朝を待つきみへ
夏
第1章
第1話 明けない夜の監視者
【明けない夜はない】――こんなふざけた
いかにも、楽観主義に浸った帝国主義者達が考えそうな言葉だ。
明けない夜がないと信じるなんて、単なる現実逃避に過ぎない。
夜を受け入れ、その中で適応しながら前に進んでいくこと。
それこそが、人としての真っ当な生き方だというのに。
♔
国営放送のスピーカーが、朝の広場を切り裂くように響き渡った。
「――⚫︎月✖️日未明、我が国の四大英雄のひとり、アイビーが消息を絶ちました。政府は国外逃亡の可能性も視野に入れております。国民は不審な人物を見かけ次第、速やかに最寄りの監察団へ通報してください。繰り返します――」
広場に立ち止まった人々は無表情のまま耳を傾けているが、その瞳の奥には微かなざわめきが見え隠れしていた。
恐れ、不安、そして疑念。
彼らの目を見た瞬間にそれが胸の奥へ流れ込んできて、私は思わず呼吸を整える。
「ちょっと、シア。ぼさっとしないで」
横から私を呼ぶ声がして、はっと我に返った。
「べ、別に、ぼさっとなんてしてないけど。それよりセン、今日の案件は何だっけ」
「やっぱりぼさっとしてるじゃない」
センはため息を吐いて、きっぱりとした足取りで歩き出す。
「今日の案件は、親を告発した子どもがいるって報告。急ぐわよ」
センの背中を追いかけながら、私は放送の余韻を引きずってしまう。
――英雄が裏切り者になったなんて、どうしてこんなに大きく報じるんだろう。
広場の壁に佇む役人が、私たちの動きを無言で追っている。
見慣れたはずの視線が、今日はいつもより妙に重く感じた。
生まれてから死ぬ瞬間まで、どこまでも張り巡らされた監視の糸に絡め取られている。
幼い頃からそれが''正しい''のだと教えられてきたし、実際に監視があるおかげで大きな犯罪は滅多に起きない。
誰もが''正しく''生きていれば、罰を受ける理由はない――建前では、そういうことになっている。
けれど、あの国営放送を聞いた群衆の目に、抑え込まれた恐怖が滲んでいたのを、私は見逃せなかった。
あの人たちは、どれだけ正しく生きていても、どこかで「次は自分かもしれない」と怯えている。
「シア、考えすぎ。顔に出てる」
センが振り返りざまに、わずかに眉をひそめた。
「
そう言って前を向くセンの横顔は、いつも冷静で隙がない。
私より1つ上の先輩というだけで、もう立ち居振る舞いが完全にエリート
私たち思想監視課は、その中でも特に"国民の心の揺らぎ"を取り締まる部署だ。
工作員が国外で活動するのに対し、私たちは国内で国民を監視する。
どちらも国家を守るための職務。
……ただし、その守る方法はまるで違う。
私は本当なら、工作員になりたかった。
敵国に潜入し、国を脅かす存在を排除する――華やかで誇らしい、国民なら誰でも一度は憧れる職業。
だけど私は、その道を退いた。
いや、とある理由で退かされたのだ――。
♔
現場は、路地裏にある古い集合住宅の一角。
センが手をかけると、鉄の扉は思いのほか軽く開いた。
中から漂う湿った匂いに、私は無意識に息を止める。
「思想監視課です。密告を受け、確認に来ました」
センの声は冷ややかで、相変わらずよく通る。
室内には、若い母親と小さな男の子がいた。
母親は蒼白な顔で膝を折り、必死に頭を下げている。
「ちがうんです、私は……! そんなつもりじゃ……!」
その声を遮るように、壁際にいた役人が母親の口を乱暴に塞いだ。
無機質な声で、記録データを読み上げる。
『コウメイ第二幼稚園担任教諭の証言:当該市民が国営放送中に“疑念”を口にした旨、朝の監視発表において実子より告発あり』
心を許した家族――ましてや幼い息子の前で、ほんの少し疑念を口にしただけで、粛清されてしまう。
国にとって都合の悪い言葉は、どんなに小さくても罰の対象になるのだ。
「お母さん……」
小さな男の子が母親の袖を不安そうに掴む。
――その瞬間、母親の感情が私の視界に流れ込んできた。
愛する息子に密告された絶望。未来への恐怖。押し殺した叫び。
まるで氷水をかぶったみたいに、全身が震える。
「――シア」
センの声が、私を現実に引き戻す。
彼女の瞳は、まるで訓練された兵士の鏡のようだ。
「シア、早く記録して」
私は慌てて端末を取り出し、事件記録に入力していく。
“疑念の言葉を発した市民を確認。思想監視課により連行を決定。”
淡々と、決まりきった文章を打ち込んでいく。
やがて母親は腕を掴まれ、何度も子どもを振り返りながら執行課に連行された。
取り残された部屋は、ひどく静かで――何が起きたのか理解していない幼い息子が、呆然と取り残されている。
……これが、私たちの仕事。
国家に背く芽を、見逃さずに摘み取ること。
そして、国家にとっての「正しさ」を、守り抜くことだ。
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