第3話 詐欺と宗教と玄米魂
「淡島さーん! 淡島さんは、どこーッ!」
「彼の声を聞かせろ! 我々は彼の声に浄化されるために来たのだ!」
事務所の下は、地獄絵図だった。
俺のエンゼルボイスの虜になった人たちが、ゾンビ映画のエキストラみたいにこの小汚いビルに殺到し、警官隊と小競り合いを繰り広げている。
池袋西口が、俺の声一つで機能不全に陥っていた。
「くっくっく……淡島くん、見たまえよ! 君の声は、金になる!」
鍋島社長は、窓から下界を見下ろし、エアの札束で汗を拭いながら悦に入っている。
高円寺先輩はといえば、「【悲報】ワイの会社、謎の教団に囲われる」とかいうタイトルで、しれっと現場をライブ配信していた。価値観がブレなさすぎる。
すべては、あの
そのとき、俺の混乱と周囲の混沌を突き破って、事務所のドアが乱暴に開かれた。
入ってきたのは、見るからにカタギじゃない、金のネックレスをつけたパンチパーマの男と、真っ白な麻の服を着て、胡散臭い微笑を浮かべた長髪の男だった。
「鍋島社長、ですな? 話は聞かせてもらいましたぜ」
パンチパーマが、アタッシェケースを机に叩きつけた。中には、ぎっしりと詰められた札束。
「うちのシノギで、その『天使の声』を使わせてほしい。この『必ず儲かる壺』を、彼の声で売るだけでいい」
「ほう……」と社長。涼しい顔ながら、パンチパーマが持ち込んだ札束の数を、アタッシェケースの縦横高さから素早く計算しているのがわかる。
「待ちなさいな」
今度は、長髪の男が、ゆっくりと口を開いた。
「彼の声は、穢れた金儲けに使うべきではない。彼の声は、人々を導くための、神の御声そのもの……。さあ、我々の教団『サンヨンゴーシャイン・ユーユアユートピア』にお越しなさいな。あなたは、神となるのですな、ですな」
鍋島社長の目が、札束と「神」の地位の間で、激しく揺れ動く。
まさに、悪魔の囁きと天使(?)の誘い。欲望渦巻く池袋の縮図が、このオンボロ事務所にあった。
「あの、ちなみに、壺を売るのと神になるのって、どっちが時給いいんですか? あと、交通費は出ますか?」
俺、淡島陸は、どこに売り飛ばされるにせよ、ただ時給のことだけを考えていた。
その時だった。
「いたぞ! あの声の持ち主だ!」
パンチパーマと教祖を押し退けるように、眼鏡をかけた小太りの男が、息を切らしながら事務所に転がり込んできた。手にはアニメの絵コンテらしきものを握りしめている。
「は、はじめまして! わ、私は、ここ池袋を拠点といたします、アニメ監督のイケブクロ二郎と申します!」
男は俺の前に膝から崩れ落ち、拝むように手を合わせた。
「探しました……ずっと、探していたのです! この、新作アニメ『転生したらひとつぶの玄米だった件』の主人公、ゲンマイ様の魂を表現できる、唯一無二の声を!」
……玄米?
詐欺師、教祖、そしてアニメ監督。
カオスにもほどがある。池袋は、いつからこんな魔境になったんだ。
いや、元からか。
結局、鍋島社長の「アニメ化は社会的信用に繋がる!」という鶴の一声で、俺はアニメのオーディションに連れて行かれることになった。
場所は、乙女ロードの裏手にある、小さなアフレコスタジオ。
そこで、俺は運命的な出会いを果たす。
「……ちっ。コネ入りの素人かよ」
マイクの前で台本を睨みつけていたのは、鋭い目つきの、気の強そうな女性だった。
声優、
数々の人気アニメで主役を掛け持ちする、人気アイドル声優中のアイドル声優。実力派中の実力派でもある絶対女王様。
スタジオに入る前、ドアの隙間から見えた彼女は、誰もいないブースの中で、唇をほとんど動かさずに、しかし明確な輪郭を持った音を、繰り返し繰り返し発していた。それは、何万回と繰り返されてきたであろう、血の滲むような基礎練習の断片だった。彼女が手にしている台本も、余白がないほどびっしりと書き込みで埋め尽くされている。
「あの、すみません。ここの時給っていくらくらいなんでしょうか?」
俺の素朴な疑問に、歌子の眉が、ありえない角度に吊り上がった。
「……あなた、この場所がどこだか分かってる? 声優はね、喉から血を流す想いで技術を磨き、魂を削ってマイクの前に立つの! 時給? ふざけるのも大概におしなさいまし!」
価値観が「プロか、素人か」しかない、意識高い系の人だ。
そんなこんなで、オーディションが始まった。
課題は、主人公のゲンマイが、魔王に初めて対峙するシーンのセリフ。
まずは、歌子から。
『……僕が、相手だッ! セイマイしてくれるわっ!』
空気が震えた。
ただの「わっ」という語尾が、星々を砕くほどの破壊力と、世界を救うという固い決意に満ちていた。
これが、プロ……!
そして、俺の番が来た。
監督のいけぶくろ二郎が、興奮気味に指示を出す。
「淡島さん! 感じるままに! あなたの魂の声を、ゲンマイ様に吹き込むのです!」
俺は、よく分からないまま、マイクに向かい、鼻から静かに息を吸った。
そして、一言。
『……セイマイしてくれるわっ』
その瞬間、スタジオのミキサーから火花が散り、分厚い防音ガラスにピシリとヒビが入った。
いけぶくろ監督は「ゲンマイ様……! ゲンマイ様が、今、ここに降臨されたァァッ!」と号泣しながら床を転げ回り、録音エンジニアはヘッドホンをつけたまま恍惚の表情で白目を剥いて気絶した。
響歌子は、その光景を、わなわなと震えながら見ていた。
その目には、俺に対する明確な敵意と、理解不能な現象への恐怖が、ごちゃ混ぜになって浮かんでいた。
俺のエンゼルボイスが、ついにエンタメ業界という、新たなバグを引き起こした。
その先にあるのが、栄光か、破滅か。
玄米に転生した俺にすら、全く予想がつかなかった。
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