、心の奥の何かが軋む。理性が、恋にひび割れていく音がする。


「……駄目だ」

 アシュランは拳を握りしめた。

 あの夜、彼は限界だった。もう少しで、全てを忘れるところだった。

 カミラを抱きしめて、ドレスの紐を解いて、その肌に触れて——。

 想像するだけで、身体が熱くなる。


「駄目だ」

 もう一度、自分に言い聞かせる。

 彼には、守らなければならないものがある。

 王家の戒律。結婚前に、花嫁に深く触れてはならない。

 それは、代々受け継がれてきた掟だ。 

 でも——。

「それだけじゃない」

 アシュランは目を閉じた。 

 本当の理由は、もっと深いところにある。暗くて、冷たいところに。


 幼い頃、彼はカミラを——閉じ込めた。

 大好きだから。誰にも渡したくなかったから。ずっと一緒にいたかったから。


 でも、カミラは泣いた。

 怖がって、震えて、泣いた。

 その時、アシュランは理解した。

 自分の愛は、時に——相手を傷つける。

「だから、僕は……」

 アシュランは窓に額を押し当てた。ガラスが、冷たい。

「君を、壊してしまうのが怖い」


 机の上には、カミラへの手紙が置かれている。

 何度も書き直した手紙。でも、本当のことは書けなかった。破り捨てた紙が、足元に散らばっている。


『愛しているから、会えない』

『触れたいから、触れられない』

『君を守りたいから、距離を置く』

 そんな矛盾した想い。

 カミラには、伝えられない。

 月が、窓の外で冷たく光っている。




 翌朝、カミラは再び手紙を受け取った。

 アシュランからの手紙。丁寧な文字で、こう書かれていた。でも、よく見ると、文字が少しだけ震えている。


『カミラへ。

 会えなくて、ごめん。

 でも、これは君のためなんだ。

 僕には、守らなければならない戒律がある。

 王家に代々伝わる大切な掟。

 結婚前に、花嫁に深く触れてはならない——。

 それを破れば、不幸が訪れると言われている。

 だから、結婚式まで、もう少しだけ待っていてほしい。

 君を愛している。誰よりも。

 アシュラン』


 カミラは手紙を読んで、涙がこぼれそうになった。

 紙が、わずかに震える。握る手に、力が入らない。

「戒律……」

 マーガレットが隣で、静かに言った。


「でも、カミラ様。これは、本当の理由ではないかもしれませんわ」

「え?」

「男性が『戒律』や『ルール』を理由にする時——本当は、もっと深い何かを隠していることが多いのです」

 マーガレットの紺色の髪が、朝日に揺れた。窓から差し込む光が、彼女の横顔を照らしている。

「アシュラン様は、何かを恐れていらっしゃる。あなたを失うことを。あるいは——」

「あるいは?」

「あなたを、傷つけてしまうことを」

 その言葉が、カミラの胸に沈んだ。

 そうだ。あの夜、アシュランは言った。

「君を、驚かせてしまった」と。

 まるで、自分が何か悪いことをしたかのように。罪を犯したかのように。


 でも、カミラは全然驚いていなかった。むしろ、もっと——。

「私……アシュラン様に、会いたい」

 カミラは立ち上がった。椅子が、ギシリと音を立てた。

「このまま待っているだけじゃ、何も変わらない」

「その意気ですわ!」

 マーガレットが笑った。瞳が、策を思いついたように輝いた。


「では、作戦を立てましょう。どうやって、あの頑固な王子様に会うか」

「作戦?」

「ええ。正面から行っても、きっと逃げられますわ。ならば——」

 マーガレットの目が、いたずらっぽく光った。

「少しばかり、策を弄しましょう」

 二人の視線が、合う。そして、同時に笑った。




 その日の夕方。

 アシュランは執務室で書類と格闘していた。

 会議が続いて、頭が痛い。こめかみを押さえても、痛みは引かない。でも、仕事に集中すれば、カミラのことを考えずに済む——はずだった。


 でも、無理だった。

 どれだけ書類を読んでも、彼女の顔が浮かぶ。文字が、彼女の赤い髪の色に見える。

