第21話 途切れたリズム
2024年12月2日 深夜1時10分
ビル風が鳴るたび、足元から冷気が這い上がる。ここは現場だ。灯はまだ生きている。
冷え込んだ月曜の深夜。乾いた風が吹いているというのに、トー横だけが湿り気を帯びて重い。ブルーシートの端がぱたぱたと鳴り、発泡ス-チロールの蓋が時折「カタリ」と音を立てる。
箱の中には安売りのおむすび、値引きされたパン、紙コップ、そして逃げようとする湯気を抱えたポット。自販機の白い光に縁取られた半地下の島で、二十数名が三重の輪を作っていた。
俺は時計回りに輪の内側を歩き、ひとりずつ顔に明かりを当てるように視線を置く。今日は何人、腹が鳴るかで全体の調子がわかる。
「点呼するぞ。腹が鳴ったやつから名乗れ」
「は? そんな点呼あんの?(苦笑)」ケンジが眉をしかめるくせに、頬は緩んでいる。
直後、ぐぅ、と腹の音が夜気に響いた。
麻衣が肩で笑う。「お前かい」
「……違う、これは風の音……(照)」ケンジの言い訳は、風よりも弱い。
ダッキがポットを持ち上げ、耳元で湯の走る音を確かめる。「まず湯だ。凍える前に循環させる」
パッキンの軋みを親指で感じて増し締めし、根元を結束バンドで固定する。カチリ。応急処置。その手つきは完全に「現場」の人間だ。
「『循環』って言い方が工事現場っぽい」美咲が笑う。
「現場だよ。ここは現場だろ」ダッキは悪びれもせず、紙コップに湯を注いだ。湯気がその顔立ちを一瞬和らげる。俺はこういう瞬間が好きだ。
「今日は儀式なし?」雄太が半笑いで訊く。
「『命の汁』とか、あのちょっと怖い決め台詞?」と麻衣がつついた。
「おい、俺は毎回アドリブだぞ」俺は口角だけ上げて肩をすくめる。
「じゃ、今日はお湯で。『愛のお湯割り』といこうか」
「愛って……てか薄めんなよ、愛を」石井が即座にツッコむ。
「薄いのが長持ちのコツだぜ」俺は涼しい顔で、湯の入った紙コップを石井へ押し付けた。押す手は軽い。指先だけが確かな温度を残す。
風下に花音がいる。紫のコートの袖口から白い指先がのぞく。割ったおむすびを受け皿のように掌にのせて、「……半分、こ?」と訊ねた。声は細いが、以前より半音ほど太い。
「そうそう、半分こ。で、『こっちのがちょっとデカい』って言っとけ」俺は親指の腹で二つの重心を整え、気持ち多めの方を花音へ滑らせる。
「詐欺じゃん」翔太がぼそっと呟いた。
「ここじゃそれが礼儀なんだよ」と、俺は(知らんけど)と目だけでウインクして、翔太の手の中の半分をちょんと直してやる。翔太は見えない角度で口元を緩ませた。よし。
ポットの湯気が白く立つ。美咲が視線だけでポットを指すと、ケンジがもう手を伸ばしていた。「注いどく」蓋の遊びを親指で確かめ、七分目で止める。縁に沿って湯の線が静かに走った。
ダッキは無言で台の脚に足を添え、段ボールを一枚かませた。「揺れるとこだけ」と、ぼそりと独り言。台がぴたりと止まる。こういう細やかさが、命を助ける。
花音はおむすびを二つ脇へ滑らせ、包み紙の角に小さく×印をつけた。顔を上げた瞬間、美咲と目が合い、×の上に指を二回、軽く置く。合図は取れている。
「寒そうな子から先にね」美咲の声が空気に置かれる。翔太がうなずいてコップをそっと回した。ケンジが受け取り、縁を濡らさない角度で添える。
ケンジから翔太へ、翔太から花音へ、そして手の赤い少年へ。紙コップが移るたび、湯気が重なって薄い膜になる。ダッキが段ボールの角を押し直し、風がそれを越える前に美咲が小さく頷いた。少年は両手でコップを包み込み、指先で熱を確かめる。呼吸がひとつ、ほどけた。
「乾杯は?」雄太がふざけ半分で紙コップを掲げる。
「よし、任せろ」俺は手を上げ、輪をぐるりと見渡す。いつもここで、昔の定型句を忘れる。
「昔さ、えっと、こういうとき言ってたやつがあるんだよな。『天にまします……』なんだっけ。やべ、出てこねえ」自分で笑って肩をすくめた。
胸の高さでコップを掲げ、言葉を切り替える。「ここにいるみんなに。ここまで俺たちを連れてきた今日に。まだ来られない誰かの席にも。えっと……愛に、乾杯」
小さな触れ合いの音。湯気がほどける。笑いが一段落したところで、俺は息を整え、指先で合図して視線を集めた。
「で、今日の手順だ。俺がいなくても回るマニュアルな」空の手をひらひらと見せる。
「見えないんだけど(笑)」ケンジが即座に茶化す。「心で読むやつだ」俺は人差し指で空に項目をなぞった。
「まず、腹が減ってる顔を探す」美咲を見る。「次。先に声をかけられたやつが勝ち」ダッキを指す。「三つ目、『お前のほうが多い』って言っとけ」花音に目で合図を送る。「そして——最後、困ったら……」
「『愛を選べ』でしょ?」美咲が先に言った。
(先に言うなよ、恥ずかしいだろ)と視線を投げて、「『困ったら師匠に聞け』で」
「だから誰だって(苦笑)」ケンジが肩で笑う。師匠は師匠だ。それでいい。
首都高を走るトラックが橋脚を鳴らし、遠い空気の層が入れ替わった。冷えの角度が一段階変わる。
「見張りは二人一組。移動は三人以上。夜回り組は石井とダッキ。合流役はケンジ。花音はパンの仕分け。美咲は体調チェック。翔太は——」
「雑用でいい?」翔太が身構える。肩が少し上がりっぱなしだ。
「重要任務だぜ。ありがとうな」コップの縁をコツ、と指で叩いて合図する。静かな夜を、わざと賑やかに回していく。負けは、静けさから来る。
鳴け。腹減ったって言え。俺がいなくても回るように。ここは現場だ。今夜も、生きて帰るぞ。
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