第11話 黒猫の侍女

「眠れなかったなあ……」


 正確には数十分くらい浅く眠って、ポラリスは新しい朝を迎えていた。

 真っ白なカーテンを開けば、まぶしい金色の陽光と、愛らしい小鳥のさえずり。世界のどこにでもありそうな、だからこそ美しい朝の光景。


 今まで一七年生きていて、ポラリスがまったく無縁だった平和な朝だ。

 誰かに叩かれることも冷水をかけられることも怒鳴られることもなく、ごく自然に目覚めて。


 実はすべて夢なのではないかとさえ、ポラリスは思う。本当はあの物置部屋の床に転がったまま眠り続け、自分に都合の良いだけの甘い夢を見続けているのでは、と。


 程なくして朝ご飯が運ばれてきた。

 黄金色こがねいろのスクランブルエッグが盛られた白い皿、添えられたレタスの淡い緑とのコントラストがまた美しい。スクランブルエッグはバターの風味がほんのり効いて美味しかった。

 ……実際食べられたのは三口ほどだけだったが。


 朝の体調確認にきた白いユニフォームの看護師さんに、正直に眠れなかったことと食べられないことをポラリスは白状する。怒られるかと思ったが、淡い苦笑が返ってきただけだったのでいささか拍子抜けする。


 ああ、ここはもうあの家ではないのだと改めて思い知る。


「ストレスかな。いきなり大きく環境が変わったのが大きいかもしれないわね」

「環境がストレスにですか?」


 はっきり言って良いほうにしか変化していない。むしろストレスフリーだと思うのだけれど。


「ええ、嬉しいこともストレスになるのよ。感情に負荷がかかるのでしょうね」


 なるほど。リヒトとの再会なんて特にそうだ。

 考えてみれば両親の逮捕という、本来なら滅茶苦茶ショックを受けるべき『イベント』もあったわけだし。直接警察に連行されるイヴォンたちを見ずに済んだのは不幸中の幸いだった。


 酷く眠いのに眠れないまま、昼が過ぎた。正直言って暇だ。


 ――あ。


 家に高校の教科書やノート、学習用タブレット(授業と課題でしか使えないタイプの端末。当然インターネット閲覧も不可)も置いてきてしまったのを今気づく。


 せっかくリヒトに持っていきたいものはないか? と聞かれてまでいたのにと割と本気で後悔する。まあ、こちらはなんとかなると思いたい。


 可能なら高校には卒業まで通うつもりだ。

 意地悪リーヴィアは嫌だが、ハスミンとラウレッタには会いたいし。先生方に色々と説明する必要もあるだろう。


 昼食のミートソースパスタもほとんど食べられず、これは本当にまずいと思っていると。


「失礼致します」


 一人の若くやや小柄な女性が入ってきた。

 黒のロングワンピースに、白いフリル付きのエプロンドレス。頭にはホワイトブリムと呼ばれるヘッドドレス。いわゆる『メイド服』と呼ばれる格好をしている。

 ポラリスより少し年上、リヒトと同じくらいの年頃だろうか。


 げ茶の髪をすっきりしたボブショートに揃え、快活そうな瞳は深い森と同じ緑色。

 頭には三角の黒い猫耳、腰からはひょろりと長く細い尻尾が生えていた。


 妖精種の一種、妖精猫ようせいねこの女性だ。妖精種の中では人口が多いほうであったりするのは、『猫』という人気も知名度もぶっちぎり高水準の生き物のお陰だろうか。

 そう考えると、『からす』という不吉とされがちな生き物の因子を持つリヒトが不憫になってしまうけど。


「お初にお目にかかります、ポラリス様」


 妖精猫の女性は、うやうやしく一礼をした。溌剌はつらつとした笑顔をポラリスに向ける。


「私はセレッソ・ロサと申します。クレアシオン神殿事務官と聖女ハンネローレ様の侍女を兼任しておりましたが、このたびポラリス様の専属侍女となりました」


 どうやら次期聖女には侍女が付くらしい。王侯貴族でもないのに良いのだろうか。

 

「これからよろしくお願い申し上げます、ポラリス様」


 にこ、と笑いかけてくる様は太陽より明るい。


「よ、よろしくお願いします」


「ポラリス様のことはリヒト・フローレスくんからうかがっております。私は中学時代から、フローレスくんと友人同士だったので」

「そうだったのですか」


 ポラリスが知らないリヒトをこのセレッソは知っている、ということだ。かなり羨ましい。

 それはそれとして。


「よろしければ、こちらを召し上がってみませんか?」


 セレッソが午前中に並んで買ってきたという『タピオカミルクティー』のおかげで、ポラリスは食欲を取り戻すことができた。出会って早々、セレッソは快挙を果たしたことになる。


 タピオカミルクティーはかつて全国的に流行していたというドリンクで、一世風靡を成し終えた今でも行列ができる人気店がちらほらあるという。もちっと甘くて、美味しかった。


「ありがとうございます、美味しかったです」

「ふふっ、タピオカがお気に召して良かったです」


 当たり前のように、セレッソは優しくしてくれた。

 おそらく彼女も仕事であると同時に『自分がしたくてしている』ことなのだろう。


 セレッソの自然な朗らかさもあって、ポラリスは初めての侍女にすぐに慣れた。元々年の近い女性とは仲良くなるのが割と得意だったりするのだ。


 そんな温かい現実に、けれどポラリスの心が安らぐことはなかった。

 むしろざわりざわりと、心臓に鳥肌が立つような落ち着きの無ささえ感じる。ある種の恐怖。


「ポラリス様」


 声をかけられて意識を現実に引き戻す。セレッソが笑顔で窓のほうを指さしていた。

 そちらのほうを向くと。


「リヒトさんっ!」


 紺青の制服をまとったポラリスの守護騎士が、窓の向こうから手を振っていた。

 ここは二階、でも背中に空を飛ぶための烏の翼を有するリヒトには関係のないことだった。


 黒い翼を羽ばたかせて、青い空を背に爽やかな笑顔を浮かべる彼に、ポラリスも大きく手を振りかえした。


 ポラリスに一等優しい笑みを投げかけて、リヒトは飛び去っていった。

 三分にも満たない短い出来事だったが、ポラリスの恐怖心はすっかり落ち着いてしまっていた。


「ポラリス様、良かったですね」

「はいっ」


 セレッソへの返事も弾んだ。


 ――やはり、あなたが好きで好きで仕方がないのです。

 ――好きすぎて、求めすぎてしまうほどに。


 でも。少しだけ。


 ――あなたの優しさが、皆さんの優しさが。

 ――時折苦しく感じてしまうのです。

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