第19話 冬の借り

 2023年10月28日 午後8時13分


「やめて!」


 ビニールのカーテンが薄く震え、赤いランプが一度だけ強く脈打った。小柄な二人が飛び込んでくる。


 前は黒いボブ。顎で切りそろえた髪、グレーのジップパーカー。左頬に古い痣。目が据わり、真正面からこちらを射抜いてくる。後ろはパーカーにパジャマ姿。色白で華奢だが、足は震えているのに止まらない。


 俺は目を細め、二人を舐めるように見る。花音とは似ていないが、試すように口角だけで笑ってやった。


「またお前か……。妹か? いや、前は妹なんていなかったよな?」


 黒ボブが即座に噛みついた。「関係ないでしょ」いい声だ。細いのに折れない芯がある。


「そう怒るなよ。仲良くやろうぜ。……それじゃあ、三人まとめて仲良くってのはどうだ? お前らならマニア客が群がるぞ」


 パーカーパジャマが半歩、床を踏みしめる。吐き気をこらえても退かない顔つきだ。「ふざけないで」舌は少しもつれているが、目は逸らさない。掴めば折れそうな細さだが、火種は宿っている。


 花音は丸椅子に座ったまま。片耳だけ外れたヘッドホンが膝に垂れ、指はコートの裾を摘んだまま力が抜けている。黒ボブが花音の前に半歩滑り込み、目だけで(動くな)と釘を刺した。


 そこで黒ボブが自分の上着を脱いで掛けようとして、袖がずるりと落ちた。内側に見える、黄紫の古い痣。いくつも薄く重なり、指の跡のような筋が肘の内側に沈んでいる。


 男の靴音に反応して、肩が一瞬すくむ。反射だ。家で殴られていた手合いか。こいつは餌ひとつですぐに落ちる。逃げ場を見せれば、自分から滑り落ちてくるタイプだ。


 口角が自然と上がる。花音は上着の襟を掴み直す力もなく、視線だけが宙を泳いでケーブルを探している。パーカーパジャマの目は引かないが、喉仏だけが小さく上下していた。


「はい、そこまでだ」


 入り口側から低い声。……刑事の田島か。ネクタイを緩め、両手はポケットの中。目だけが冷たい。こいつがここで一線を越える男じゃないことは、長い付き合いで知っている。


「別にガキどもだけがこの街のゴミじゃねえからな」吐き捨てるように言って、俺の肩を押す。至近距離で、唇だけが動いた。(引け)と。


「……何の真似だ、田島」舌で犬歯をひと撫でしながら、視線を二人の肩越しに奥へ送る。暗がりに、深緑のタータンがちらりと揺れた。


 冬の借りが、喉の奥に蘇る。


 黒ボブとパーカーパジャマが花音を囲んだ。「麻衣ちゃん……」花音が、まるで袖口に熱を残すかのように囁く。名前は拾った。覚える気はないが、使い道はある。


 田島が声を潜めた。「貸しは返したぞ。これ以上行くと俺も署も被弾するんでな」


 舌打ちをひとつ。「チッ、つまらねえ夜だ」手を引き、部下に目で通路を明けさせる。


 田島がもう一度、うんざりした顔で「本当につまらないことで呼ぶなよ」と吐き、出口を示した。三人は花音を挟んで暖簾へ向かう。布が揺れる直前、俺はもう一度だけ奥を見た。


「……またお前か。どこかで」


 タータンの気配は闇に沈んでいた。今夜はここまで。だが、次はない。

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