 あの赤い髪。グリーンアイ。柔らかい唇——。

「……集中しろ」

 自分に言い聞かせる。

 その時、ドアがノックされた。コンコンと、優しい音。

「アシュラン様、お茶をお持ちしました」

 侍女の声。聞き慣れない声だった。

「ああ、入って」

 アシュランは書類から目を離さなかった。

 ドアが開いて、足音が近づいてくる。床を踏む音が、規則正しく響く。


 ティーカップが、机の上に置かれた。陶器が、木にぶつかる小さな音。

 良い香りが漂う。紅茶の香りと——何か、甘い香り。

「ありがとう」

 アシュランは顔も上げずに言った。

 でも——。

 その香りに、何か覚えがある。

 甘くて、優しくて、どこか懐かしい——。

 ハッとして顔を上げると——。


 そこには、侍女の服を着たカミラが立っていた。

 赤い髪を後ろでまとめて、エプロンをつけている。グリーンアイが、いたずらっぽく輝いていた。まるで、悪戯に成功した子供のように。

「……カミラ!?」

「こんばんは、アシュラン様」

 カミラがニッコリ笑った。その笑顔が、夕日に照らされて輝いている。

「お茶、お持ちしました」

「どうして、君が……」

「マーガレットに頼んで、服を借りたの」


 カミラはクスクスと笑った。声が、鈴のように響く。

「だって、会ってくれないんですもの」


 アシュランは言葉を失った。

 可愛い。可愛すぎる。そして——。

 会いたかった。こんなにも。

 胸が、締め付けられる。

「カミラ……」

「アシュラン様」

 カミラが一歩近づいた。床がきしむ音。

「どうして、避けるの?」

「避けてなんか——」

「嘘」

 カミラの瞳が、まっすぐアシュランを見つめた。

 その瞳に、全てを見透かされているような気がした。


「あなたは、私から逃げている」

 その言葉が、アシュランの胸を突き刺した。

「……ごめん」

「謝らないで」

 カミラがもう一歩近づく。彼女の体温が、空気を伝わって感じられる。

「ただ、理由を教えて欲しいのです。本当の理由を」

 アシュランは目を逸らした。


 言えない。あの夜のことも、閉じ込め事件のことも。全部、言えない。

「僕には……戒律があるんだ」

「それだけ?」

 カミラの声が、優しく響いた。

「本当に、それだけなの?」


 沈黙が落ちた。

 夕暮れの光が、二人を照らしている。窓の外で、鳥が鳴いた。

「……カミラ」

 アシュランがゆっくりと顔を上げた。

「僕は——」

 でも、その先の言葉が出てこない。

 どう説明すればいいのか。

 この想いを。この恐怖を。全部。

「君を、愛しすぎているんだ」

 ようやく、そう言った。声が、震えている。

「触れたい。抱きしめたい。君の全てを、知りたい」

「でも?」

「でも……怖い」

 彼女の笑顔を見るたびに、心の奥の何かが軋む。理性が、恋にひび割れていく音がする。

 アシュランの声が、震えた。


「君を、壊してしまうのが」

 カミラは、静かにアシュランの手を取った。

 その手が、温かい。生きている。


「私は、壊れたりしませんわ」

 その手が、アシュランの手を包む。

「アシュラン様が思っているより、ずっと強いの」

「カミラ……」

「だから」

 カミラが微笑んだ。夕日が、彼女の顔を照らしている。

「もっと、私を信じて」

 夕日が、二人を優しく包んでいた。

 アシュランの心に、小さな光が灯る。

 でも、まだ——全ては話せない。

 あの夜のことを。

 全てを。

 閉じ込めた記憶を。

 婚前交渉バトル——。

 二人の距離は、少しだけ縮まった。


 でも、まだ明かされていない秘密がある。


 王子の過去。

 そして、まだ癒えぬ傷。

 そのすべてが明らかになる日は——もうすぐ、訪れる。

 その夜の月が、まるで二人の過去を照らすように輝いていた。

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