第7話 今度こそ

「――大丈夫です。シリウスとはしっかり話ができる機会が来ますよ」


「……本当に、兄とまたお話できるのでしょうか」

「ええ、必ず」


 リヒトが慰めの言葉をくれた。喧嘩けんか別れした親友の登場に、自身もいろいろと思うところがあるだろうに。

 

 母や父と違って、シリウスは普通に話すことができる、唯一ポラリスが胸を張って家族と呼べる人だった。

 何もかもが暗闇にとざされたポラリスの視界の中で、兄の存在はリヒト、ハスミンやラウレッタと並んで救いであったのだ。


「でも兄とのやり取りを見て分かりました。あなたは本当にリヒトさんなのですね」


 だいぶ緊張が抜けたポラリスが言うと、リヒトは微笑んだ。


「――じゃ。お堅いのは、ここまで」


 彼は神殿騎士が正式時にのみ被る、藤紫の制帽を外した。


「僕はリヒトだよ。ポラリス」


 他人行儀な敬語をやめて。一人称は『私』から『僕』になって。『ポラリス様』ではなく、かつてのように親しげに『ポラリス』と呼ばれて。


 ――嗚呼ああ


 本当にリヒト・フローレスと再会できたのだと実感する。


「外、意外と冷えるね。車に入ろうか」


 リヒトが話題を切り替えた。いつまでも思い悩んでばかりではいられない。明るい未来に進むためには、時には煤けた悩みを過去に置き去りにする決意も必要だ。


 ここで、あることに気づく。


「私……車に乗るのが初めてなのです。バスや電車も、自転車もありません」


 一七歳の少女が自動車に乗ったことがないなど、このエテルノ王国では考えられないことだ。


 ポラリスの父ベネデッドは自家用車を所有している。ただしポラリス以外の人間が乗るためのものだった。学校はすべて徒歩圏内であったし、金銭の所持を認められていなかったから、公共交通機関も使えなかった。


「そっか。気分が悪くなったら、遠慮なく言って」


 衝撃の事実に、リヒトは一寸も驚きや軽蔑けいべつを見せなかった。それとももう、知っていたのだろうか。


 リヒトの手でロック解除された車の、後部座席に乗り込んで。手伝ってもらいシートベルトを装着した。高級車だからか、シートの座り心地が半端なく良い。

 

 車の中で、二人きり。


 自身もシートベルトを付けたリヒトが柔らかな瞳をする。


 今彼の背にある黒い翼は、『引っ込められている』ので見えない。妖精種だから可能だという、不思議で便利な身体機能。



「会えて良かった――――ポラリス」


 しみじみと、リヒトはポラリスに笑いかける。


「私も…………またリヒトさんとお会いできて、嬉しいです」


 言う内に、ポラリスの口角が上がっていく。ここまで自然に微笑むことができたのは、かなり久しぶり。


「本当にあなたが……、私の守護騎士さまなのですか?」

「そうだよ」


 リヒトはあっさりと肯定した。


「もしかして、やりたくないのに我慢してなられたのでは……?」


 ポラリスはおそるおそる、気になったことを質問する。再会したばかりの相手に礼が欠けているかもしれない。だけどポラリスにとっては、かなり重要なことであった。


「それは違う。僕が希望したんだ」

「それは、どうして、」


「ポラリス、君を守りたいからだよ」


 君を守りたい。

 まっすぐな瞳で言われて、ポラリスは信じられない気持ちになった。


「仕事だからとか、義務感から、とかからじゃない。そこは僕を信じて欲しい」


 ね? と無垢に笑いかけられれば、それ以上異論を唱えることはできなかった。

 迎えに来てくれた初恋の男の子を信じたい気持ちもある。


「わ、分かりました」


 他にも心配事はあった。


 ポラリスは今までリヒトを想うことで生き抜いてきた。

 かつて共に過ごした時間の思い出はいつだって美しい。気がつけばポラリスの頭の中で、リヒトは神格化されてしまった印象すらあった。

 それにあれから時間が過ぎて、お互い体の成長以外にも変化したことがたくさんあるだろう。


 変化した者同士、上手くやっていけるのだろうか。


「どうしたの、ポラリス?」


 またポラリスが思い悩んでいると、爽やかな薄荷はっかの声が降ってきた。


「大丈夫です」


 ――いけない、いけない。


 せっかく大好きなリヒトと、考える限り最高の形で再会できたのだ。これ以上下手な真似はしたくない。でないと失望されてしまう。

 だけど。


「何か心配していることがあるのだろう?」

「それは……」

「どんなに小さなことでも、話してくれると嬉しい。僕はそのための守護騎士でもあるんだ」


 リヒトの口調は柔らかだったが、どこか有無を言わせぬ力強さがあった。

 リヒトには昔から、そういうところがあった。変わらずそのままのこともあるのだ。


 なのでポラリスは、話し始める。


「……あの、私、つらいことがたくさんあって、」

「うん」


「リヒトさんが小学校をご卒業されてから、私は中学受験で失敗して、家のこともたくさんしなくてはならなくなって、お母様にはほとんど毎日、叩かれて。学校では友達もいて楽しいことも多いけど、意地悪な子もいて、何も言い返せなくて」


 思いだすだけで胸が苦しくなる。それでも一度話し出すと、止まらなくなった。


「……うん」

「最初は苦しい、つらいと思っていました。でもだんだんと何も感じられなくなっていったのです」


 壮絶な毎日、感情の麻痺。


「そのたびに、あなたのことを想って耐えてきました」


 言うと、リヒトが息を呑む音がした。どうしたのだろう。


「私はかつてリヒトさんと一緒にいた頃から、変わってしまいました」


 生きれば生きるほど、足掻あがけば足掻あがくほど沼の底に沈んでいくように。

 今までさまざまな物事がポラリスにとって悪い方向へ進んでいく人生だった。


「なので、リヒトさんとまた上手にやっていけるのか、きちんと聖女になれるのか……、不安で不安で、仕方がないのです。ずっとあなたを大事に思うから、こそ」


 気づくとポラリスの赤い双眸そうぼうから、涙の雫が溢れ出していた。こうやって泣いてしまうのは何年ぶりだろう。


 ――言ってしまった。

 ――ちゃんとできないかもしれない、と言ってしまった。


 リヒトは何と返してくるだろう。呆れられてはないだろうか。失望されてはいないだろうか。泣き出すなんてみっともないと、思われていないだろうか。


 車窓から、五月の風が木々の枝葉をさわさわと揺らしているのが見えた。


 と。リヒトが自分のシートベルトを外した。同様にポラリスのシートベルトも。


「ポラリス」


 逞しい両腕が伸びてきて。ポラリスはリヒトに抱きしめられた。彼が付けているウッドテイストの香水が、あえかに香る。

 ポラリスが身動きできないほどに、しっかり強く抱きしめられていた。


「リヒト……さん……?」

「ありがとう、話してくれて。僕のことも覚えていてくれて」


「……絶対に、あなたを忘れたりしないです」


「……そっか。可哀想に、体もすっかり痩せてしまっている……。よく生きてくれていたね」

「はい……」


 ――あったかい。


 はっきりと感じるリヒトの体温。密着することですっかり大人の男性になっていることも分かって、ポラリスの心臓がきゅんと跳ねる。


「大丈夫、君が心配することは何もないよ。僕は成人もしたし、君を恐怖や不安から守れるくらいに強くなれたから。それに僕にとっても……君はとても大切な人なんだ。だから、」


 一層ポラリスを強く抱きしめて、彼女の守護騎士は告げた。 


「今度こそ、僕が君を守る」

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