18 月光

 風呂に入ってから、布団にもぐった。

 けれど、目が冴えて眠れなかった。

(……つまんねえの)

 クラウスさんのことを、考えてしまう。あんな店に行ってほしくないと思う。でも、一夜限りの相手だからいいのかも。恋人ではないってことで。クリスティーナさんへの想いを裏切ってないってことで……。

(そう言えば、なんか、あのおじさんたち、あいつらに雰囲気似てたな。あいつら、元気にしてるかな)

 エレノアねえさんが迎えに来たときに一緒にいた友だちのことを思い出して、ちょっと笑った。けれど、

(あれ?)

 あいつらの名前、なんだっけ? 顔は……どんなだっけ?

 俺は焦った。

(名前っ、名前っ……、じゃあ、俺の名前は? ……俺の名前は、ゆう)

 ゆう。

 ユウ。

 でも、漢字を思い出せない。

「……っ」

 こうやって、忘れて行くんだ。


 鍵の音がしてから、ドアが静かに開いた。クラウスさんが帰って来た。俺はそっと布団を引っ張って顔を隠す。

 足音や箪笥を開く音が小さい。クラウスさんは、なるべく音を立てないようにしているようだ。そして、なぜか俺のベッドの横で気配が止まった。

(あ)

 クラウスさんが俺の髪に触った。でも、ほんの少しの時間だった。気配が離れる。また、髪が濡れているのが気になったのかな?

 俺はクラウスさんの気配を追って、耳を澄ます。でも、我慢できなくて、そっと顔にかかる布団をずらした。

 クラウスさんはベッドの縁に腰を下ろしていた。ベッドは窓側で、クラウスさんはこちらに背を向けていて、月光に照らされている。上着はベッドの上。クラウスさんはシャツをずらして左肩を出していて、首を横にして、そこに目をやっていた。

 俺は起き上がった。

 この旅で、クラウスさんは、俺より先に寝たことがない。俺より遅く起きたことがない。俺が起きているときに着替えをしたり、風呂に入ったことはない。あの森以外で、クラウスさんの寝る姿を、俺は見たことがない。

「クラウスさん」

「ユーリ!?」

 クラウスさんが驚いたように振り向く。シャツを戻しながら。「どうしました? 目が覚めましたか?」

 俺はベッドから降りて、裸足のままクラウスさんの元へ行った。

「クラウスさん、俺……」

「ユーリ。さあ、座って」

 横に立った俺を見上げて、クラウスさんは言った。

 俺はクラウスさんの隣に腰を下ろした。クラウスさんは、右手の曲げた人差し指で、俺の目元を拭いた。

「泣いていたんですね」

「友だちのことを思い出して。ずっと仲良くて、一緒にサッカーしたり、遊びに行ったりしたのに、でも、俺、あいつらの顔や名前を思い出せなくて……。でも、俺が言いたいのは、そんなことじゃなくて」

 俺は、クラウスさんの左肩に、右手を寄せた。「これ、俺のせいですよね」

 シャツの下には痣がある。宙で手を止めたのは、布越しでも、触れたら痛むかもしれないから。

「ちがいますよ」

 クラウスさんは、俺の右手を両手で包んで、ベッドの上、二人の間に置いた。

「でも、クリスティーナさんが教えてくれました。窓から落ちて俺にかすり傷ひとつなかったのは、クラウスさんのおかげだって。魔法で、魔力で、あのとき、俺を守ってくれたんですよね。自分よりも俺を優先して。俺に気を使わせないために、大丈夫だって言ったんでしょう? それに、あの森でも、クリスティーナさんがやってくれたみたいな治癒の魔法をかけてくれたんですよね。俺、朝起きたとき、全然体が痛くなかった。あんなに転んで、木にだって思い切りぶつかったのに」

「……あの二人には、内緒にしてくれって頼んだのに」

 クラウスさんは、つぶやくように言ってから、俺にほほ笑みかけた。「ユーリ。私があのとき大丈夫だと言ったのは、恥ずかしかったからです。ユーリを守ったから自分を守れなかった、などというのは、己の能力不足だから」

「嘘だよ、能力不足なんて。クラウスさんは魔法使いにもなれたのに軍人になったんですよね? 討伐隊にだって、能力があるから呼ばれるんでしょう? すごくできる人なんだって、俺にだって分かる」

「ユーリ。上には上がいるんですよ。私が魔法使いを選んでも、上にはなれなかった。いえ、上に立つ人のそばに、いることはできなかった」

「それって……」

 クリスティーナさんのことですよね、と言いかけたが、やめた。今、この空間に、他の誰かの名前を出したくなくて。「……じゃあ、俺にばっかりじゃなくて、自分のために魔力を使ってください。怪我を直してください」

 俺はクラウスさんの両手の中から、手を引き抜いた。

 クラウスさんは、両手を膝の上に置いた。

「もう治りかけています。何度も薬を塗りましたから。痛みはほぼないんですよ」

「そうじゃなくて、自分に治癒の魔法をかけて、ちゃんと治してください」

「治癒の魔法?」

 ああ、と納得した顔で、クラウスさんは頷いた。「ユーリ。治癒魔法は、自分にはかけられないんです」

「なぜですか?」

 俺はじれったくなる。

「治癒魔法は、相手を思う心が必要だからです」

「え……。相手を、思う?」

 クラウスさんは、こくりと頷いた。俺は、その青い目を見つめた。クラウスさんは、困ったように目をそらす。

 俺は立ち上がった。

「クラウスさんっ」

「ユーリ?」

 クラウスさんは、見開いた目で俺を見上げた。

「俺、俺っ」

 言葉をつっかえさせながら、俺は思わず両手を伸ばした。すると、

「ユーリ……」

 クラウスさんが受け止めるように、それぞれ自分の手を重ねてくれた。

(よし!)

 気合が入った俺は、

「俺、治癒魔法、やってみる!」

 と宣言した。


「ユーリ。無理しないでください。治癒魔法はとても高度な魔法ですから」

「あ、クラウスさん、今白状した。治癒魔法ができる自分は能力があって優秀だって」

「い、いえ、そういうことでは」

「とにかく、やらせてください。お願い!」

「では、集中して。自分の魔力を注ぎ込むことをイメージして。魔力の調整が大事ですよ」

 そんな会話をしたあと、俺はクラウスさんのベッドにのった。クラウスさんにはベッドに腰掛けたままでいてもらって、俺は後ろで両膝をついて、その背中と向き合った。

 クリスティーナさんは片手を当てて治癒魔法をかけてくれた。つまり、未熟な俺はその倍がいいだろう。

 クラウスさんの左肩に両手をそっと当てた。すると、クラウスさんがわずかに動いた。

「痛いですか?」

「……いえ」

 クラウスさんの声がかすれた。やっぱり、まだ痛むのだ。

 俺は目を閉じた。

 集中。

 深呼吸。

 イメージ。

 相手を思う心。

 相手を……。

 クラウスさんを――。

 魔力が、体中を巡るのを感じた。

 そして――。

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