第28話 カタは、つけてくる

 2024年12月7日 午前7時10分


 濡れた路地で、俺は拳を開く。寒さで固まった指の節が、古い割れ目の場所を正確に思い出させた。


 殴るより、呑み込め。良弥の声が胸の奥で反響する。わかってる。だが、喉の奥はまだ唸っていた。


 無人の廃倉庫のシャッター脇に膝をつき、額に拳を当てる。鉄の匂い、埃、昨夜の雨が残した発酵しかけた湿気。胸の内側で激情の波が反転した。折れるな。折れたら終わりだ。自分にそう言い聞かせる。


 ポケットのスマホが震えた。画面に🍙❤がひとつ跳ね、すぐに既読の数が流れる。送り主はケンジ。ひび割れたハートが、針のように胸へ突き刺さる。(生きてる。まだ、回してる)


 間髪入れず、個別トークの通知。送信者は雄太。短い文が一行、光っては消えた。俺は画面を親指で固定し、ひとつため息をつく。記憶の中でネオンの端が滲んだ。路地、死角、黒いポロシャツ、香水。


 俺は彼女の名前を打つ。名字しか知らない。偽名かもしれないが、表示はそうなっている。送信。


 既読。一拍おいて、返信。


『ありがとう。カタは、つけてくる』


 反射的に通話ボタンに触れる。コールは一度鳴って、止まった。俺はすぐに短文を打ち込む。『単独はやめろ。三人以上で動け。合図は咳二回』。送信。


 既読はついた。だが、返信は来ない。まずい。悪い予感しかしない。


 彼女にもメッセージを送ったが、既読がつくことはなかった。


 俺は立ち上がり、拳を開いて夜風にさらす。古傷の割れ目から血が滲んだ。赤い点がコンクリートに三つ、間隔をあけて落ちる。痛みは、進むための合図だ。


「どうすりゃ良いんだよ……」


 薄青い光が路地の上に乗り始める。トー横へ小走りに向かうと、ビル風が顔を洗い、肺の奥の熱が少しだけ引いた。


 広場は白い自販機の光の中で、島のように浮かんでいる。肩を寄せるガキども、缶スープの湯気、L字に組まれた段ボール。「良弥、俺はどうすりゃいい?」


 足を止めた俺に、ケンジが安全ピンを突き出してきた。「足りないなら、使えよ」


 受け取る。冷たい金属を指で転がし、上着の裂け目を留めた。継ぎ当てでも、繋がる。


 視線の端で、翔太がコップの並びを半歩ずらす。花音は×印の包みをひとつ増やし、角を二度、軽く叩いた。麻衣が風の筋を読み、段ボールの角度を直している。


 俺は円の外周に肩を差し入れた。「夜回り、十五分で交代。三人以上で動け。合図は咳二回だ」


 ケンジが短くうなずく。「了解」


 手の中の安全ピンが体温で温まっていく。胸ポケットのスマホは沈黙したままだ。雄太の『カタは、つけてくる』という言葉だけが、指の内側で脈を打つ。間に合え。どこであっても、間に合ってくれ。


 俺はもう一度だけ拳を開き、掌を見た。継ぎ目だらけでも、握ればひとつになる。指を組んで、輪の隙間に差し入れた。


 朝の色が、ほんの少しだけ濃くなった。


 2024年12月7日 午前7時11分


 朝の低い光が、ビルの縁にうっすらと溜まっては剥がれ、巨大怪獣像の黒い眼窩に点のような光を宿していく。


 足元には段ボール。角は湿り、ガムテープが白く毛羽立っている。島の真ん中にはおむすびがひとつ、包み紙の角に小さな×印。


「分け合おう」


 中央で少女が掌を合わせるように包みを持ち上げ、声を張った。


 届くところまで、届かないところまで、その声は淡く伸びていく。輪の一番外で、十四歳の少年が紙コップを受け取った。顎だけを小さく下げ、唇は動かない。


 飲み口が額に影を落とし、壁に背を預けると、湯気の線はすぐに細くなった。


 少し離れた影の中で、古びたスマホがひとつ震える。さっき彼から届いた一行に、私は場所だけを返した。駅名と番線、そして時刻。名前は出さない。


 ピンは立てない。短い文字だけを送ると、既読が灯り、すぐに消えた。


 続けざまに、別の通知。石井からのメッセージが一瞬だけ光る。私は画面を掌で伏せ、未読のまま音だけを消した。


「こっち、空いてるよ」


 袖をひと折りまくった十六歳の少女が、パンを半分に割って隣へ先に差し出す。


 わたしの分は、もう必要ない。


 落ちた紙屑を拾って袋の口へ押し込み、風の通り道を一度だけ確かめる。その仕草は、もうすっかり馴染んだ段取りだ。


 米粒は二つに、四つに割れて、輪の中心をゆっくりと回る。白い粒の弧が繋がるたびに、誰かの喉が静かに上下した。


 あの夜も、たしかこんな風に始まった。ここには魔法はない。飢えと寒さという現実だけがある。だから、手を出す。半分にするのだ。


 後で足りなくなるとわかっていても、今は半分にする。


「顔は撮らないで。未成年がいるから」


 低く静かな声が、レンズの前に掌を差し出す。引き下がる足音、舌打ち。代わりに写されたのは、コップに映る白い湯気と、その手だけ。


 あいつがいないこの場所に、もう用はない。


 わたしは、もう残したから。あとは、ここから消えるだけ。


 段ボールのL字の陰で風をやり過ごし、×印の包みは風の当たらない角へ移された。誰かの不在のために、席が置かれる。


 ここにいると、声は風に千切れて、誰のものでもない音になる。


「……わたしたちの、せいだね」


 これだけを言って、私は彼のもとへ向かう。


 それはわたしの台詞じゃない。誰かが言ったセリフになる。誰かが受け取り、誰かが渡す。


 私はとあるビルの屋上で、彼を待つ。やがて彼はやってきて、私を見つめる。


「さあ、カタをつけましょう」と、私は言った。

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