part.3


水稀みずき……それが彼の本当の名前だった。


"すい"というのは、水という漢字から取ったのだろう。


澄んでいて涼やかで、触れるだけで指先に冷たさが伝わるような響き。


名前の音と漢字が、こんなにもひとりの人間の印象を左右することがあるのだと、そのとき私は初めて知った。


東京に住んでいるというその彼は、同い年の高校二年生だった。


でもその距離はあまりに遠くて、私にとっては見たこともない別世界の住人のように思えた。


それでも言葉を重ねるたびにその距離がほんの少しずつ、でも確かに近づいている、そんな気がした。


送ってもらった写真を見る限り、顔はかなり整っている方だと思う。


涼しげな黒髪の下から覗く二重の瞳はまっすぐで、覗き込まれるたびに心の奥を見透かされるような気持ちになる。


シュッとした鼻筋に、形の整った唇。


小さな顔にバランスよく並んだパーツは、まるで完成された彫刻のようだった。


おまけに身長も高くて、勉強もできて、空手とサッカーもやってきたらしい。


ひとりの人間に、どうしてこんなにいくつもの“特別”を詰め込めるのだろう。


神さまは配分を間違えたんじゃないかと、そんな言葉を思わず口にしてしまいそうになる。


私はそうして、水稀の情報をひとつひとつ丁寧に頭の中に並べていく。




「なんか、気まずくなるかなって思ってたけど……意外と平気だね」


水稀の声が、少しだけやわらかくなる。


くぐもっていた響きに、かすかな明るさが混ざるのが分かる。


水稀の口からぽつりと零れたその一言は、会話に積もった緊張をさらりと拭ってしまう。


「それは私が最初に質問たくさんしてあげたおかげだよ」


笑い混じりにそう言うと、通話の向こうでふっと息を吐くような笑いが返ってくる。


「まぁ……そういうことにしてあげてもいいけど」


「ねえ、素直に認めなよ」


「さすが、ちょー優しい」


「ちょっと、死ぬほど棒読みなんだけど」


「くくっ、ごめん」


そう言いながら水稀はふわりと笑った。


その音は柔らかいのにどこか芯があって、耳の奥に静かに沁みていく。


水稀の言葉には、どこか子どもみたいな軽さがある。


人をいじるのが好きなのか、それともただそうやって距離を測っているのか。


放課後にじゃれ合う小学生のように、私はその調子に呑まれていった。


そうして気づけば、会話は4時間も続いていた。


少しも退屈することなく、話題が尽きることもなく、時間というものがどこか遠くへ置き去りにされた夜。


「……そろそろ寝る?」


話がひと段落したところで、水稀は眠そうな声を絞り出すようにしてそう尋ねてくる。


眠気が混じったその響きに、こちらまでまぶたが重くなる気がした。


「うん、寝ようかな」


本当はもう少しだけ話していたかった。


だけどそんな甘い言葉は喉の奥で溶けてしまって、出てきたのは少し冷めた同意だけだった。


「んんー……」


小さく唸るような声のあと、通話の向こうは静かになった。


彼が本当に眠ってしまったのかどうかわからない。


しばらく耳を澄ませたまま、私は自分の頬にほのかな熱が残っているのを感じた。


ああ、笑っていたんだななんて、そんなことを今さら思う。


あたたかい声。


言葉が言葉らしく、ちゃんと届いてくる会話。


遠くにいるはずの誰かと、同じリズムで呼吸しているような感覚。


“楽しい”


その感情を、私は今までどこかに置き忘れていた。


それを水稀が、そっと拾って差し出してくれたような、そんな夜だった。


部屋の中は真っ暗で、外では誰かの夢が始まっているかもしれない。


時計は午前三時を示していたけれど、そんなものはもうどうでもよくなっていた。


私はそっと目を閉じる。


まぶたの裏に、彼の声の余韻が静かに残っていた。




"この人だーー"


私が探していた人は。


私の明日を変えてくれる人は、きっと…。



この人であって欲しい。



私はこの時、まだ痛いほどわかっていなかった。


願うことと叶うことのあいだには、果てしない距離が横たわっていることに__。



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