二つの果実 ~母と娘の蜜月~

舞夢宜人

第1話 オレンジ色の期待

 オレンジ色の光が部屋を支配していた。

 壁に置かれた間接照明が放つ柔らかな灯りは結衣の白い肌を艶かしく照らし出し現実の輪郭を曖昧に溶かしていく。空気中には甘く穏やかな香りが満ちていた。アロマディフューザーから立ち上る白い煙が照明の光を受けてゆらりと揺れる。ラベンダーだろうか。それともベルガモットだろうか。彼女の優しさをそのまま香りにしたようなその匂いは俺の緊張を少しだけ解きほぐしてくれる。


 俺と結衣はベッドの上にいた。

 二人ともバスローブを羽織っただけの姿で隣に座っている。触れ合いそうで触れ合わない微妙な距離がもどかしい。沈黙が部屋を支配していた。しかしそれは気まずいものではない。これから始まる神聖な儀式を前にした静謐な時間だった。長かった就職活動が終わり互いの進路が決まった安堵感。そして大学卒業という一つの時代の終わりを目前にした感傷的な気持ち。それらが混じり合って俺たちの間に特別な空気を作り出していた。


 俺は視線を結衣に向けた。

 彼女は少し俯いて自身の指先を見つめている。長いまつ毛が頬に小さな影を落としていた。その大きな瞳は不安と期待で潤んでいるように見える。普段から雪のように白い肌は今はほんのりと上気して桜色に染まっていた。その全てが愛おしくてたまらない。


 大学の講義で初めて彼女を見かけた日のことを思い出す。

 大教室の中でひときわ輝いて見えた。清純で健気なその笑顔に一瞬で心を奪われた。自己肯定感が低く何事にも自信が持てなかった俺にとって彼女の存在は暗闇を照らす一筋の光だった。勇気を振り絞って声をかけ初めてのデートに漕ぎつけた日の高揚感。公園のベンチで震える手で彼女の手に触れた瞬間の感動。全てが昨日のことのように思い出される。


 結衣との交際は常に純粋だった。

 手をつなぎキスを重ね互いの愛情を確かめ合ってきた。しかしその先に進むことにはどこか臆病になっていた。彼女は俺にとってあまりにも神聖な存在だったからだ。汚してはならない聖域のように感じていた。だが今夜は違う。就職活動という大きな試練を乗り越えた俺たちはもう学生ではない。大人としての新しい一歩を踏み出すのだ。これまでの純粋な時間は全てこの瞬間のための長い長い序章だったのだと俺は確信していた。


 不意に結衣が顔を上げた。

 潤んだ大きな瞳がまっすぐに俺を捉える。

「佑樹くん」

 鈴を転がすような可憐な声が俺の名前を呼んだ。その響きだけで俺の心臓は大きく跳ね上がる。俺はゆっくりと手を伸ばし彼女の柔らかな髪に触れた。指先に絡みつく絹のような感触。ふわりと漂うシャンプーの甘い香りが俺の理性を揺さぶる。

「大丈夫だよ結衣」

 俺は囁いた。

 それは彼女に言った言葉であり同時に自分自身に言い聞かせた言葉でもあった。結衣は何も言わずにこくりと頷く。そして俺の手にそっと自分の手を重ねた。華奢で小さなその手は少しだけ冷たく微かに震えている。しかしその仕草には俺への絶対的な信頼と全ての運命を委ねるという固い覚悟が込められているように感じられた。


 もう言葉は必要なかった。

 俺は結衣の肩を優しく抱き寄せた。華奢な体が腕の中にすっぽりと収まる。彼女の温もりと柔らかな感触が直接肌に伝わり背徳的な熱が俺の下腹部に集まっていく。滑らかなシーツの感触が心地よい。俺は結衣の体をゆっくりとベッドに横たえた。彼女のバスローブの合わせ目が僅かに乱れきめ細かな肌がオレンジ色の光を浴びて輝く。


 俺は彼女に覆いかぶさった。

 結衣の甘い吐息が耳をくすぐる。見つめ合う瞳の中にはもう不安の色はなかった。そこにあるのはただひたすらに純粋な愛情とこれから一つになることへの燃え上がるような期待だけだ。俺はその瞳に応えるように深く頷いた。愛おしさで胸が張り裂けそうだ。この感情をどう表現すればいいのかわからない。ただこの瞬間世界で一番幸せな男は間違いなく俺だと思った。


 俺たちの唇がゆっくりと重なり合った。

 それは今まで交わしたどんなキスよりも深く濃密で甘いものだった。結衣の柔らかな唇の感触とその奥から伝わる熱が俺の思考を焼き尽くしていく。長い長いキス。この神聖な時間が永遠に続けばいいとさえ思った。このキスが終わる時俺たちは本当の意味で一つになる。その圧倒的な期待感が最高潮に達し俺の体は歓喜に打ち震えていた。

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