第5話 迎えに来たよ

「…………え…………?」


 思わずのどからかすれた声が飛び出た。これではポラリスが部屋の外へ出られない。閉じ込められたのだ。

 体が硬直し、心臓が嫌な音を奏で始める。ただでさえ薄暗い物置部屋に、気味悪く生ぬるい空気が張り詰めた。


 いったい何がどうなっているというのだろう。

 これからポラリスは母のために豪華な夕食を作らねばならないのに。後片付けや晩酌の準備も。そうしないと、冗談抜きで殺される。


 ややあって、数名分の靴音がきびきびと聞こえてきた。来客だろうか。

 

「クレアシオン神殿の皆様、お迎えは今日でなくてもよろしいのではないでしょうか?」


 母イヴォン・クライノートが、余所よそ行き用の甘ったるい、砂糖を入れすぎた珈琲コーヒーのような声で言うのが聞こえた。甘ったるさの中に妙な焦燥を混ぜ込んだような、そんな声。


 ――神殿の方がいらしているの?


「いいえ。必ず本日お嬢様を引き取らせていただきます」若くハスキーな、張りのある女性の声。

「そのつもりで、こちらにポラリス嬢の守護騎士となる者も同行させています」


 途端、ポラリスは自分が鋭く息を呑む音を聞いた。一瞬だけ心肺が機能停止してしまったのではないかと思うくらい、激しい衝撃に突き上げられる。


 ――神殿からお迎えの方がいらしている。

 ――守護騎士となられる方が、私を迎えにいらしている。


 きっとみんな、ポラリスを探している。


 ――リヒトさん。


 だとすれば。


 ――リヒトさん。


 ポラリスに今できるのは。


 ――リヒトさん。


 ポラリスは覚悟を決める。


 少しでも、明るいほうへ行きたかった。

 少しでも、優しいほうを生きたかった。


 一度壊れたシャボン玉は戻らない。だから、新たに作るしかない。

 彼とまた会えるかもしれない未来へ、一歩歩み出すためには。


「私はここです! ポラリスはここにおります!」


 ありったけの勇気と声を振り上げた。喉がひりりと痛む。また右腕も痛むがかまわなかった。

 これで駄目だったら、もう諦めるしかない。もしかしたらこれでまた、イヴォンに折檻されてしまうかも。


 と。


「ポラリス様っ? どちらにいらっしゃるのですか、もう一度お声をお願いします!」


 守護騎士かもしれない若い男性の声に応え、ポラリスはもう一度叫ぶ。


「ここです、私は物置部屋ですっ!」


 途端に男性の怒声が響いた。


「人を物置に閉じ込めているんですかっ? これでは立派な暴力、虐待ですよっ!」


 どこか、懐かしい香りを感じる声だ。

 ポラリスの身を案じ、閉じ込めた者への怒りの声。さすがのイヴォンが言い返してないのは、彼の怒声に迫力があったからか。

 

 ――私のために、怒ってくれているの?


「言い分は正しいけど、声が大きいよ」ハスキーな女性の声が男性をなだめているようだ。

「それよりもほら、待っているぞ?」

「申し訳ございません……。感情的になりすぎました」


 それからもイヴォンと、神殿からの来訪者二人がこちゃこちゃと競り合うような声が渡り合って酷く緊張したが。


 やがてかちゃりと物置部屋の鍵が開けられ、扉が開く。


 ポラリスの暗闇に慣れた目に、廊下の照明がまぶしい。


 光を背にしてポラリスの前に現れたのは、一人の美しい青年だった。


 ――この方が、私の守護騎士さま?


 青年は素早く暗い物置部屋を見回してから、ポラリスをまっすぐに見つめてくる。

 

 青年は中性的というか、線が細い容姿をしていた。

 腰まで伸びた黒髪は真珠のつやめき、南国の海を閉じ込めたような碧眼へきがんに、男性にしてはぱっちりした二重まぶたがかぶさっている。

 長くけぶるまつ毛に、すっと通った鼻筋、肌は温めたミルクのような乳白色。


 細く引き締まった体躯たいくにまとう紺青こんじょうのジャケットとスラックスには銀糸で刺繍が施されている。

 ぱりっとした白いシャツに涼やかな空色のネクタイを締め、足元は黒のローファーで固められていた。頭には正式時に着用する、円柱のような形の制帽。

 フォーマルな装いでありながら、魔獣と戦闘もできる騎士服。神殿騎士たちの正装だ。


 その背中に生えたふっかふかの黒いからすの翼を目にした途端、ポラリスの胸にとある予感が芽生えた。


 ――まさか。


 そんなはずない。そんな夢にまで見た理想のようなことが、訪れるわけない。


 混乱を起こすポラリスの前で、青年のべにを引いたような桜桃色おうとういろの唇がゆっくりと開いた。

 どこか泣き出しそうにも見える表情で。


「……突然の来訪失礼します。あなたがポラリス・クライノート様でいらっしゃいますね?」


 容姿も美しいが、声も美しい青年だった。

 まるで摘み立ての薄荷はっかの香りを風に乗せたような。


 あれから時が経ち、『彼』が声変わりを経た今でも、爽やかな。


「はい、私がポラリス・クライノート、です」


 とある予感に放心しながらも、ポラリスははっきりと応じる。

 だって、『彼』に変なところを見せたくなかったから。


「あの……」

「なんでしょうか」


 おずおずとこちらから訊ねると、青年は淡く微笑んだ。

 ポラリスは普段こうしたことは親しい友人以外にしかしないのだが、友人同様に大切な『彼』にだったらできた。


「私……以前にあなたとお会いしたことがあります」

「そうですね」


 強まる確信。


「もしかして。あなたはリヒトさん……リヒト・フローレスさんではないですか?」


 両手を胸を当てて言い切る。どくどくと心臓がとんでもない速さで脈打っていた。

 共通点は非常に多いとはいえ、よく似た別人の可能性もある。だけどどうしても今確かめておきたかった。


 刹那せつな、青年が涙を流さずに泣き笑いをした。

 ポラリスの勇気の問いに『彼』が応える。


「…………嗚呼、私を覚えていてくれて、嬉しいです」


「私はリヒト・フローレス。クレアシオン神殿所属神殿騎士であり、あなたの守護騎士となります」


「大変遅くなってしまいましたが……、お迎えにあがりました。ポラリス様」


 ――嗚呼ああ


 ポラリスの初恋の夢が詰まったシャボン玉は、割れることなく宙を舞い続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る