第22話 思い出話

「どうしたの、ポラリス」


 リヒトが面白そうな顔をして、小首をかしげる。


 子どもの頃も彼はよくこんな顔をしていた。

 それまでなかなか解けなかった計算問題がやっと解けたとき、道端で名前の知らない花を見つけた時、ポラリスが楽しそうに本を読んでいる時。


「あ、いえ。本物のお菓子があるなあと思っただけです。ケーキなので、正確には砂糖菓子でなく焼き菓子ですね」

「はは、そうだね。そっか、初めてかあ」


 それ以上今は話を深めずに、ポラリスはケーキをフォークで一口すくってぱくりと食べる。


「あまいです」

「甘いね」


 甘いけど、チョコレートの深みやほろ苦さも楽しめる濃厚なタイプのチョコレートケーキだ。


 ポラリスは初めての味わいに、目を白黒させながら食べ進める。通常の食事からは得られない、ビタミンや炭水化物とはまた違った栄養素がぎゅっと詰まっているような食べ物に感じられた。


「美味しいですね」

「美味しいね」


 美味しいと言えば、美味しいと返ってくる。

 そんな何気ない会話も愛おしく思えた。

 冷えた体に熱いスープが染みこむように、ひりりと痛む傷口を良薬で優しく手当てされるような。


「君とこうして……こういうものが食べられるようになって良かった」


 リヒトの言葉には文字通りに『美味しいものを一緒に食べられて良かった』という想いに、きっと『ポラリスが生きていてくれて良かった』も重なり合っている。


「私も…………です。あなたと美味しいお菓子をいただけて良かった」


 窓の外では五月の夜空に星明かりがちかちかとまたたいていて、ささやかに蛙たちの合唱も聞こえた。

 人によっては騒音に感じるという蛙や虫の泣き声だが、ポラリスはそうは思わない。少なくとも嫌いではない。


 自然の息吹が、きみは独りじゃないよと寄り添ってくれているような気がして。


「ポラリスは昔……よくお菓子の本も読んでいたよね」


 ふと探るような眼差しでリヒトが言う。

 ポラリスにとって、過去の人生は苦難だらけの焦げて不味いばかりのミルフィーユだった。


 だから自分の問いで不用意に嫌なことを思いださせないか、気にかけているのだろう。つくづくリヒトは優しい人なのだ。


「はい」

「僕が君と初めて会った日も……君は図書室で借りたお菓子のレシピ本を読んでいた……。ああ、それでさっき砂糖菓子と言ったんだね」


 リヒトが覚えてくれたことで、ポラリスの心にも無数の星明かりが灯る。


「はい、懐かしいですね」


 手をのばせば簡単に届きそうな程度には鮮やかな記憶を、人は思い出と呼んで懐かしむようにできている。

 それは昨日までの郷愁に浸る安定剤にもなれば、明日からの活力の種子にもなり得る。


 大好きなリヒトとこうしてケーキを食べたことも、必ず良き思い出になるだろう。それと。


「あの時あの本を借りていたお陰で、私はリヒトさんに出会うことができました」

「うん……確かあの本は君の『安定剤』だったね。あの本のお陰だ。実はあの本、図書室の本入れ替えるからっていうんで、卒業するとき貰ってきたんだ」


「そうだったのですか、ふふ」

「うん、今も持ってるよ」


 あの大切な、二人の始まりの象徴といえる本が今リヒトの物になっているということが嬉しい。

 再会してからも、リヒトは『嬉しい』をいくらでもくれる。ポラリスの人生に新しく、嬉しさのミルフィーユを作ってくれた。


「懐かしい……。あの時の友人たちとも、また会いたいものです。リヒトさんは……当時のご友人とは? あ、兄以外で」


 中学受験したことで小学校時代の友人たちとは疎遠になってしまっている。何かの折りにまたどこかでばったり出会えたら、とも思う。


「ああ、当時僕とシリウスとエル・ファインマンとで一緒にいたけど……何の因果かエルとは騎士学校でまた会って、同じクレアシオン神殿に配属されて……今は僕の副官をしてもらってるんだ」


 心優しいリヒトに理知的でクールなシリウスに加え、お調子者のエルもポラリスの記憶に色づいて残っている。


「わあ、すごいご縁ですね。ということは、私もファインマンさんとまたお会いできるのでしょうか?」


「もちろん。ロサさんのこともあって、半分僕のお友達チームになっちゃってるけど。でも気心知れてる分スムーズにいくことも多いよ」


 ちょっと緊張もするけど、会ってみたい好奇心のほうが大きい。それにエルがリヒトの副官なら、これからお世話になることになるわけだし。


「でも……ファインマンさんてお調子者でしたよね? 給食のワゴン、うっかりとはいえ階段に墜落させてませんでした? 修学旅行で馬のかぶりもの買って学校に持参してたりもしましたし……」


 修学旅行の直後にリヒトとシリウスが大げんかになったことを思い出させてしまったかもとも思ったが、リヒトはそちらに関しては気にしていないようだった。


「あーあれね。ワゴンのほうは滅茶苦茶シリウスがキレてたやつだ。馬の件は確か保護者呼び出しくらってたしな……。ま、まあ仕事に関してならエルは真面目だから安心してくれていいよ」


「い、一応リヒトさんのお言葉を信じておきますね……」


 リヒトの親友なのだし、余程の粗相はしないと信じておこう。


「うん。何かあったら、ゴメン……。そろそろ寝間着に着替えてくるね」

「はい」


 今日はリヒトが病室にお泊まりする。


 ポラリスのベッドの隣に備えられた付き添い用の簡易ベッド。紺色のパジャマに着替えたリヒトは今夜そこで眠る。ベッド同士の距離が近いのは、気にしないでおく。


 消灯時刻になり、それぞれのベッドに横になった。


「あの……リヒトさん」

「どうしたの?」



「今朝は…………ほんとうに、ごめんなさい」」

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