第2話 祇園囃子の数え


 七月の京は、熱そのものよりも湿り気が身を包む。

 石畳の継ぎ目から立ちのぼる土の匂いに、線香の煙が薄く重なる。耳の奥では蝉声が絶えず揺れ、遠くから祇園囃子の笛や太鼓が重なって届いてきた。


 鉾建てを知らせる木槌の音も風に混じり、町全体が祭りに向かって数を増しているように思える。


 そのざわめきから一歩奥に入ると、北野天満宮の境内が広がった。

 この社は、平安の昔に菅原道真を祀って創建されたと伝わる。怨霊を鎮めるために建てられたものが、やがて「天神さま」として学問の守り神に変わり、今では江戸や長崎からも参拝者を呼び寄せている。


 牛を愛した道真にちなむ撫で牛の像が置かれ、頭を撫でれば学業が叶うと信じられていた。祇園祭の華やぎに比べれば穏やかで、白砂の上には控えめな静けさが漂っている。


 楼門をくぐると、外の喧噪がまたひとつ遠ざかる。

 朱の柱が背後に残り、目の前には白砂の参道。光がきらめき、影が淡く揺れていた。


 参道の左右には石灯籠が並び、蝉の声と混じって小さな鈴の音がどこからか響く。

 軒下には旅人が腰を下ろし、手拭いで汗を拭っていた。撫で牛の背を撫でる子ども、護摩木を手に祈る女。人々の動きは多いのに、不思議と静けさが境内に漂っていた。

 

 その白砂の眩しさを背景に、一人の青年の姿が浮かび上がる。

 津藩の紺の羽織を暑さに耐えかねて脇に抱え、少しお上りさんのように周りを見回しながら境内を歩んでいた。


 奥の本殿の朱と緑が、白砂の明るさに浮かびあがる。

 瓦の重なりは幾重にも反り返り、思わず数えそうになるほどだ。

 「……柱の数も、藩の算盤より多そうですね」

 滝川澄弥たきがわ・すみやは小さく洩らし、自分でふっと笑った。


 ――あの夜から、すでに三年。


 十七の齢を迎えた澄弥の顔立ちは、まだ白めの頬に少年の面影を残しながらも、灰がかった茶の瞳は光を受けるたびに静けさを宿し、冷ややかな印象を帯びつつあった。

 黒に近い濃茶の髪は肩で揃えられ、涼やかに結い留められている。

 細身ながら背筋は真っ直ぐに伸び、鍬を振り、米俵を担いだ力が肩や腕に確かに残っていた。


 その手の指先は、刀の柄よりも帳簿や算盤を扱う所作に馴染んでいる。

 目に見えぬ勘定を数えるように、無意識に軽く動きを刻んでいた。


 そうした仕草とは裏腹に、衣装は旅の痕跡を隠せない。

 結び目や帯こそ正しく整えられているものの、裾には土埃が薄く残り、襟元の麻には汗の跡がにじんでいた。


 本殿の前に進むと、澄弥は掌を合わせ、額をそっと離した。

 声にはせず、心の中でだけつぶやく。

 ――数が、揃いますように。


 ふっと口元が緩む。

 「……どうせ父上は、“母さんの小言の数が減りますように”と祈れ、と言うでしょうけどね」


 白砂に落ちる影が揺れ、数えきれぬ人々の願いに混じるように、その祈りも夏の光に溶けていく。


 本殿での祈りを終えると、澄弥は袖で額の汗を拭った。

 「父上への土産に……お守りでも」


 授与所を探そうと視線を巡らせる。


 参道の端に、不意に音の途切れる一角があった。

 軒下の影に、人影が立っている。


 夏の光に沈み、ざわめきにも混じらず、ただ影の一部のように。

 胸の奥で音を立てるように揺れ、澄弥の身体は前へ動いた。


 一歩、二歩。速さを増して影へ踏み込む。


 黒髪は光を拒むように艶を沈め、輪郭の白さだけが浮かび上がる。

 腰の刀の柄は、さらに深く影へ沈んでいた。


 影が輪郭を結ぶほどに、冷たいものがせり上がる。

 白石を鳴らして足が止まった。身体の奥から、勝手に。


 喉が鳴る。


 口が動いた。だが声を忘れ、心も数を探せなかった。

 「……」


 本殿の軒を揺らす蝉声。柏手の乾いた響き。遠くの囃子。

 夏の線香の匂いが風に流れ、ざわめきが二人の間を埋めた。


 やがて影の人がわずかに顔を向ける。

 伏せられた墨の瞳に青い光が流れ込み、揺らめいた。

 白亜の磁器が薄く裂けるように、唇が静かに開いた。


 「……すまなかった」


 澄弥の呼吸が止まる。

 小さく息を吸い、声を探すように口を開く。


 「……時雨しぐれ兄さん」


 笑みとも嗚咽ともつかぬ響き。喉が震え、言葉がかすれた。


 「……その言葉を聞くには、まだ私の数字が揃っていないんです」


 こわばった指が、見えない算盤を刻むように拍をつくる。

 口の端に笑みを貼りつけて、さらに続けた。


 「祭囃子の音に混じれば、まだ耳にやさしいんですけどね」


 その声は、境内のざわめきに消えていった。

 影の中の男は答えず、視線を前に戻した。


 「……歩こうか」


 それだけを残し、回廊を抜けてゆく。



 楼門を出ると、京のどこからともなく祇園囃子が重なって響いていた。

 笛と太鼓の調べが風に運ばれ、格子戸の奥からは団扇であおぐ涼しさが洩れてくる。


 子どもが菓子をねだる声、出店の呼び込み。

 賑わいの中で、二人の影だけがまっすぐに並んだ。


 澄弥は言葉を探し、軽く肩をすくめた。

 「……事件のあと、父に鍬を握らされましてね。帳簿よりも土の数字に触れていました」


 口元に笑みを刻む。

 「父は数字を追って笑ってばかり。母は呆れ顔で支えていましたよ」


 時雨は一度だけ頷いた。

 「……そうか」


 沈黙が戻る。

 祭の華やぎに混じっても、二人の間には間隙が残っていた。


 やがて澄弥が、前を見たまま言った。

 「藩邸へは……旅籠で身なりを整えてから伺うつもりです」


 時雨は足を止めず、ただ短く。

 「案内する」


 その声以上は続かず、二人の影は人波に溶けていった。


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