ラブレター・フロム・シナリオライター
仮住まい
プロローグ
いつも腰掛ける定位置が空いていないのはまだ納得がいく。だがその席を埋めているのは普段、図書室に寄りつきもしない人々なのだから複雑な気持ちになった。テスト準備期間なので仲間内で問題を解き合うのは意欲的で素敵だけれど、静かに本のページを手繰りたかった僕にとって居心地が悪い。
今日中に読み終えて返却すれば、新しい一冊を持ち帰ることができる。
だから真夏日だってのに、クーラーの効いた室内を捨ててさまよい歩く羽目になっているのだ。廊下は窓を全開にしていても、うだるような暑さで気力と行動力を奪い去る。
放課後の教室は空調を切られているし、学食に行こうものなら喧噪は図書室の比じゃないだろう。熟慮の末、屋上へと脚が向かった。綺麗に整備された空の庭園は生徒たちに人気のスポットだが、この日射しでは誰も寄りつかないだろう。
最低限の日陰さえあれば、地べたに座ろうと構わない。うるさいよりはマシだろうと。
扉を開いた。
当てが外れた。
「君の恋わずらいをなおしてあげよう。君が僕のことを彼女の名で呼んで、毎日僕の小屋に来て口説いてくれれば……ね」
真正面から叩きつけられた音圧は、荒々しい台詞というわけではなかった。なのに力強く鳴って、言葉の輪郭がはっきり感じ取れた。エネルギーの塊がドンと心臓に打ち込まれたような気がした。
シェイクスピアの戯曲だ、翻訳された文庫版をかつて読んだことがある。
ほんの十数秒の台詞だ。劇を通しで見ていたわけでもない。なのに、声の主から目が離せなくなってしまう。
自分が開いた扉は本当に屋上へと続いてるものだったのか。異世界に召喚されたのかもしれない。それほど、彼女の周りの空気は異質で、そこだけ灼熱の屋上からくり抜かれてしまったかのように涼しげだ。
まるでアーデンの森に迷い込んでしまったかのように。
こちらが戸惑い動けずにいると、相手は僕を視認し、固まる。そして憑き物が落ちたような顔をした。
纏っていたオーラが散っていく。色っぽさを感じさせた表情はみるみる自信なさげになっていく。誰か来ることを想定していなかったのだろう。
僕にも経験がある。早朝の散歩で誰もいないと思って歌を口ずさんでいると、死角から急に人が現れたときのような、なんとも言えない恥ずかしさ。
役が剥がれた彼女を観察すると、二度目の衝撃に襲われる。
クラスメイトである。だが、教室での姿とは別人のようだった。目まで隠れてしまうような野暮ったい前髪は横に払われて、普段とは違う明るい印象だ。かろうじて彼女だとわかったのは、いつもしている大きな眼鏡がおでこにかけられていたからで。顔を覆うアイテムから解き放たれた美貌は、学園でもトップクラスじゃないかと思わされる。
けれど何より、驚かされたのは、彼女の――
「声」
僕の第一声にびくりと身体を震わせる。そして急いでマスクを装着し、教室で肌身離さず持ち歩いているあのボードを取り出す。
『西城くん こんにちは』
距離を詰めてきて、画面に書かれた文字をこちらに見せてくる。
大森雲雀のコミュニケーションはいつもこうだった。
入学して数ヶ月同じ教室にいたが、彼女の肉声を聴いたのは初めてだった。常にマスクを外さず、喋らなければいけない場面ではこうしてホワイトボードやタブレットに文字を書き相手に伝えている。詳しくは知らないが聞こえに問題はないようだから、こちらは肉声で話しかける。
「こんにちは大森さん」
あの流行病以降、マスクを着けたままなのも極力会話を控えたがるのにも一定の理解は得られていたので、輪から外されるようなことはなかったみたいだ。
『見ましたよね?』
「見なかったことにした方がいいかな」
『平気』
『私 演劇部員なので』
「稽古をしていたんだね」
うんうん頷いて。
『だから喉を大切にしてます』
『声は出せるけど こんな形でごめんなさい』
なるほど徹底している。僕や周りとの会話が苦痛だから、というわけではないらしい。
「謝ることじゃないと思う。僕は気にならないよ」
伝えると、申し訳なさそうな笑みを浮かべた。偏見も誤解も多く招いていそうで、これまでの苦労が窺える。
『そう言ってもらえるとうれしい』
学生がそうしているから目立つだけで、これがプロの歌手だったら、声優だったらその意識の高さは称賛されているだろう。
台詞をより輝かせるために彼女の中で磨き上げられた声なのだ。
「綺麗な声だったよ。舞台で演じるなら、また観たいな」
それは大森雲雀自身の声ではないのかもしれない。役を演じるために作り上げたものだとしても、僕はもっと触れてみたいと思ってしまった。夏休み前に稽古しているなら、文化祭などでやるのだろうか?
