第13話 DMのブロックは解除しとけよ

 2023年5月30日 午前4時41分


 霧雨とポットから立ち上る湯気が混じり合う夜、わたしは耳で刻む拍を探し続けた。言葉を交わさずとも伝え合えるものがあると知った夜だ。


 わたしは鼻歌をかすかに漏らしながら、パン屋の廃棄袋を抱えて路地を急いでいた。パンの甘い匂いに混じってアルコールと妙に甘ったるい香水が漂った瞬間、腕を掴まれた。


「あ? お前……」


 振り向くより早く、あの黒田の顔が視界を占拠した。街灯に照らされた瞳は夜獣のように細く、口角は嗤いを浮かべた弧を描いている。


 声にならない昏い感情が、わたしの心を覆った。


「お前なら働きゃ秒で稼げるぜ? 三十分で五万、いや八万か。あれ? お前、何歳になった? どっちにしてもバレねぇから大丈夫だ」


 笑うのは呪死連合の黒田。わたしの呼吸は細くなり、声の出ない喉が空回りするのを感じる。


 そのとき、わたしよりも小さな影、麻衣ちゃんが駆け込み、黒田の肩を強く突き飛ばした。


「この子は渡さない! 私たちは売られない、買われない!」


 麻衣ちゃんの怒声と同時に、乾いた平手打ちの音が路地の闇を裂く。白い頬に紅が滲む。それでも麻衣ちゃんは一歩も退かず、普段は見せない鋭い視線で睨み返した。


「なんだお前、この女の仲間か?」黒田の声は低く嗤いを含み、わたしの手元へ視線を落とす。


 スマホの画面は真っ黒。電源は切れているはずなのに、まるで秘密を映す鏡のように街灯の光を映し込んでいる。


「DMのブロック、解除しとけよ」


 わたしは震える指でスマホを握り直す。だが、声は出ない。


「は? 何言ってんの?」麻衣ちゃんが鋭い目つきで睨み返し、肩を震わせながら半歩前へ出る。飛びかかろうと身構えた、その瞬間。


 路地の入り口、闇と光の境に誰かの影が揺れた。タータン柄のマフラーがかすかな風に揺れ、彼はゆっくりとこちらへ歩み寄る。


 良弥が、静かに告げた。「殴られたら、もう一度まっすぐ見ろ。大丈夫だ。やり返すな。お前の心までは奪えない」


 肺がきゅっと縮み、膝が勝手に折れた。麻衣ちゃんは平手打ちの跡に掌を当て、指先だけが小さく揺れる。黒田は舌をひとつ鳴らし、踵で水たまりを跳ね上げて闇に溶けた。


「全然駄目だ……私……」麻衣ちゃんが俯いて呟く。


 平手の痕が熱を放ち、悔しさが涙に変わる寸前。良弥は膝を折り、麻衣ちゃんの視線と同じ高さで口を開いた。


「言っただろ。『分け合え』だ」彼は言葉に力を込める。「飯だけじゃない。痛みも、夜も半分こだ。その重さ、俺にも持たせろよ」


 麻衣ちゃんは少し呆れたように、しかし、わずかに笑顔を作って拳を握りしめた。

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