モンブランの秋

らぷろ(羅風路)

モンブランの秋

小説『モンブランの秋』


 72歳の山田幸子は、この夏の残り火のような暑さに負け、扇風機の前で一日を過ごしていた。窓の外では、蝉の声がまだかすかに聞こえる。立秋を過ぎたはずなのに、秋の気配などどこにもない。テレビをつける気力もなく、ただ畳の上に寝転がり、天井を眺めていた。


 そのとき、電話のベルが鳴った。古い電話の音は、ひどく大きく部屋に響いた。

 彼女はのそりと立ち上がり、受話器を取った。


「母さん、元気?」


 聞き覚えのある声だった。

「え、亮ちゃん?」

「そうだよ、なに驚いてんの?」

「そんなことないわよ。……まあ、元気にしてるの?」

「うん、元気だよ。母さんこそ、体の調子はどう?」


 それは息子の声だった。亮介。いや、亮ちゃん。彼女の口から自然にそう呼び名がこぼれた。



「最近はどうしてるの? この暑さで、外に出てないでしょう?」

「やっぱりわかる? クーラーはつけっぱなし。でも、冷たいものばっかり飲んじゃだめだって、医者に言われてね」

「母さんらしいな。じゃあ、ちゃんと食べてる?」

「簡単なものばかりよ。そうめん茹でたり、漬物でご飯食べたり。あ、でもこの前は頑張って肉じゃが作ったのよ」

「へえ、すごいじゃん。俺も食べたかったな」


 受話器の向こうから聞こえる声は、久しぶりに亮介の声を聞き、幸子の胸をじんわりと温めた。


「亮ちゃんこそ、仕事は大丈夫? 忙しいんじゃない?」

「まあね。でも、慣れてきたよ。上司も頼ってくれるし、部下もできた」

「それはよかった。あんまり無理しないでね」

「母さんもな。そういや、最近はどこか出かけたりしてる?」

「暑くてねえ。出かける気にならないのよ。庭の草取りもサボってばかり」

「母さんらしいや」


 二人は、長いこと会っていなかったので、ぽつぽつと近況を語り合った。幸子は、久しぶりに息子と長い話ができて、思わず涙ぐみそうになるのをこらえた。



 しばらくして、亮介の声が少し低くなった。

「母さん、実はちょっと頼みたいことがあるんだ」

「なに?」

「友人の車を借りて旅行に行ったんだけど、事故を起こしちゃってさ。修理に出したんだけど……外車だから高くついて、修理代が200万円ほどかかるんだ」


 幸子は一瞬言葉を失った。

「……200万円?」

「そう。俺もすぐに用意できればいいんだけど、仕事の都合で動けないんだ。だから母さんにお願いしたい」

「そんな大金、どうするのよ……」

「無理なら銀行に友人が付き添ってくれるから安心してほしい。俺の代わりに、その友人が取りに行くから、母さんは用意しておいてくれるだけでいいんだ」


 幸子の胸の中で、不安と母の情がせめぎあった。息子の声が、必死に助けを求めている。そう思うと断ることなどできなかった。


「……わかったわ。なんとかしてみる」

「ありがとう、母さん。本当に助かる」


 受話器を置いたとき、幸子はしばらく呆然としていた。老後のために少しずつ貯めてきたお金。手を付けたくはなかった。けれど、息子の窮地なら仕方がない。



 約束の日、午後の陽射しがまだ強く降り注ぐころ、チャイムが鳴った。

 扉を開けると、二十代の若い男が立っていた。

「山田さんですか。亮介さんの友人です」

「まあまあ、暑い中ご苦労さま。とりあえず上がって、お茶でもどうぞ」


 幸子は男を客間に通した。冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出し、モンブランのケーキを二つ皿に盛りつけた。


「外は暑いでしょう。冷たいのがいいわよね」

「ありがとうございます」


 青年は、出されたケーキを口に運んだ。栗のクリームに目を細める。幸子は、その顔を嬉しそうに見つめた。


「それで……お金を、いただけますか」


 幸子は、用意していた封筒を差し出した。中には、約束通り200万円が入っている。青年が封筒を受け取った、その瞬間――。


 隣の部屋から数人の男たちが飛び出してきた。

「動くな!」

 警察だった。青年は驚き、何が起きたのかわからないという顔で取り押さえられた。


 幸子は落ち着いた様子で、青年に向かって微笑んだ。

「あなたは、電話に出た亮ちゃんね。ありがとね。あなたとお話しして、とても楽しかったわ」


 その目には涙が浮かんでいた。


 警察が青年を連れ出したあと、部屋には静けさが戻った。テーブルの上には、幸子が手をつけなかったもうひとつのモンブランが残っている。彼女はそれを仏壇の前にそっと置いた。


「亮ちゃんの好きだった、モンブランケーキよ」


 線香の煙が静かに揺れる。外では、蝉の声がようやく途絶え、秋の虫の音が混じりはじめていた。

 残暑の影に、確かに秋の足音が近づいている。幸子は手を合わせながら、胸の奥で亡き息子の声をもう一度聞いた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

モンブランの秋 らぷろ(羅風路) @rapuro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