僕と同じ一年生の彼女がどこまでの役を任されるのだろう。今まで観劇などしたことはなかったが興味が出てきてしまった。シェイクスピアなら有名どころは読んできているし、またあの声を聴けるなら――
気づく。
大森さんは文字を書き直すのも忘れ立ちつくしていた。
「ごめん。いきなりこんなこと言われても困るよね」
再起動したみたい。横にぶんぶんと首を振る、ミディアムボブのヘアスタイルが散らばる。
『いやいやいや』
『ほめていただくほどのレベルでは』
「そうなんだ。僕は素敵だと思ったのだけど」
謙遜しているだけなのか、本当に彼女レベルはごまんといるのかはわからない。素人に過剰に褒められても居心地が悪いだろうし、僕が受けとった感動は後からゆっくり咀嚼するとしよう。
しばらくは、さきほどの光景を忘れることはできないだろうから。
「稽古の邪魔してごめんね。熱中症に気をつけて」
わざわざ立っているだけで汗が噴き出すような場所を選んでいるのだ。誰にも観られたくなかったのかもしれない。あまり長居しても迷惑だろう。
『西城くんは 屋上 用があったんじゃないの』
「あ」
僕はそもそも読書する場所を求めてここへ来たのである。指摘されなければこのまま帰宅の途についていたところだ。
「本を読みに来たんだ。図書室が満席でね」
『テスト期間だもんね 私も』
『部室使えなくて』
「熱心なんだね。テスト前なのに」
『好きだから 芝居』
『あなたは』
独特の間がある。記憶を手繰っているようだ。
『勉強余裕あるんだもんね』
別に入学直後の中間試験でいい成績だったくらいでおつむの出来は測れないと思うが。成績掲示板にでかでかと名前が載ったせいで彼女の印象にも残っていたらしい。
「普段から予習復習をしているから、テスト前に詰め込む必要がないだけだよ」
そう。帰宅部の僕はテスト期間だろうが生活のルーティーンは変わらない。下校時刻まで図書室の本を読み、帰宅したら勉強をして眠る。色のない人生だ。
『すごいね じーにあす』
僕自身大したことではないと思うが、否定すると褒めた側がすこし寂しくなってしまうことを学んだので、素直に礼を言うことにする。
「ありがとう」
『今度わからないところ聞いていい?』
「お役に立てるかはわからないけど、どうぞ」
『私も 稽古ばかりしてないで勉強しないと』
「それじゃあもうすぐ夏休みだし、お互いがんばりましょう」
落としどころを見つけて、軽く手を振って、いい去り際だろう。
二歩、進めたところで急に手首を掴まれる。
予期せぬ刺激に身体を震わせたあとで、理解した。彼女は呼び止める際にも声を発しないのだ。びっくりさせるなあ。
「どうかしたかな?」
僕を捕縛しているのとは逆の手で、かばんのポケットをごそごそ探っている。そうしているうちも当然、言葉は綴れない。
身構えていると、やがて僕の目の前で握り拳をほどいて見せた。
受け取ると、彼女は再びホワイトボードを持ち。
『友好の証』
これまたケアの一環なのだろう。はちみつ入りのど飴をくれた。
『飴ちゃんどうぞ』
お返しに何かないか、僕も制服のポケットをかき回すが空だった。
「ありがとう。もらっておく」
彼女はにこりと笑って、手をひらひら振ってくれる。
今度こそ下層階へ続く階段を進む。
暑いな。やっぱり屋上はやめておいた方がよかったかも。
だらしないのはあまり好きではないのだけれど、シャツのボタンを三つ外して胸元に風を送り込む。
「ふぅー……」
暴れている。脈と鼓動が。暑い。熱い。趣味でサウナにはよく行くけれど、これほど心拍数が上がったことはなかった。
ここに水風呂があれば。今すぐシャワーでいいから水を頭にぶっかけてこの情動を冷ましたい。
関わった多くの人々にポーカーフェイスと称されてきた僕が、なんてざまだ。
「……よし」
まず自分に枷をはめる。浮かれてはならない。
もう一つ。期待してはいけない。
そしてもう、知る前には戻れないのだと覚悟する。
画面や文字の向こう側にしか存在しないと思ってた。まさかこの僕が、と半信半疑のまま心の有り様を丁寧に観察する。
16年間生きてきて初めての情動だ。とりあえず落ち着くことだ。暴走して熱に身を任せたなら破滅が待っているだろう。最悪のケースまで想定して慎重に扱わないといけない。
相手は得体のしれない感情だ。時間をかけてじっくり分析することにする。
努めて冷静であれと自分に言い聞かせながら校舎をあとにする。
本の返却忘れに気がついたのは、駅で電車に乗り込んだ瞬間だった。
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