第17話 左右で挟む
2023年10月28日 午後8時8分
白い湯気が背中を押す。私は呼吸の拍を数え、花道通り側から身を細めて路地を覗いた。雨で看板は滲み、客引きの声は風に裂かれる。甘い香水とアルコールの層が鼻に重い。
紫のコートが、路地の光の円の中に一度だけ浮かび上がった。背の低い街灯の下にいるのは……花音ちゃんだ。
彼女は襟元を指で押さえ、ヘッドホンに触れかけた手が宙で止まっている。向かいには漆黒のオールバック。恐らく黒田だ。
傘も差さず、肩に落ちる霧雨を光らせながら口角だけで笑っている。革靴のつま先は路地の奥を向き、間合いを詰める歩幅がいやらしい。
私は植え込みの陰に半歩身を沈める。視線だけ右へ送ると、区役所通り側の電柱の影に、フードの庇だけが見える麻衣の姿。私は二本指で自分の目を示し、黒田の方へスッと滑らせた。麻衣が顎で「見えてる」と返す。
距離は十数メートル。声は届かないが、呼吸と身振りは読める。花音ちゃんの肩が小さく上下し、黒田が半歩ずつ距離を詰めていく。ここからなら、まだ先が見える。
紫の裾が一度、風に跳ねた。黒田が踵を返し、花音ちゃんを連れて角を曲がる。私と麻衣はすれ違いざまに顎で次の角を示し、距離を保って後を追った。角を二つ曲がるごとに人影はまばらになり、ネオンの帯がちぎれて、舗装の割れ目に雨水がたまる。
「会員制」とだけ彫られたプレート。半分だけ開いた鉄扉。中はコンクリート壁の狭い階段だ。非常灯の緑が床に浅い輪郭を落としている。空気は甘く重く、消毒液と安い香水、そして電熱の匂いが層になって喉に貼りついた。
階段の上で麻衣が一瞬立ち止まり、小さく息を呑む。私は唇を噛んだまま頷き返した。「もう戻れないよね」と視線で確認し合い、互いに片手を握り、もう片方の手で手すりを掴む。下へ行くほど、足音の数が増える気がした。暖簾の縁が揺れている。私は肩を落として重心を低くし、呼吸をひとつ、ゆっくりと吐いた。
「行く」
ビニールの暖簾をくぐると、低いビートと作り笑いの女声が鼓膜を撫でた。黒革のソファ、低いテーブル、細い通路。吊られた小さな電球が、毛羽立ったカーペットと靴の跡を鈍く照らしている。壁の黒いドームカメラは、どこを見ているのかわからない。
通路の奥、ビニールカーテンの内側に丸椅子。そこに花音ちゃんが座らされていた。ヘッドホンは片耳だけ外れ、コードが膝に垂れている。
指はコートの裾を摘んだままで、力がない。喉仏が一度だけ上下して止まった。目の前でタブレットを構えた男が白い歯を見せる。「すぐ終わるから。名前と年齢、源氏名は適当で大丈夫。ね、写真一枚だけ」
横で黒田が襟を指で弾き、「実習だと思え」と肩を軽く叩いた。そのつま先は、さらに奥の仕切りの向こうを向いている。
私は一歩、麻衣と同時に前に出た。黒いポロシャツのスタッフ二人が音もなく滑り出て、通路を塞ぐ。指輪、香水、薄ら笑い。胸の奥で数えていた拍動が、ひとつ速くなった。
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