第4話 池袋エンゼルボイス
アフレコスタジオが半壊し、いけぶくろ監督が「ゲンマイ様ァ……」と呟きながら救急車で運ばれていった後。
俺、淡島陸は、ただ一人、俺の前に立ちはだかる人物と対峙していた。
声優、響歌子。
彼女の瞳には、昨日までの敵意とは違う、もっと根源的な……恐怖と、そしてほんの少しの好奇心みたいな色が浮かんでいた。
「……あなた、一体何者なの」
「ただの、金欠大学生ですけど」
「ふざけないで! あなたの声は……人の理性を壊す。技術じゃない、努力でもない……ただ、そこにあるだけで世界をバグらせる、禁断のコードよ!」
彼女の言う通りだった。
俺の声は、もはや俺一人の手を離れ、社会という名の巨大なサーバーを暴走させていた。
「天使の声」を巡って、ヤクザの抗争は激化し、カルト教団は信者を増やし、ついには国会で「淡島陸の声の国家管理に関する法案」が議論され始めた。
池袋は完全に封鎖され、俺の声の録音データを流すスピーカーの前で、人々が祈りを捧げるディストピアが完成していた。
全てが、狂っていた。
「淡島くん! ついにこの時が来たぞ!」
鍋島社長が、防弾仕様のリムジンで俺を迎えに来た。もはや、いつものオンボロ事務所にはいられない。
「アメリカ国防総省から連絡があった! 君の声を、最終兵器として採用したいそうだ! 契約金は……国家予算並みだ!」
札束の匂いに完全に脳が焼かれた社長の横で、高円寺さんは「これで俺も石油王か……。ドバイに別荘建てて、毎日映画観て暮らすわ」と、どこまでもマイペースだった。
リムジンが向かった先は、池袋の象徴、サンシャイン60の最上階。
展望台は貸し切りになっており、窓の外には、異常な熱気に浮かされた池袋の街が広がっていた。
そこには、アメリカ国防総省の人間だけでなく、世界各国の要人が集まっていた。彼らは皆、俺の声を、自国の利益のために利用しようと、血走った目で俺を見ていた。
「さあ、淡島くん! この契約書にサインを!」
鍋島社長が差し出したペンを、俺が受け取ろうとした、その時だった。
「待ちなさいッ!」
展望台のドアを蹴破って、響歌子が現れた。
彼女はマイクを一本、胸に抱いていた。
「こんな声に、世界を委ねてたまるもんですか!」
彼女は要人たちを睨みつけ、そして俺に向き直った。
「淡島陸! あんたの声が『才能』なら、私は『技術』で、あんたを超える!」
「……え?」
「あんたの声は、人の心を無理やりこじ開けるだけの、ただの暴力よ。でも……私なら、人の心に寄り添い、共に泣き、笑うことができるはず……!」
歌子は、マイクの前に立った。
そして、深く、深く息を吸い込む。
彼女が最初に発したのは、赤ん坊の産声だった。
それは、生命の始まりを告げる、力強い叫び。
次に、少女の笑い声。少年の悔し涙。愛を囁く恋人の声。我が子を諭す母親の声。人生を振り返る老人の、穏やかな声。
たった一人で、彼女は、そこにいないはずの無数の人々の「人生」を、声だけで紡ぎ始めた。
それは、技術の結晶だった。喉から血を流すほどの努力で積み上げた、人間の魂の叫びだった。
要人たちが、ハッと我に返ったように歌子を見る。
鍋島社長が握りしめた札束が、はらりと床に落ちる。
高円寺さんのスマホから流れていたライブ配信のコメント欄が、「本物だ……」「これが、声優……」という言葉で埋め尽くされた。
歌子の声は、俺の「エンゼルボイス」のように、人を狂わせる力はない。
だが、凍りついた人の心を、ゆっくりと、しかし確実に溶かしていく温かさがあった。
バグを強制的に上書きするのではなく、正常なプログラムへと優しく導く、パッチプログラムのように。
俺は、理解した。
俺が手に入れたのは、ただのバグだ。
でも、彼女が持っているのは、人間の、本物の力だ。
俺は、マイクの前に進み出た。
そして、生まれて初めて、自分の意志で、声を出す。
それは、商品説明でも、玄米のセリフでもない。
ただの、俺自身の、言葉。
「……すごい、ですね」
俺の声と、歌子の声が、展望台で混じり合った。
その瞬間、窓の外で輝いていたネオンが、ふっと一斉に消えた。
まるで、熱狂の夜が終わったかのように。
街を包んでいた異常な喧騒が、嘘のように静まり返っていた。
世界を狂わせたバグは、人間の持つ「技術」と「意志」の前に、静かにその役目を終えたのだ。
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エピローグ
後日。
池袋の小さな声優養成所のドアを、俺は叩いていた。
「あの、すみません。……ここで、声の出し方を、教えてもらえませんか」
中から出てきた響歌子は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに意地悪く笑った。
「上等じゃない。喉から血を吐くまで、しごいてあげるわ。もちろん、エンゼルボイスだかなんだか知らないけれど、時給は出ないわよ」
鍋島社長は、俺の「声」で稼いだ金を元手に、真っ当な芸能事務所を立ち上げ、なぜか高円寺さんを「いかに効率よくサボるか」を教えるコンサルタントとしてプロデュースし、大成功を収めていた。
そして、俺の口の中を国道から世界の至宝を経て、生活道路くらいに「再調律」してくれた四谷先生は、こう言ったらしい。
「ふむ、あれはただの気まぐれだ。彼の声は素材としては面白いが……やはり、最高の芸術は、完璧に調律された無音の中にこそ存在するのだよ」
池袋の街は、またいつもの雑多で、混沌とした、だけどどこか憎めない日常を取り戻していた。
俺の平凡な大学生活も、再び始まる。
ただ一つ、変わったことがあるとすれば。
俺の声はもう、世界をバグらせることはない。
誰かの心を、ほんの少しだけ、温めるために。
俺は今日も、マイクの前に立つ。
(完)
【俺に朗報】池袋エンゼルボイス ~時給980円の俺の息が、世界をバグらせるらしい~ ちはやボストーク @chihayateiogura
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