最終話 手順の名前

 2025年6月22日 正午12時12分


 半年前のあの夜から、少し経ったころ。彼が遺したバッグの中から、封のされていない茶封筒が見つかった。宛名は「カゾクへ」。角は柔らかく、油染みのそばに、見慣れた下手な字が並んでいた。


 今日は鍋の火を一段だけ弱めて、何度も読んだその手紙を、もう一度読む。みんなの手が止まらないくらいの、静かな声で。


「この手紙を読むころには、俺はもういないだろう」


 カリッ、と太いマーカーの音。ケンジがベニヤ板に「灯火 Kitchen」となぞり、花音ちゃんが横に「だれでも あったかいご飯」と丸い字で書き添える。誰かが端に「無料」と足し、養生テープで角を固定した。インクの匂いがカレーの湯気に混じり合う。


 私は列の先頭へ半歩進む。紙皿の白いご飯に、ひとすくいずつカレーをかけた。皿の角には×印を小さくつけ、風の当たらない端に置く。


「自分も、他人も、お前らの未来も、ひとりで抱えるな。頼っていい」


 スプーンの柄が拍を刻む。背の低い子が紙コップを重ね、長身の子が空き箱で風よけを増設する。私は「顔は撮らないでください。未成年がいます」と太字で書いた紙をテーブルの前に貼った。


「師匠のやり方を、三つだけ真似してくれ」


(だから、その師匠って誰なのよ)と、私は息を短く吸う。安全ピンで留めた古いマフラーの切れ端。あの冬の色だ。


「迷ったら、愛の方へ行け」


 列の外で女の子が紙コップを受け取り、顎だけを下げる。私はすれ違いざまにコップの縁を少し回し、熱が逃げない向きに直してやった。


「倒れたら、互いに起こせ。道を見失ったら、『だいじょうぶだ』と返せ」


 鍋の裏で、花音ちゃんが一度だけ深呼吸をした。目だけの合図。私はうなずき、手紙を胸に押し当てる。


「誰のせいでもない」


 後から書き足したような、少し乱れた文字。


 ×印のついたおむすびが輪の中心を回る。白い弧が繋がるたびに、皿が「コツン」と鳴った。


「助けを呼ぶべき時は、ためらうな。少し離れて落ち着け」


(三つじゃなかったの?)と、私はロール紙をびりっとちぎり、矢印を描いて「ならび口→」と書く。前ではケンジが「顔は撮らないで」の張り紙を二枚目に増やし、レンズの前へ静かに差し出す。足音が遠ざかり、スプーンの音が戻ってきた。


「火はひとつで足りる。分ければ増える」


 配膳台の陰で、雄太の妹の未来ちゃんが腰を下ろしている。折りたたみ式の鍵盤の赤いランプが、豆電球のように点いた。白い鍵盤に置かれた小さな指。私は知っている。その指先に、昔のゴム印のインクが薄く残っていることを。


「こわくても、扉をたたけ」


 もしこの手紙を、あの夜の前に読めていたら。私は何度もそう思った。ニュースは二つの事件を、別々のものとして報じた。


〈歌舞伎町で支援活動の二十代男性死亡—殺人事件として捜査〉。黒いミニバン。テレビ画面に映る赤いルート図。続けて、徒歩圏内で起きた、〈十代男性ビルから転落死〉のニュース。朝は「自殺か」、昼には「事故か」。どちらにも「捜査中」のテロップが重なっていた。


 花は積まれ、SNSのタグは燃え盛り、街の警備灯は増えた。だが、路地の温度は、ほとんど変わらない。


「名前を呼べ。命ごと、胸から胸へ。夢は飛ぶ」


 まだ話足りないというように、文字が紙の上を走っている。


「俺はお前らとずっと一緒に歩く。お前らの灯りは、ちゃんと見えている」


 私は手紙をたたみ、ポケットに戻した。


 未来ちゃんがピアノの準備を終え、花音ちゃんが一拍だけ息をためる。輪の内側へ、声が放たれた。


「君と歩む ひとすじの道 闇を裂いて I see your light」


 浅い鍵盤がカタカタと応え、小さな和音が湯気の温度に合わせてふくらんでいく。誰も手を止めない。代わりに「ありがとう」と小さな声が聞こえる。渡されたおむすびを、誰かが胸に当てた。


 余った紙皿が一枚、風に揺れる。席がひとつ空いていることを、誰も口にしないまま知っている。


「歩き続けろ。迷ったら、愛の方へ」


 私たちは、立ち止まらない。


 遠くで正午のサイレンが重なり、時計の数字が「12:12」を示した。風は冷たい。けれど、器の底はまだ熱い。私は鍋の縁の泡が静かにはじけるのを見て、配膳の列をもう一つ短く詰めた。


 灯は、モノの名前じゃない。手順の名前になった。誰かが落としても、また誰かが拾えるように。


 ここでは、それを家族と呼ぶ。

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君と歩む人のうた - Walking With You - はらぺこ僧侶 @Hungry-Priest

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