第13話 無声の駆け引き
白石華蓮が警備員にほぼ引きずられるようにマンションロビーから排除される甲高い怒声は、厚いコンクリートの床を微かに震わせ、やがて夜の静寂に飲み込まれ消えた。
氷室晶の表情は変わらない。小さな騒動など、最初から存在しなかったかのようだ。
彼はただ、コウちゃんが最後の一切れのリンゴを食べ終えるのを見守り、ティッシュで子供の果汁で濡れた口元を拭った。その手つきは不慣れだが、驚くほど丁寧だ。
「寝る時間だ」
立ち上がる声は非情な決定を示していたが、音色は普段より確実に柔らかい。
コウちゃんは少し恐れたようだったが、先ほどの短い温もりが心に残り、大人しくうなずき、自ら子供用ベッドに登った。
晶は傍らに立ち、布団を整えるコウちゃんを見下ろす。大きな黒白の瞳が恐る恐る彼を見上げる。
沈黙の後、彼は不器用に手を伸ばし、天井の明かりを消した。
残ったのは星空プロジェクターの優しい光だけ。天井にゆっくりと流れる星々が映る。
「おやすみ」
吐き出す二つの言葉の音が、部屋の静寂に溶けた。
「パパ、おやすみなさい」
背後からか細い声。晶の足が微かに止まったが、振り返らずにドアを閉める。
閉まる瞬間、顔に浮かんだ柔らかな表情は一瞬で消え、いつもの冷徹で測り知れない表情に戻った。
彼は手すりに寄りかかり、視線を階下のリビングに向ける。
篠塚澪は依然として絨毯の上に座っていたが、姿は変わっていた。
膝を抱え、顔を腕に埋め、薄い肩が微かに震えている。
無言で泣いているのか、それとも激しい感情を押し殺しているのか。
折れた翼の鳥のようだ。豪華な檻に閉じ込められながら、内に反抗の炎を秘めている。
晶は階段をゆっくり降りる。その足音が静寂に不気味に響く。
澪は聞きつけ、猛然と顔を上げた。涙の跡が光る頬、武装された瞳。全身の棘を逆立てたハリネズミのようだ。
「満足ですか?」
声はかすれ、憎悪を帯びる。「私をここに閉じ込め、母子が惨めに喘ぐのを見るのが、あなたの望みだったんですか?」
晶は見下ろし、答えず、突然、一見無関係な質問を発する。
「なぜ、白石華蓮を呼んだ?」
澪の瞳孔が収縮する。心臓が高鳴る。やはり、彼はすべて知っていた。
唇を噛み、顔を背け、答えを拒む。
晶は驚かず、バーカウンターへ歩き、ウィスキーをグラスに注ぐ。
氷がカチリと音を立てる。飲むでもなく、液体の回転をぼんやり見つめる。
「水をかき混ぜ、混乱を起こしたかったんだろう。私と彼女を衝突させ、その隙に逃げる、あるいは誰かにメッセージを送るつもりだった」
平静な声。ビジネスの分析のようで、澪の策謀を寸分違わず見抜いている。
背筋に冷たいものが走る。彼の前では、自分は透明だ。
「残念ながら」
振り返り、視線を再び澪に向ける。
「お前が選んだ刃は、鈍すぎる。そして、愚かすぎた」
澪は怒りに満ちて睨む。「そうです!私が愚かでした!でも、他に何ができたっていうの?!あなたに完全に支配され、ペットのように飼い殺しにされるのを待てと?!」
感情が噴出し、涙があふれる。「氷室晶、あなたは何をしたいの?隠していたことへの復讐?もう十分でしょう!どうすれば解放してくれるの?」
晶は見つめ、瞳に映る真実の苦痛と絶望が、冷たい氷の壁に微かな亀裂を走らせる。しかし表情はほとんど変わらない。
「解放?」
冗談を聞いたかのように繰り返す。「そして、息子を連れて五年間消えるのか?次の『氷室悠斗』を探すのか?」
「そんなことしない!」
声を張り、辱めと怒りで言葉を選ばない。「私と氷室悠斗は終わっている!コウちゃんは彼の子じゃない!」
「知っている」
突然、声が低く沈む。
一歩踏み出し、彼女に迫る。圧倒的な気圧が瞬時に包む。
「だが、次にお前が、別の男のために別の口実で、再び消えるかは知らん」
視線は刃のように鋭く、魂を切り裂く。
「望月結衣、私の前で信用は完全に崩壊している」
澪は言葉を失い、全身に絶望が広がる。五年の隠蔽、帰国後の策謀、何も残っていない。
彼女が力を失い、生気のない目をしたのを見て、晶は苛立ちを覚える。
彼は簡単に感情を揺さぶられる女が嫌いだ。
グラスを掲げ、中身を一気に飲み干す。辛辣な液体が喉を灼く。苛立ちは鎮まらない。
「自由が欲しいか?」
低く冷酷な声。「よかろう」
澪は顔を上げ、かすかな希望の光が宿る。
「その誠意と価値を見せよ。それと交換だ」
法廷の判決のように一言一言を落とす。「ここに留まることが、去るより意味があると証明しろ。私と息子にとって、お前がトラブルと嘘以外の何物でもないと証明しろ」
単なる監禁ではなく、忠誠と価値と引き換えに限定的自由を提示する残酷な取引。澪は真意を理解し、血の気が引いた。
晶は背を向け、階段へ。
「今夜は主寝室に寝ろ」
「息子をしっかり見ていろ。それが、今のお前の『価値』だ」
二階へ上がり、書斎のドアを閉める。
リビングには澪一人。
冷たい絨毯に座り、晶が残した「自由」をめぐる残酷な選択と向き合う。
書斎の晶は窓辺に立ち、重苦しい夜空を見つめる。タバコに火はつけず、眉間には理解できぬ鬱屈と揺らぎ。
階下で繰り広げられた涙と罵倒が入り混じった「生活の気配」に、わずかに魅了されていた。
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