最適な幸福を拒んだ日
左白 里(サシロ サト)
第1話 灰色の幸福
朝六時、窓は自動で開き、同じ角度で光を取り込む。
空調は体温に合わせて微調整され、コーヒーは最適な濃度で抽出される。
テーブルの上の端末が、今日の歩数目標と会議の開始時刻と、推奨の昼食メニューを静かな声で告げた。
彼はうなずき、無言でカップを口に運ぶ。苦みはいつもと同じ、体調と気分に合わせて揺らがない。
それがこの都市のやり方だ。ゆらぎを嫌い、誤差を磨り潰す。
鏡の前でネクタイを結びながら、彼は自分の顔をじっと見た。寝不足でもないし、健康指標は緑色だ。
それでも目の奥には、なにかを置き忘れてきたような空洞があった。
駅までの道を、同じ速度で歩く人たちに紛れて進む。
ガラスの壁面に映るのは、清潔さで統一された群れ。髪は乱れず、靴は汚れず、歩幅は揃う。
横断歩道の前で立ち止まると、上空の案内ボードが通勤ルートの混雑度を更新した。
彼の端末は微細な振動で右を示し、わずかな時間短縮を褒めるような通知を出す。
角を曲がったときだった。
規定の導線からわずかに外れた薄い影が視界に引っかかる。
閉ざされた店舗跡の前、ひしゃげたベンチに、一人の女が座っていた。
赤茶けたパーカーは色が抜け、膝の破れたジーンズから肌がのぞく。
スニーカーは古びて、片方の靴紐は派手な色で、もう片方は結び目が毛羽立ち、ほどけかけていた。
場違い、という言葉がまっさきに浮かぶ。
この地区の清掃ドローンは、床に落ちた紙切れすら一分と放置しない。
それなのに、彼女だけが「片付け損ねた時間」の匂いをまとっていた。
風が吹き、彼女の髪が乱れる。その乱れ方に、彼はなぜか目を離せなかった。
視線が合った。
彼女は瞬きを一度だけして、口の端を上げる。
「おはよう、スーツ君。つまんなそうな顔してる」
唐突な言葉に、彼は喉を詰まらせた。
「……僕の名前は、スーツじゃない」
「知ってるよ。でも、その格好だと他に呼びようがないし」
彼女は肩をすくめ、ベンチの背にもたれて笑った。
笑いは乾いているのに、不思議と温度があった。
周囲の群れが「同じ顔」で歩く中で、彼女だけが自由に見えた。
「仕事、ですから」彼は答える。なるべく丁寧に、角を立てないように。
「みんなそう。けどさ、たまに思わない?」彼女は足を組み替える。
「なんで同じ速さで、同じ顔で、同じ方向に歩いてんだろって」
そういう疑問は、端末に入力してはいけない種類のものだ。
検索結果は出ないし、相談窓口も案内されない。
だから彼は黙る。彼女は「ほらね」とでも言うように肩を揺らして笑った。
「ね、知ってる? この道を真っ直ぐじゃなくて一本だけ裏に入ると、空気の匂いがちょっと違うんだ」
「空気に匂いの差はありません」
反射的に答えてから、自分でも滑稽だと思った。
都市内の空気は浄化され、季節も天候も平均化される。匂いは管理対象だ。
「あるよ。管理が届かない場所が、まだ少しだけ残ってる」
彼女は背負っていた色褪せたバッグを撫でた。縫い目がひとつ、指に触れてほどけかけている。
新品はいつも正解の形をしている。だが彼女のものは、正解を外れてもなお手に馴染んでいた。
駅の方向から、人の流れが押し寄せる。
端末が小刻みに震えて、遅延の予兆を告げた。
会議の開始時刻が近づいている。彼は一歩、流れに戻る。
「行きなよ。怒られるだろ?」
「怒られはしません。評価が下がるだけです」
「同じことじゃん」
彼女は立ち上がり、伸びをした。パーカーの裾から白いシャツの端がのぞく。
乱れを直さないまま、彼のすぐそばに来る。距離が近い。
洗剤の匂いではなく、日向で乾いた布の匂いがした。
「ねえ、スーツ君。あんた、ほんとはどこ行きたい?」
答えは持っていない。
端末に尋ねれば、経済状況と嗜好履歴に応じた適切な外出先が提示されるだろう。
けれど彼女の問いは、検索欄に打ち込めない形をしていた。
喉の奥が熱くなる。言葉が見つからない。
彼女はそれで十分だと言うように、片目をつぶった。
「ま、いいや。迷ってる顔、嫌いじゃない」
そう言って、路地の陰へと歩き出す。人の流れとは逆へ、ガイドの矢印のない方へ。
一度だけ振り返って、顎で合図をした。――来る? 来ない?
言葉はなくても、はっきりそう聞こえた。
端末が震える。会議が始まる。
彼は人の流れの縁に足を残したまま、路地の暗がりを見た。
そこはきっと、推奨されていない。
けれど、胸のどこかで微かな音が鳴る。
久しく聞かなかった、鼓動の音だ。
彼は一歩、導線から外れた。
彼女の古びた靴の跡が、灰色の粉の上に淡く続いている。
追いついたとき、彼女は何も言わず、笑った。
頭上を清掃ドローンが無表情に通り過ぎていく。
その音が遠のくにつれて、空気の匂いが、ほんの少しだけ変わった気がした。
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