第23話 裏切りじゃない

 2024年12月3日 深夜1時50分


 濡れた路地に立ち、拳を開く練習をしていた石井。殴るより飲み込む方が難しいことを、今夜は嫌というほどわかっていた。


 夜回りの二人、石井と大輝が通気口沿いの影をゆっくりと踏んでいく。石井はフードを指でつまんで角度を直し、角を曲がるごとに天井の黒いドームを一度だけ見上げた。


 大輝は非常口の赤いランプに手をかざして光の死角を確かめ、段ボールの切れ端で床の濡れをそっと跨ぐ。二つの影は広場の縁へと薄く伸び、ビル風に千切られながら遠のいていった。


 俺はその背中が見えなくなるまで見送り、出入り口側へ半歩だけ寄った。壁の掲示板には「禁煙」と「放置自転車」の張り紙。矢印のように人の流れが折れる、その角に自分の足を置く。


 ×印の包みが三つになっていた。花音は角を指先で二度、コツコツと叩き、目だけで「預かるね」と合図する。包みは段ボールの隅、風の当たらない場所へ重ならないように並べられた。


「通報された集落が、一晩で潰されたって噂、聞いたか?」


「ああ……らしいな」雄太が息を詰めるように続ける。「助けを求めても、家に帰されて終わりってこともある。……俺なんか、そのあと逆に親に殴られたぜ」


 良弥がため息をつき、唇だけで何かを呟いた。


 美咲が首元のマフラーの端をいじりながら頷く。「義父(あいつ)から逃げたときもそうだった。保護された子の友だちが、翌週にはいなくなったって聞いた。保護先が教えたはずの住所には戻らなかったって。誰かが売ったのかもしれない。私も、警察は怖いよ」


「通報で保護された子が、別の街で働かされてたって話も聞いた」と、別の仲間が続けた。


 俺は視線を逸らし、足を半歩ずらした。逃げ道を確認するように。言葉は会話の隙間に沈み、誰が発したものか曖昧なまま、広場の空気をじわりと冷やしていく。


 良弥は唇を結び、低く言った。「だから俺は武器を捨てる。分け合い、話し合い、そして、自分で決めるんだ」


「珍しくわかりやすいじゃん」俺が軽く突っ込むと、紙コップの縁がこつんと触れ合い、小さな笑い声が輪の内側を回った。


 広場は、確かにいつもの通りに動いていた。


 そのとき、雄太のポケットが小刻みに震える振動が、俺の耳にまで届いた。スマホの角ばった端が肋骨に当たり、わずかな痛みで彼の肩が揺れるのを、横目で見る。画面は覗いていない。雄太は親指で画面を押さえ込み、震えが止まるまで固まっていた。その沈黙がこちらの喉にも重くのしかかり、俺は唾を飲み込む音を聞かれないように奥歯を噛み締めた。


 2024年12月3日 深夜2時04分


 裏通りの公衆トイレ裏。俺は電柱にもたれかかり、冷たい鉄の感触を背中に受けながらスマホを握りしめていた。手は、まるで氷を握っているかのようにじんじんと痺れている。


 画面には、暗いアパートの一室で怯える十一歳の妹・未来が映っていた。細い手首には黒いテープが巻かれ、首筋には台所包丁の刃が鈍く光っている。背後を男の影が横切るたび、未来は肩をすくめた。その怯えきった表情が、俺の喉の奥に鉛の塊を押し込んでくる。


「お兄ちゃん、助けて……」 震える声が、スマホのスピーカーから直接耳元で囁かれたかのように響いた。それは、かつて自分も感じた絶望の響きそのものだった。


 その瞬間、追い打ちをかけるように別の通知が画面を弾いた。


〈ヨシヤを連れて来い。妹は返す〉


 分け合い、愛を選べと、家族とは何かを教えてくれたあの少年の名前が、呪詛のように脳内を駆け巡る。「愛を選べ」と良弥は言った。


 だが、目の前のこれは愛ではないのか? 妹を見捨てることの方が、愛ではないと言えるのか?


「け、警察……」と頭をよぎるが、「通報したら終わりだ」という冷たい囁きが耳の奥で繰り返される。警察を呼べば、みんなも危ない。


 思い浮かぶのは、夏祭りで焼きそばを頬張った未来、ランドセルを背負って笑っていた未来。


 離婚する両親の間で揺れながらも、もうすぐ母に引き取られ、暖かい台所で迎えるはずだった新しい日々……。その記憶が鮮明であればあるほど、良弥の優しい笑顔が、俺の心に重い鉄槌のように打ち付けられた。


 妹を父親の元に残し、自分だけが逃げ出した記憶が心を締め付ける。


「やっと、掴めるはずだったんだよ……」


 温かい居場所、信じられる仲間、そして何よりも、妹の未来。そのすべてが、この一通のメッセージによって綱引きのように引き裂かれようとしている。


 胸が焼けるように熱く、背中を冷たい汗が伝った。送信先の画面には名前もなく、ただ黒いアイコンが沈んでいる。胃の奥が重く疼き、指が震えた。


「これは……裏切りじゃない。裏切りじゃ、ない……」自分に言い聞かせ、喉の奥から絞り出すように呟く。


 その言葉は冷たい夜空に吸い込まれていった。震える親指で〈送信〉ボタンを押した。その指先が、まるで自分の良心を叩き潰すような鈍い感触を覚えた。


 画面を閉じても、良弥の言葉が耳の奥で響き続ける。俺は目を閉じ、最初に出会った夜を思い返した。あのとき、初めて他人から米をもらい、口の中が温かくなった。


 良弥の手は震える俺の手を包み込み、腹より先に心が満たされた。父親につけられた傷跡を見て笑わなかったのは、良弥だけだった。


「半分こ」は、俺にとってただの合言葉ではなかった。高校生にナイフを突き付けられた夕方、殴り返そうとした拳を下ろさせてくれたのも良弥だ。「刃に映る目を見ろ」と言った彼の声が、今でも耳の奥で木霊する。


 売春の誘いを受けた美咲に「ここでは絶対に体を売らない」と断言したのも良弥だ。あのとき俺は、この人なら妹を預けてもいいかもしれない、と本気で思った。誰かに対してそんなふうに思えたのは、生まれて初めてだった。


 それなのに、今夜、自分はその良弥を敵の手に渡そうとしている。心臓の鼓動が脳天を打ち、指が震えた。未来を守るためだと言い聞かせても、胸のどこかが裂けるような痛みに、これからずっと耐えなければならない。


『愛を選べ』と言った良弥の声と、『通報したら終わり』という冷たい囁きが脳内で絡み合い、俺の心をバラバラに引き裂いていた。良弥なら、きっと、自分の選択を責めないだろう。そう思うほどに、涙が喉に滲んだ。


 良弥の背中、火傷の匂いがするマフラー、青く滲んだ文字が書かれた包み紙。俺はそのすべてを裏切るのだと思うと、胸の奥の重りがさらに増していく。


 脳裏には、良弥の肩越しに見た夜空がよぎった。飢えと寒さの中で笑い合ったあの時間が、これほどまでに重くのしかかってくるとは思わなかった。


 黒田の男たちのやり口も知っている。殴られ、爪を剥がされ、身体の尊厳を奪われる。


 売春を拒んだ女の子が戻ってこなかった夜も、この目で見てきた。良弥を引き渡すことは、その残酷な輪の中へ彼を放り込むことだとわかっていた。なのに、俺は未来の細い手首のために、その業火の中へ彼を押し出そうとしている。


 それは、吐き気がするほどの選択だった。

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